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第五話 もう、あなたの部下じゃない


 翌朝、採掘場の事務所へ着くと、入口に青い社用車が止まっていた。


 車体に描かれた鳥のマークを見るだけで、背筋が伸びる。


 遅刻したわけではない。約束の時刻まで、まだ十分ある。


 それでも俺は、携帯で時間を確かめずにはいられなかった。



「瀬尾?」



 工具箱を持ち直したところで、背後から声がした。


 振り向くと、車の脇に黒崎が立っていた。片手に缶コーヒーを持ち、俺の顔から作業着へ、ゆっくりと視線を下ろす。



「お前、何やってんだ。こんなところで」



 低い声も、顎を少し上げて人を見る癖も、変わっていなかった。



「……修理の依頼で、来ました」


「修理?」



 黒崎の目が、工具箱へ落ちた。


 次いで、口の端が持ち上がる。



「ああ。次の会社でも、道具運びか」



 違います、と言おうとした。


 だが、その一言を出す前に、事務所の扉が開いた。



「瀬尾さん。おはようございます」



 小田さんが書類を手に出てくる。俺と黒崎を見比べ、不思議そうに首を傾けた。



「お知り合いでしたか?」


「うちにいたんですよ、こいつ」



 俺が答えるより先に、黒崎が口を開いた。



「一年で辞めちゃいましたけどね。で、今日はどこの業者さんの手伝い?」



 小田さんの表情から、笑みが消えた。



「今回、修理をお願いするのは瀬尾さんです。昨日、故障箇所を調べていただきました」



 黒崎が俺を見た。


 さっきまでの薄笑いが、少しだけ形を変えた。



「……小田さん。ちょっと、お話いいですか」



     *


 事務所の机に、昨日の見積書が置かれた。


 俺の名前の横には、小田さんの承認印が押されている。


 黒崎は向かいの椅子に腰掛け、その紙を指先で引き寄せた。



「八十万?」



 声が大きくなった。



「瀬尾、お前。ずいぶん立派な商売するようになったな」



 俺は膝の上で手を握った。


 自分で書いた金額だ。昨日、澪とも確認した。小田さんも了承している。


 それでも、黒崎に読み上げられると、何か悪いことをしたような気持ちになった。



「こちらが提示した成功報酬です」



 小田さんが、見積書を机の中央へ戻した。



「部品代も含め、説明を受けています」


「説明ねえ……」



 黒崎は椅子にもたれ、俺へ目を向けた。



「お前、またスキルで見えたとか言ってんのか」



 耳の奥で、昔の作業場の音がした。


 机に置かれる機械。転がるねじ。俺の説明にかぶせられる、ため息。



「故障箇所を見つけたのは、スキルです。でも、そのあと――」


「だから、それに頼るなって教えただろ」



 最後まで聞かないところも、同じだった。



「俺たちが何年この仕事をやってると思ってる。機械はな、ちょっと触って分かった気になるほど簡単じゃないんだよ」



 俺は口を閉じた。


 隣で、小田さんが身じろぎする。



「黒崎さん。瀬尾さんの調査結果を───」


「小田さんも、安いからって飛びつくと危ないですよ。動けばいいってもんじゃない。事故が起きてからじゃ遅いんですから」



 その言葉には、俺も反論できなかった。


 修理したつもりで、余計に壊すことはある。だから確かめる。だから道具も買った。


 俺は工具箱を開け、昨日まとめた記録を取り出した。



「……これを、見てください」



 紙を差し出すと、黒崎は眉を寄せた。



「何だよ」


「切れている線の写真と、測った結果です。本体が壊れているという報告とは、違います」



 声は小さかったが、最後まで言えた。


 黒崎は写真を一瞥した。



「こんな一か所だけ調べて、全体が分かるわけないだろ」


「はい。だから交換したあと、動作も確認します」



 俺は次の紙をめくった。



「荷物を載せずに動かして、そのあと実際の荷物で確かめます。小田さんにも立ち会ってもらいます」



 机の上に並んだ紙を、小田さんが手元へ寄せた。



「昨日、こちらの手順も説明していただきました」



 黒崎が口を閉じた。


 しばらくして、俺へ向き直る。



「瀬尾。ちょっと外に来い」



 椅子を引きかけて、足が止まった。


 昔なら、立っていた。


 呼ばれたらついていく。それが当たり前だったからだ。


 黒崎はすでに立ち上がり、扉へ顎を向けている。



「聞こえなかったか?」



 俺は机の見積書を見た。


 そこに書かれているのは、『北辰設備』の名前ではない。


 『瀬尾律』。


 俺の名前だった。



「……仕事の話なら、ここでお願いします」



 黒崎の目が細くなった。



「何?」


「小田さんにも、聞いてもらいたいので」



 膝の上で握った手が、汗ばんでいた。


 黒崎は俺を見下ろしたまま動かなかったが、小田さんが立ち上がると、そちらへ顔を向けた。



「お引き取りの機材は、入口にまとめてあります。修理については、瀬尾さんにお願いします」


