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第二話 九百八十円の贅沢



 三十万円が入った翌朝、俺は机の上に請求書を並べていた。


 アパートの家賃が六万円。支払いを待ってもらっていた部品代が二万八千円。電気、水道、通信費。


 一つ振り込むたびに、携帯の画面から数字が減っていく。


 いつもなら胃が痛くなる光景だった。だが今日は、支払い済みの紙を重ねるたび、肩から何かが剥がれていくような気がした。


 全部払っても、二十万円ほど残っている。


 俺は空いた机を眺めた。


 請求書に隠れていた木目を見るのは、久しぶりだった。


 携帯が震えたのは、そのときだ。



『骨は無事でした! しばらく探索はお休みです』



 澪からだった。さらにもう一度通知が鳴る。これも澪からだ──どこかの店の地図?



『依頼の資料についても話したいので、お昼どうですか?』



 俺は棚の食パンを見た。


 今日の昼飯は、あれで済ませるつもりだった。けれど、三十万円を受け取れたのは彼女のおかげだ。礼も言わずに断るのは、さすがにどうかと思う。



『行きます』



 とだけ打って返信を送ろうとしたが……流石に短すぎる気がして、少し考えてからこう付け足した。



『ありがとうございます』



     *



 定食屋の引き戸を開けると、揚げ物の匂いが鼻をくすぐった。


 入口に近いテーブルで、澪が手を振っている。右足には固定具をつけ、杖を壁に立て掛けていた。



「足、大丈夫なんですか?」



 首を軽く前に倒し、申し訳程度の会釈。そのまま彼女が腰掛けているテーブルに歩み寄ると、椅子の背もたれに手をかけながら俺は尋ねた。



「今日はタクシーです。ここで食べたら帰ります」



 俺が向かいへ座ると、彼女はメニューを差し出した。



「律さん、何にします?」



 写真の横に並ぶ数字を、上から順に追った。


 生姜焼き定食、八百八十円。唐揚げ定食、九百円。


 かけうどん、五百二十円。



「……うどんで」



「早いですね。私、まだ迷ってるのに」



 澪がメニューをこちらへ傾けた。その一番上に、大きなとんかつの写真が載っている。きつね色の衣の下から、厚い肉の断面がのぞいていた。



 九百八十円。



 うどんとの差は、四百六十円だ。


 食パンなら何袋買えるか考えていると、澪が俺の顔をのぞき込んだ。



「そっち、食べたいんじゃないですか?」



 澪のスキルの欄に【テレパシー】なんて記載はなかったはずだ。



「いや。うどんのほうが安いんで」


「でも、さっきからとんかつ見てますよ」



 そんなに見ていただろうか。


 俺はメニューから手を離したが、澪は笑ったまま、それを閉じようとはしなかった。



「今日は千円まで、って決めたらどうですか?」


「千円……?」



 俺は疑問符を浮かべた。



「その中なら、好きなものを選んでいいことにするんです」



 もう一度、値段を見る。


 九百八十円は、千円より安い。


 当たり前のことなのに、そう考え直すまでに少し時間がかかった。


 澪が隣の空いたテーブルの拭き掃除をしていた店員を呼ぶ。



「生姜焼き定食を一つ。律さんは?」



 俺はメニューの端を握り直した。



「……とんかつ定食、お願いします」



 注文を終えると、澪は何も言わずに水を飲んだ。大げさに喜ばれなかったことに、なぜか少しほっとした。



「家賃とか、払えました?」



 彼女に聞かれ、俺はうなずいた。



「全部払いました。でもまだ残ってますよ。三十万円も手に入ったんですから」


「よかった。次は何に使います?」



 澪は二杯目の水をコップに注ぎながら俺にそう尋ねてきた。



「道具ですかね。買い替えたいのがあるんで」



 俺が携帯で商品写真を見せると、澪は値段を見て目を丸くした。



「三万六千円」


