5
夜、仕事を終えて自室に戻ったアリスは、ベッドに腰掛けてぼんやりと天井を見上げた。昼間の出来事が何度も頭の中で繰り返される。
(本当に、アドルフ様のそばにいられるんだ……)
胸の奥がじんわりと温かく、自然と微笑みがこぼれる。袖口で涙を拭われた感触や、ふわふわの尻尾が手に巻きついた優しさを思い出し、頬が熱くなる。
(明日も、また会える。差し入れ、何を持っていこうかな……)
期待と少しの不安、そして幸せが入り混じり、アリスは胸いっぱいの気持ちで布団にくるまる。窓の外に瞬く星を見上げながら、そっと願いを込める。
(この幸せが、少しでも長く続きますように……)
やがてアリスは、穏やかな気持ちのまま静かに眠りについた。
アドルフとの時間は、胸を高鳴らせつつも穏やかに過ぎていく。アドルフはあまり多くを語らないが、私が話しかけるときちんと答えてくれる。その静かなやりとりが、かえって心地よかった。
出会った時にあった顔の傷は任務中についたこと、女子供は顔を見ると泣かれるから極力顔を合わせないようにしていること、食堂で会った時も怖がらせたくなくてぶっきらぼうになってしまったこと、伯爵家の三男として放任されて育ったこと――アドルフはぽつぽつと語ってくれた。
私は家族や兄弟のこと、優しい先輩や面白い同僚のこと、雪害で出稼ぎに来たこと、そしてアドルフが大好きなことを、取り止めなく話した。
もちろん触れ合いなんてなかった。甘い空気も言葉もない。それでも幸せだった。終わりが来る距離だとしても、今はそばにいられることが嬉しかった。
アドルフは意外にも甘いスイーツを喜んだ。本人は甘いもの好きを隠そうとするが、私がスイーツを持っていくと彼の大きな虎の尻尾が、嬉しさを隠しきれずに左右にゆったりと揺れる。
出会ってから3ヶ月が経とうとしていた。今日は私の誕生日。朝の柔らかな光が差し込む厨房で、アリスはエプロンをきゅっと結び直した。今日はアドルフへの差し入れに、特別なスイーツを作ると決めていた。存在自体が私の宝物だから、私の誕生日に私が作ったケーキを食べてほしい。
ボウルに新鮮な卵と砂糖を入れ、泡立て器でふんわりと混ぜる。白い泡がきめ細かく立ち上がり、バニラの甘い香りが広がる。小麦粉をふるい入れ、丁寧に混ぜ合わせると、生地はしっとりとなめらかに。
焼き上がったスポンジケーキは、ほんのりきつね色。オーブンを開けると、甘い香りが厨房いっぱいに広がり、思わずアリスも微笑んだ。
仕上げに、たっぷりの生クリームと季節のベリーを飾る。真っ白なクリームに赤や紫の果実が映え、見ているだけで幸せな気持ちになる。
「喜んでくれるといいな…」
アリスは心を込めてラッピングし、そっとスイーツを包み込んだ。
いつも通り書庫に向かう。そこにはいつも通り一人佇む彼の姿。
「アドルフ様、今日の差し入れはケーキです。ホールケーキなのですが食べてくださいますか?」
「ホールケーキ?食べるが、また珍しいな。」
「あっ、はい。今日は私の誕生日なもので、あわよくば私の作った誕生日ケーキをアドルフ様に食べていただけたらという下心付きです。申し訳ありません」
私は下心があることを後ろめたくて早口で言い切った。
「はっ?」
あっ、怒ってる。アドルフの表情が険しくなり、鋭い視線が向けられる。その大きな虎の尻尾は、普段のゆったりとした動きとは違い、ピンと張り詰めている。
「な、内緒で誕生日ケーキ食べさせようとしてごめんなさい」
「違う、なんで誕生日のこと言わなかった。そしてなんで俺が誕生日ケーキ食べてるんだよ」
怒ってる理由が想像の斜めをいき思考が止まる。
「アドルフ様は私にとってプレゼントみたいな存在で、すでにたくさんの想いを感じさせてくれる存在なんです。私の作ったものがアドルフ様の血となり肉となっていただくことが私にとって一番の喜びで……」
興奮して話す私の額に、ふわふわの尻尾がビシッと当たる。
アドルフに「ほら、口開けろ」と言われ、思わず言われるままに口を開けたアリス。その瞬間、ふわりと甘いケーキが口の中に放り込まれる。
(えっ、えっ、今のって……アーン……!?)
驚きと戸惑いで頭が真っ白になる。頬が一気に熱くなり、心臓がドクンと大きく跳ねた。アドルフの無骨な手が自分のために動いたこと、そしてその優しさに触れたことが、じわじわと実感として押し寄せてくる。
(どうしよう、嬉しい……でも恥ずかしい……!)