「うちは、責任持てませんよ」


「御社に今回の修理の責任をお願いするつもりはありません」



 小田さんの返事は静かだった。


 黒崎は机に置いた写真へ目を落とし、鼻から短く息を吐いた。



「……勝手にしろ」



     *


 地下へ下りる前に、携帯を確かめた。


 澪から、少し前にメッセージが来ている。



『部品、忘れてませんか? 新しい道具に気を取られてそうなので』



 思わず工具箱の中を見た。


 ある。


 昨夜、最初に入れた袋だ。



『あります。今から修理します』



 送ると、すぐに返事が届いた。



『はい。お仕事、お願いします』



 俺は携帯をしまい、荷台の前へ歩いた。


 黒崎はまだ帰っていなかった。回収した機材の横に立ち、こちらを見ている。


 その視線に、肩が強張る。


 けれど今日は、机へ機械が運ばれてくるのを待たなくていい。何を調べ、どこを直すかは、もう決めてある。



「小田さん。作業を始めます」



 返事を確かめ、制御盤の前へしゃがんだ。


 俺は工具箱から、新しいレンチを取り出した。


 黒崎は相変わらず機材の横に立っている。


 ヤツは腕を組み、こちらへ顎を向ける。わざわざ引き取りの手を止めてまで見ているらしい。



「壊してから泣きついても知らねえぞ」



 そんな小言が聞こえていたが、返事はしなかった。生返事すら面倒になったのだ。


 手袋を外し、蓋に触れる。内部へ広がった淡い光の中で、昨日と同じ線が赤く浮かび上がった。


 故障箇所は変わっていない。


 俺は小田さんに電源の停止を確認し、工具箱を開けた。


 作業を始めると、黒崎の視線は気にならなくなった。傷んだ線を外し、用意してきたものに交換する。引っ張られて同じ場所が切れないよう、少し余裕を持たせて固定した。


 最後に、テスターを当てる。



「……!!」



 昨日は異常を示していた表示が、正常な範囲へ戻っていた。



「小田さん。こちら、見てもらえますか」



 呼ぶと、小田さんがすぐ隣へしゃがんだ。俺は昨日の記録と、今の表示を並べて見せる。



「数値は戻りました。これから動かして確認します」


「……もう、交換は終わったんですか?」


「はい」



 背後で、靴底が床を擦る音がした。


 黒崎が腕をほどき、こちらへ近づいていた。



「数値だけ戻ったって、動くとは限らねえぞ」



 俺は蓋を閉め、使った工具を箱へ戻した。



「はい。なので、これから確かめます」



 小田さんに周囲の人を下がらせてもらい、荷台に何も載っていないことを確認する。


 電源を戻すと、制御盤の表示が順番に点灯した。


 黒崎の目が、その光を追った。


 俺は起動ボタンを押した。



「……ッ!!」



 低い音が、足元から伝わってきた。


 止まっていた荷台が、ゆっくりと動き出す。車輪がレールをつかみ、巨大な床が照明の下を滑っていった。



「……動いた」



 小田さんがつぶやいた。


 少し離れた場所で台車を押していた作業員も、足を止めていた。


 俺は荷台が所定の位置で止まるのを待ち、もう一度、今度は戻す操作をした。行きと同じ速さで戻ってきた荷台が、俺たちの前へぴたりと収まる。


 その向こうで、黒崎が口を開けていた。



「うっ……嘘だろ……?」



 さっきまで俺を見下ろしていた目が、荷台と制御盤の間を忙しく往復している。何か言いかけた唇が動いたが、その先は聞こえなかった。


 俺は何も言わなかった。


 ただ、自分の口元が、勝手に緩んでいくのが分かった。



 ――動いてますけど。



 喉まで出かかった言葉を飲み込み、制御盤へ顔を戻した。小田さんまでいる前で、にやけた顔を見られるのは、さすがにまずい。



「次は、荷物を載せて試します」



 声だけは、普段どおりに出せたと思う。



     *



 鉱石を載せた荷台は、そのあとも問題なく往復した。


 確認を終えると、小田さんは俺の手を両手で握った。



「ありがとうございます。これで、みんなを早く帰せます」



 作業員たちが、待ちかねたようにコンテナの周りへ集まってくる。その声を聞きながら頭を下げると、小田さんは黒崎へ向き直った。



「黒崎さん」



 呼ばれた黒崎の肩が、わずかに跳ねた。



「御社の『復旧不能』という報告については、改めて説明をお願いします。こちらとしては、二千四百万円の工事を頼むところだったので」


「いや、それは……。現場の判断として、安全を優先した結果で」



 詰問するような鋭い視線に身を縮こませながら、黒崎は苦しい言い訳を口にし始めた。



「では、何を確認して、交換が必要と判断されたのか。記録と一緒にお願いします」



 黒崎は、手にしていた機材の取っ手を握り直した。


 俺はその横で、制御盤に下がっていた赤い札を外した。



【復旧不能】



 昨日までは、重たく見えた四文字だった。


 しかし今はただ、作業の終わった機械にぶら下がっていた、古い札でしかなかった。

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