「ずっと使えますから」


「とんかつには、あんなに悩んだのに」



 言われてみれば、そうだった。


 俺が黙ると、彼女は小さく吹き出した。



「律さんの中で、優先順位がはっきりしてるんですね」


「道具が駄目だと、仕事にならないんで。会社にいたときから、自分で揃えてました」


「前は会社勤めだったんですか?」



 俺は携帯を伏せた。



「大学を出て、一年くらい」



 作業場の匂いが、ふと鼻の奥によみがえった。


 毎朝、台車で運ばれてくる機械。俺の仕事は、その外側のねじを外すことだった。中身を先輩へ渡し、戻ってきたら蓋を閉める。


 それを、一日中繰り返す。



「修理は、させてもらえなかったんですか?」



 澪が、コップを置いてそう聞いてきた。



「新人は、まず手を動かせって」


 

 澪が黙って続きを待っていたので、俺はコップの水滴を指で拭った。



「一度だけ、スキルで壊れてるところを見つけて、言ったことはあります」



 いつもの作業中、掌に触れた機械の奥が赤く光った。先輩たちは本体を丸ごと交換すると話していたが、俺には、小さな部品だけを直せば動くように見えた。


 役に立てると思った。


 だから上司のところへ行き、見えたものを説明した。



『お前のスキルの説明はいらない』



 最後まで聞いてはもらえなかった。



『俺たちには職人としての目利きってもんがあるんだ。お前みたいにスキルに甘えてたら、いつまで経っても一人前にはなれないぞ』



 説教が終わる頃には、俺の作業台に、蓋を開ける前の機械が三台増えていた。



「……それからは、言われたねじだけ回してました」



 澪の視線が、テーブルに置いた俺の手へ落ちた。


 指先には、昨日の修理でついた細かい傷が残っている。



「でも、昨日は扉を直しましたよね」


「まあ、あれは──」


「線をつなぎ直したのも、律さんです。スキルが勝手にやってくれたわけじゃないでしょう?」



 顔を上げると、碧い目がまっすぐこちらを見ていた。


 返事を探している間に、店員が盆を運んできた。



「とんかつ定食のお客様」



 目の前に置かれた皿から、揚げたての匂いが立ち上る。写真よりも大きな肉を見て、俺は思わず背筋を伸ばした。



「……いただきます」



 一切れかじると、衣がさくりと崩れた。内側から熱い肉汁が広がり、慌てて白い飯を口へ運ぶ。



 うまい。



 次の一口を取ろうとして、向かいの澪が笑っていることに気づいた。



「何ですか」


「そっちにしてよかったですね」



 俺は口の中のものを飲み込んでから、うなずいた。



「……はい」



 食事を終え、千円札で会計を済ませる。


 戻ってきた二十円を財布へ入れても、今日は損をした気がしなかった。


 店の外で、澪が杖をつきながら端末を開いた。



「八十万円の依頼、詳しい資料を送ってもらえるそうです」


「分かりました。見ます」


「じゃあ、私も読んでおきますね」



 彼女をタクシーへ見送り、俺は工具店の商品ページを開いた。


 半年間、値段だけ確かめて閉じていた画面だ。


 今度は、在庫を問い合わせるボタンを押した。


 携帯をポケットへしまい、帰り道を歩き出す。腹も膨れたし、今日はいい気分だ。いつもは重たく感じる坂道も、足がすんなり前へ出る。



「こんなに気分が晴れたの、あの会社を辞めた日以来だな……」



 口にしてから、わざわざ思い出すこともなかったと苦笑した。


 まあいい。あんな会社とは、もうおさらばしたんだ。あいつらとも二度と会わないだろうし、忘れよう。



 俺は顔を上げ、店へ続く角を曲がった。



 ――まさか、その「次の仕事」で、あいつらと再会することになるとは。



 このときの俺は、まだ知らなかった。

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