第六話
手記は全部で八回に分けられていた。
読み終えたとき、私はなんとも言えない気持ちを抱えた。
おそらく、書き手は八回目の記録を最後に、実際に海に入っていったのだろう。そして二度とこの小屋に戻って来なかった。
彼がそれで不幸でなくなったのかはわからない。手記のとおり怪物に押し潰されたり、あるいは喰われてしまったのかもしれない。それが幸福への道かは、定かではないが……
ただ、書き手のことが気の毒だと思った。
彼がこのような道を歩まずに済む、救済は本当になかったのだろうか。手記を読み終えたあと、私は思案を巡らせたが、すぐにやめた。
太鼓と笛の音が聞こえてきた。私はすぐに海を見た。
陽は水平線に沈んでいた。茜色の光が海も空も覆っていた。
海には本来あるはずのない行燈と、青白くて丸い灯りが沖の上に浮いていた。
手記に書いてあったことと同じだ。囃子は沖から聞こえてきているはずだが、音の出どころがわからなかった。
目を凝らして探していたところ、地面が大きく揺れた。転んだ拍子に頭を打ったりしないよう、私は地面に伏せた。
呻き声だろうか。母校の教室で掃除をするときに、教科書を入れたまま机と椅子を三席分ほどまとめて引きずった時のような……或いは、古いフローリング床の上で滑り止めが古くなった椅子を引きずるような……
それでいて、腹の内側から揺さぶられるような轟音だった。
大きく激しい波の音と共に、大きな物体が現れた。ザトウクジラのように黒い胴体の先端に、人の顔のようにパーツが配置されていた。
私はすぐに、手記に書かれた怪物だと気がついた。それと同時に、その特徴に該当する妖怪を思い出した。
日本の海に出没する巨大な妖怪といえば、有名なものがあるだろう。黒くて丸い禿げた頭に、大きくてクリクリとした目がついていて、一説には船を襲うと言われていた妖怪。
海坊主だ。
もっとも、私が知っていた海坊主はもっとゆるキャラのようなデフォルメされた可愛さがあったが……だが、実際に目の当たりにするなら、まさにこんな感じなのだろうと私は思った。
海坊主が叫んだ。さっきの呻き声よりもとても大きい。空を裂きそうなほどの轟音だった。
海坊主が暴れた勢いで、海の水がわずかに岩場に入ってきた。押し寄せた海水は力強かった。もし立ち上がっていたら、倒れていたかもしれないほどだった。
私は海岸から距離を置くために、森の方に逃げようとしたが、中腹で足を止めてしまった。
当時、私は森が蠢いているように見えた。怪物が叫んだ勢いで、実際に動いていたのかもしれないが、当時の私は冷静に分析する余裕がなかった。
信じられないかもしれないが、私は森の蠢きが、生物的に見えたのだ。もっというと、それが生き物の喉奥に見えたのだ。私は舌の上に乗っていて、海岸側に積まれている岩は歯に見えた。
つまるところ、当時の私は既に誰かの口の中にいると錯覚していた。そのときどこに逃げ出すか。当然、私は口の外だ。
結局、私は海坊主と相見えた。
海岸沿いに積まれていた岩が、海坊主の叫び声で転がされ、先ほどまで下敷きになっていた瓦礫が露わになっていた。
海坊主は私のことを疎ましそうに見ていた。端を歪ませながら開いた口が、恐ろしかった。はっきりと大きく開いてしまえば、私など一口だ。これも手記の通りだ。
海坊主のことも気になっていたが、露わになった瓦礫も気になっていた。私は上から睨んでくる海坊主に警戒しながら、崩れた場所を凝視した。
崩れていた岩が壊れて出てきたのは、古い木材と、石材だった。石の表面には、文字が彫られていたやうだが、文字が識別できなかった。
木材には朱く色が塗られていた。小屋や他の木材と違って、丁寧に扱われていたのかもしれない。
私は半歩だけ近づき、更によく凝らして見た。木材の端には鉄が付けられていた。そのほか、一部の木材には泥がこびりついていた。
まるで、その部分が地面に刺さっていたかのようだ。
目の前の怪物の他に、私はもう一つ思い出したことがあった。ここに訪れる途中に聞いた、列車でプレゼンされていた宮崎の神様に関する話だ。
自然豊かな地、それぞれに神様が息吹いていて、この地の人々は神様に守られながら生きてきたという話だ。
当然、海にも神様はいて、昔の人々は船出や船旅の安全を祈るための神社があるという話も聞いた。
この場所が果たしてそうなのかはわからない、だがもし、この場所が海の神、もしくは怪異を祀るための場所だとしたら……
祭囃子はまだ聞こえていた。海坊主で見えていないが、その背後には手記で書かれた通り、丸い火の玉や行燈が浮かんでいるのかもしれない。
私は膝をつき、頭を地面につけた。
「大事な祭事の最中、邪魔をしてしまったこと、心よりお詫び申し上げます!」
私は声を腹から絞り出すように叫んだ。
私もそしてこれまでの遭遇者もしでかしたのだ。
手記の書き手が見た火の玉は火の玉で、海坊主を始めとした怪異や生き物は、海で亡くなった魂をあの世に運ぶために、祭事を執り行っていたのだ。
古くから、死者の魂をあの世に送り届けるための儀式は存在している。神道の儀式としての鎮魂祭や、京都での五山送り火、各地で行われる灯籠流しなど、人々は魂をこの世で迷い漂わせないようにしていた。
彼ら、怪異たちが同じようなことをしていてもおかしくはない。怪異といっても、神の使いであることだってなくはないのだから。
我々が神聖な儀に足を踏み入れてしまったのだ。
土下座が怪異に伝わるかわからないが、それでも私はすべきだと判断し、即座に行動に移した。
海坊主は深くため息をついた、ように見えた。
心臓がはやく、息苦しかった。脈打つ耳の音の合間に、波が荒くなってきている音が聞こえてきた。
私はゆっくりと顔を上げた。海坊主の顔は離れていたが、私のことを憎たらしく見ていた。
これは非常にまずい。命の危機にかかわると察知した。私は立ち上がり、森の方へ逃げ込んだ。
背中から押し寄せる波の音が聞こえてくる。あともう少しで森の中に逃げ込もうとしたとき、波が私の背中を押し、足を掬ませた。
それ以降は、覚えていない。