視線を合わせるのも照れくさくて、思わずうつむいてしまう。けれど、口の中に広がるケーキの甘さと、アドルフの不器用な優しさが、胸の奥までじんわりと染み込んでいく。
(こんな幸せ、夢みたい……)
アリスは、恥ずかしさと嬉しさが入り混じったまま、そっと微笑んだ。
アリスは頬を赤らめたまま、そっとケーキを味わう。アドルフはそんなアリスの様子をちらりと見て、少しだけ口元を緩めた。
「……どうだ?」
低く不器用な声。アリスは慌ててうなずく。
「とっても美味しいです。アドルフ様にも食べてほしくて……」
「……俺も、食う」
アドルフは照れ隠しのようにぶっきらぼうに言い、フォークを手に取る。アリスが切り分けたケーキを差し出すと、アドルフは一口食べて、ほんの少しだけ目を細めた。
「……甘いな」
「す、すみません、甘すぎましたか?」
「いや……悪くない」
短い言葉の中に、確かな満足と照れが混じっている。アリスは胸がいっぱいになり、思わず微笑んだ。
「来年も、また作ってもいいですか?」
緊張で少し声が震える。1年後の約束――それは私にとって、何よりも大切なプレゼントだ。
アドルフは少しだけ視線を逸らし、静かにうなずいた。
不確かな関係だけれど、アドルフと細い糸が繋がった気がした。まだ側にいても良いと言ってくれているようで、心が震えるほど嬉しかった。
「誕生日プレゼント、何がいい?」
思いがけない問いが降ってくる。
「い、いや、これが私の誕生日プレゼントなので!!」
慌てて首を振る。これ以上求めてはいけない。私たちの関係はこれでいい。私が差し入れをして、アドルフが受け取る。それだけで十分幸せだ。
もしアドルフから何かを贈られたら、きっと私は欲張りになってしまう。これ以上近づきたいと、願ってしまいそうだから。
本音を言うなら、何年先だって側にいる権利が欲しい。でも、そんなこと決して願ってはいけない。これはアドルフに最愛ができるまでの、期間限定の関係なのだから。
飲み込んだ言葉は少しだけ苦くて、胸を締め付けた。
そんな私の頭にポンとアドルフの手が置かれる。
二人の間に静かな時間が流れる。窓の外からは柔らかな陽射しが差し込み、書庫の中は穏やかな空気に包まれていた。
アリスはアドルフの手の温もりを感じながら、そっと目を閉じる。胸の奥に広がる安心感と幸福感が、言葉にしなくても伝わってくる気がした。
アドルフもまた、アリスの柔らかな髪に触れながら、静かに息を吐く。
「……静かだな」
アドルフがぽつりと呟く。アリスは微笑みながら、小さくうなずいた。
「はい。とても、幸せです」
二人は言葉少なに、ただ同じ時間を共有する。その静けさの中に、確かな絆と温もりがあった。
数日後、いつものように書庫の扉を開けると、アドルフが静かに待っていた。彼の手には、小さな箱が握られている。
「……これ」
アドルフは視線を合わせず、そっけなく箱を差し出した。アリスは戸惑いながらも、そっと箱を受け取る。
「え……これ、私に?」
アドルフは短くうなずき、少しだけ頬を赤らめている。
「……誕生日、だったろ。遅くなったが……」
アリスの胸が高鳴る。思いがけない贈り物に、言葉が出てこない。
「ありがとうございます……!」
箱を両手で大切に抱え、アリスは泣きそうになるのをぐっ堪え、キツく目を閉じた。
「嬉し過ぎて・・・言葉になりません」
「そうかよ、まぁ、開けてみろ。気にいるかどうかわからないが・・・」
アリスはそっと箱の蓋を開けた。中には、小さな銀色のペンダントが丁寧に収められている。シンプルなデザインの中央には、温かみのある琥珀色の小さな石がはめ込まれていた。
その石は、まるでアドルフの瞳のように深く、優しい光をたたえている。光を受けて、琥珀色が柔らかくきらめき、アリスは思わず見入ってしまった。
アリスは胸が熱くなり、そっとペンダントを手のひらに包み込む。アドルフの存在を、いつでも感じられるような気がした。
胸の奥がじんわりと温かくなり、思わず両手でペンダントを包み込む。
(アドルフの瞳の色……私だけの宝物みたい)
嬉しさと驚き、そして少しの戸惑いが入り混じる。こんなにも大切なものをもらっていいのだろうか、私にそんな権利があるのだろうかと一瞬ためらうが、アドルフの不器用な優しさが伝わってきて、自然と微笑みがこぼれる。
「……すごく、きれいです。大切にします」
声は小さく震えていた。ペンダントを胸元にそっと当て、アドルフに向かって深く頭を下げる。
(この瞬間を、ずっと忘れたくない)
アドルフの尻尾は機嫌が良さそうに揺れていた。




