第三話 工具箱の、その先
工具店の紙袋を抱えて帰る途中、俺は三度、中身を確かめた。
新品の計測器。三万六千円。
半年間、商品ページを眺めては閉じていた道具が、今は自分の腕の中にある。
アパートの階段を上がり、部屋の鍵を開ける。玄関で靴を脱ぐと、紙袋を胸に抱え直して、床に広げた洗濯物をまたいだ。
六畳の部屋には、布団と小さな机。それから、壁際に工具を詰め込んだ棚がある。
俺は机の上の食器を流しへ運び、空いた場所を拭いてから箱を開けた。
新しい計測器を、古いものと並べる。
擦り切れた持ち手も、薄くなった表示も、見比べると随分ひどかった。
「……今まで、よくもったな」
古いほうを布で包み、棚へ戻す。だが、空いている場所がない。
予備の部品を右へ寄せ、軍手を工具箱へ移し、どうにか一台分の隙間をつくった。
次に何か買ったら、どこへ置こう。
棚の前にしゃがんだまま考えていると、携帯が震えた。
『買えました?』
澪からのメッセージに写真を返すと、すぐに通話がかかってきた。
「……もしもし」
『おお、本当に買ってる。使うの、楽しみですか?』
電話越しでも彼女がニヤニヤしているのが分かった。
「まあ、それなりに」
『写真、三枚も送ってきましたよ』
正面と横……それに工具箱に収めたところ。これで合計三枚だ。
なるほど。確かに一枚でよかったのかもしれない。
俺が黙ると、受話口の向こうで澪が笑った。
『ところで、後ろに写ってるのって、律さんのお部屋ですか?』
「そうです」
『工具、こんなにあるんですね』
俺は棚へ目を向けた。
部屋に遊びに来る友達なんていない。普段見慣れている光景を、誰かに見られたと思うと、急に散らかっているのが気になった。
「置く場所がなくて。修理で預かったものまであると、布団を敷くのも面倒なんです」
『寝る場所まで?』
「寝返りで部品を蹴ったこともあります」
その晩は、なくなったねじを探して夜中まで眠れなかった。
澪は笑いかけて、少し遠慮したように声を落とした。
『作業する場所、別に欲しいですね』
「……いつかは」
返事をしてから、机の脇に挟んだ紙へ目が向いた。
近所の不動産屋でもらった、古い一軒家の案内だった。駅からは遠いが、一階に広い土間がある。仕事場として使えるか尋ねるところまでは行けず、そのまま持ち帰ったものだ。
「一軒家を借りられたら、一階を店にしたいんです。大きな作業台を置いて、預かったものを並べる棚もつくって」
そこまで言って、口を閉じた。
聞かれてもいないことまで喋ってしまった。頭をかきながらバツの悪さをごまかす。
『二階に住むんですか?』
澪の声に、俺は顔を上げた。
「はい。そしたら、布団の横に機械を置かなくて済むんで」
『いいですね。ちゃんと眠れそう』
笑われると思っていたので、続ける言葉がすぐには出てこなかった。
俺は物件の紙を引き出し、折れた角を指で伸ばした。
「まあ、まだ先です。借りるにも金が要るし、毎月仕事が来るかも分からないんで」
『じゃあ、次の一件ですね』
澪がそう言うと同時に、資料が届いた。
【旧採掘区・搬送装置復旧】
【成功報酬:八〇万円】
写真には、鉱石を載せる大きな荷台が写っていた。周囲にはコンテナが積み上がり、作業員が狭い隙間を歩いている。
『これが止まって、採った鉱石を外へ運べないそうです』
「……一度、見ないとですね」
『下見についても聞いてあります』
続けて届いた条件を読み、俺は指を止めた。
【現地調査費:一万円】
【交換部品代:別途相談】
「見るだけでも、お金が出るんですか?」
『行く時間も、調べる時間もかかりますから。先方も了承してます』
俺はもう一度、一万円という文字を見た。
直せなければ、交通費ごと持ち出しになるものだと思っていた。
「……ありがとうございます」
『明日なら、管理責任者の小田さんが案内できるそうです』
「行けます。あの、それと───」
通話が終わる前に、聞いておかなければならないことがあった。
「澪さんの分は、どうするんですか。連絡とか、やってもらってるんで」
受話口の向こうが、一瞬静かになった。
『私からも相談しようと思ってました。今回、窓口を担当して、成功報酬の一割でどうですか?』
「八万円ですか」
『はい。部品代や交通費は含めずに。下見の一万円も、現場へ行く律さんの分です』
俺の手元には、七十二万円が残る。
もちろん、直せたらの話だ。けれど、一人では見つけることすらできなかった仕事だ。
「お願いします」
『こちらこそ。条件は文章でも送りますね』
俺は物件の案内を机の端へ置き、その隣に明日の持ち物を書き始めた。
*
その日の夕方、俺は近所で作業着と安全靴を買った。
古い靴は底に穴が開きかけていたが、雨の日だけ気をつければいいと、ずっと買い替えを後回しにしていた。
新しい靴でアパートまで戻る。
「……うん!!」
階段を上る足がしっかりしていた。
部屋で工具を詰め直していると、澪から追伸が届く。
『前の業者さんは、修理できないと判断したそうです。詳しい報告書は現地で見せてもらえます』
俺は荷台の写真を開き直した。
誰かが直せないと言ったことと、本当に直せないことは、同じではないはずだ。
工具箱を閉め、玄関へ運ぶ。
戻ってきて、物件の案内を棚の奥へしまいかけた。だが──
「……」
少し考え、机の横の壁へ貼っておくことにした。
写真の中の土間は、がらんとしている。
───ここに作業台を置いたら。
───その奥に、工具の棚を並べたら。
俺はしばらく写真を眺め、それから明日の目覚ましをセットした。




