第五話(手記3)
【六回目の記録】
怪物に喰われなかったことを、幸せと捉えるべきか、俺にはわからない。
今でも思い出したくないが、正気かどうか知りたいから、俺は書くことにした。
俺は音の正体を知りたかったから、海辺の近くにいた。日差しに当たらないよう、じっと待っていた。
空が赤く染まり始めた頃、また鯨のような鳴き声が聞こえてきた。
そのあとに、和太鼓のような音が響いて、笛の音が聞こえてきた。祭囃子のようだった気がする。
俺は海の向こうを見た。沖の波間から、黒い頭が覗かせていた。ザトウクジラかと思って俺はじっと見ていた。だが水面から出てきたのはそんな可愛いもんじゃなかった。
ぬうっと顔を出してきたのは、人間の顔をつけた黒い怪物だった。やつは俺のことを睨んでいた。
それが最初、どのくらいの大きさかわからなかった。大きなそれは、一度海に沈み、今度は俺のすぐ近くで顔を出しやがった。
奴は心底不愉快そうな顔をして叫んだ。
しゃがれた男の呻き声のような野太い声に、俺はその場で固まった。腰が抜けてしまって、動くことができなかった。
やがてソレはゆっくりと口を開いた。への字から開いた口は、俺のことなんて一口で食べてしまいそうだった。なにより大きくて、俺は夢だと疑った。だが腰が抜けた拍子に尻餅をついたときの痛みが現実だと知らせてきた。
俺は四つん這いで必死に小屋に戻って、うずくまった。なにかしら喋りながら、ひたすらノートにペンを走らせた。
悪霊退散?南無阿弥陀仏?よく覚えていないが、何かをして気を休めたかった。
気がつくと祭囃子の音も、怪物の鳴き声も聞こえなくなってた。
俺は小屋の隙間から外を覗いた。
怪物たちはいつの間にかいなくなっていた。
アレがなんだったか、俺にはわからない。
ノートに書いた内容をあとから見たら、とても読めたものじゃなかった。
強烈な顔が頭から離れない。
【七回目の記録】
とても暗い時間に目が覚めた。
当然だが火は消していた。電灯もないので、暗闇に目が慣れるまで、時間を要した。
もう一度寝ようにも、完全に覚めてしまって、どうにも寝付けなかった。今日は一段と、空気が悪く感じた。
俺は外に出た。夜風に当たれば、多少はマシに感じるかもしれないと考えた。
祭囃子や鯨の鳴き声は聞こえてこなかったから、奴らはいないと思った。
それでも急に現れる可能性もあった。
結局俺は海側に自分の姿が映らないよう、ハイハイしながら移動した。
海側の壁にもたれかかり、空を見た。
その日はよく晴れた夜で、星々が空のあらゆる場所から点々と光っていた。
聞こえてくるのは、波のせせらぎ。昼間とは違い、穏やかに水がぶつかる音が聞こえてきた。
俺は暫く夜空を見上げていた。時間なんてわからない。ただ、久しぶりにちゃんと落ち着けた気がする。
ゆっくりと休んでいると、ばしゃしゃしゃ、ばしゃしゃしゃと音が聞こえてきた。
明らかに、さっきまでと違う音が聞こえてきた。誰かが海で遊んでいるようだった。
俺は岩の隙間から、海をのぞいた。その時は、祭囃子や鯨の鳴き声は聞こえたなかったはずだ。
満月や星空を反射して銀色に輝く海で遊んでいたのは、三匹のスナメリだった。スナメリたちは互いの身体を廻り、一緒に遊んでいた。
鳴き声は聞こえなかったが、愛らしい顔で、スナメリたちは三匹、踊るように泳いでいた。
岬近くで泳いでいたスナメリは、やがて沖の向こうまで泳いでいった。
俺はスナメリの姿が見えなくなるまで、その様子をずっと見ていた。そのときだけ、俺はあの怪物の恐ろしさを忘れることができた。
今は、穏やかになった波の音を聞きながら、これを書いている。
【八回目の記録】
いろいろ考えたが、俺はあの怪物の先に行こうと思う。
恐怖を克服したわけじゃない。今でもあの形相は思い出すだけで身体が震える。
得体の知れない動く黒い怪物は、俺のことを押しつぶすことなんて容易そうだった。
だが、それよりも、あの日のスナメリたちがずっと頭から離れなかった。
三匹で仲良く戯れてきるスナメリが、羨ましくて仕方がない。
俺はもう限界だ。人との関係が煩わしいと考えていたのが馬鹿らしい。
都会のごった返しな喧騒も、宮崎の人たちの優しさも、今となってはどちらも恋しい。
人は一人で生きていけない。特に俺みたいな不安定な人間が、社会から離れて生きていくことなど、あまりにも烏滸がましかった。
だが今更、元の生活に戻れるわけもない。
そんなのは赤っ恥だ。あの日、釣りをしていた兄弟から離れたときから、俺はもう元の生活に戻れなくなっていた。
それならいっそ、あちら側に行くのもいいだろう。いつの間にか羨ましく感じていた、海の向こう側に。
海と一緒になりたい。この世界に存在する一個体の存在ではなく、世界そのものに溶け込みたい。
たとえそのあと、怪物に無惨に喰われることになったとしても。
心や身体をいやらしく不愉快に触ってくるような寂寥感を未来永劫味わうことになるならば、一瞬の痛みぐらいなんてことはない。




