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アリスは初恋を自覚したと共に名前すら聞けなかったことに大きなショックをうけた。しかし、立ち止まってもいられない。
彼が消えた人混みを未練がましくひと睨みして、踵を返した。
(早く王宮に向かわなきゃ、待ち合わせに遅れちゃう)
アリスはは大きな門をくぐると、目の前に広がる王宮の壮麗さに息を呑んだ。白い石造りの壁、金色に輝く屋根、手入れの行き届いた庭園。噴水の水音や、色とりどりの花々の香りが風に乗って漂う。
廊下には赤い絨毯が敷かれ、壁には美しい絵画やタペストリー。高い天井にはシャンデリアがきらめき、窓から差し込む光が床に模様を描いていた。
侍女長に案内されながら、アリスは緊張と期待で胸が高鳴る。
「ここで本当に暮らすんだ……」
小さく呟き、背筋を伸ばす。
アリスは侍女たちが暮らす寮の一室に案内された。部屋は木のベッドと小さな机、窓際には花瓶が置かれているだけの質素な造りだが、床やリネンは清潔で、窓からは手入れの行き届いた王宮の庭園が一望できた。朝は遠くから鐘の音が響き、アリスは新しい一日の始まりに胸を高鳴らせながら目を覚ます。食堂では、同じく地方から来た侍女たちと一緒に温かいパンとスープを囲み、少しずつ打ち解けていく。
数日後、侍女長に呼ばれ、緊張しながら面談を受けることになった。
侍女長は落ち着いた口調で「得意なことは?」と尋ねる。
「お菓子作りや料理が好きです」と答えると、侍女長は微笑み、「それなら厨房での調理補助をお願いしましょう」と即座に配属を決めてくれた。
アリスは白いエプロンを身につけ、厨房の扉をそっと開ける。中では大きな鍋が煮え、パンの焼ける香ばしい匂いが漂っていた。緊張しながらも「おはようございます」と挨拶すると、厨房の先輩たちが温かく迎えてくれる。
最初の仕事は野菜の皮むき。手際の良さを褒められ、「村でよく手伝っていたの?」と声をかけられる。アリスは「はい、料理が好きなので・・・」と答え、少しだけ緊張がほぐれた。
少しずつ料理補助にもなれ、作業効率も上がっていく。
先輩の一人、うさぎ獣人のリナは明るく面倒見がよく、「困ったことがあったら何でも聞いてね」と優しく声をかけてくれる。パン作りについても、粉の選び方や生地のこね方、焼き加減まで細かく親切に教えてくれた。リナの柔らかな耳が揺れるたび、アリスの緊張も少しずつほぐれていく。
ある朝、厨房でパンを焦がしてしまい落ち込んでいると、同じ年頃の侍女・ミーナが「大丈夫、私も最初はよく失敗したよ」と明るく声をかけてくれる。ミーナはおしゃべり好きで、すぐにアリスと打ち解けた。王都近郊の農村出身だが、お転婆すぎて困った家族に「花嫁修行代わりに王宮で働いてきなさい」と送り出されたと、笑いながら話してくれる。ミーナの屈託のない笑顔に、アリスも自然と笑顔になる。
優しい先輩と気の合う同僚に囲まれ、アリスは少しずつ仕事に慣れてきた。厨房の忙しさにも余裕が生まれ、食堂の様子を覗くこともできるようになる。食堂は300人ほどが一度に食事できる広さで、王宮で働く様々な職種の人々が集まる。騎士服を着た人々も多く、アリスは密かに、かつて助けてくれた虎獣人の騎士様が現れないかと期待しているが、その姿はなかなか見当たらない。
そんなある日、ミーナがにやりと笑いながら「ねぇ、アリスって誰か探してるの?獣人部隊の人を見るとキョロキョロしてるよね?」とからかう。アリスは思わず顔を赤らめ、「そ、そんなことないよ!」と慌てて否定するが、心の中では再会への淡い期待が膨らんでいく。
昼下がりの食堂。アリスはパンの補充を終え、ふと視線を上げると、食堂の隅に虎獣人の騎士の姿を見つける。
アリスは胸が高鳴り、思わず駆け寄る。「あの……!」
虎獣人の騎士は少し驚いたように目を見開くが、すぐに視線をそらし、静かに「……ここに配属になったのか」とだけ返す。その声は低く控えめで、どこか照れくさそうだ。
アリスが「この前は本当にありがとうございました」と頭を下げると、彼は小さくうなずきくだけ。
しばし沈黙が流れる。アリスは勇気を出して、「あの、私……アリスといいます。」と名乗る。虎獣人の騎士は「……アドルフだ」と短く名乗った。
「また会えて、うれしいです」とアリスが微笑むと、アドルフは少し驚いた後「……あぁ」と静かに答え、食堂を後にする。その背中を見送りながら、アリスは心が温かくなるのを感じていた。
(また会えた!名前も知れた!やっぱり王宮で働いてたのね。また会えるよね!!)
そんな私の期待とは裏腹に、彼はその後まったく姿を見せなかった。
(な、なんで!?)
待てども待てども、待人は現れず。日に日に落ち込む私を見て、ミーナが心配そうに声をかけてきた。
「元気ないね。どうしたの?もしかしてこの間話しかけてた、こわーい顔の虎獣人と関係あったりする?てか、よく話しかけられたよね。顔も怖いし威圧感も半端なかったし――」
「怖くないよ!!精悍でかっこいいだけ!!」
思わず大声でミーナの言葉を遮ってしまい、慌てて口を押さえる。ミーナが目を丸くして私を見る。
「私が王都に来た日に助けてくれたの。すごく優しい人なの。全然会えないし、話しかけてもそっけないけど……」
尻すぼみになってしまった私を見て、ミーナは「ごめんね、悪く言うつもりはなかったの。ほら、そんな顔しないで。リナさんに話聞きに行こうよ。勤めて長いし、同じ獣人だから何か知ってるかもしれないよ」と、優しく手を引いてくれる。
そのままリナさんのところへ突撃。「というわけでリナさん、何か知ってます?」とミーナがかいつまんで説明すると、リナさんは大きな目をさらに見開き、口をパクパクさせてから、私に向かって言った。
「アドルフって、あの虎獣人強面威圧感筋肉のアドルフ様?」
いろんなパワーワードが並ぶ中、私は顔を赤らめながら「私が会いたいのは虎獣人で精悍な顔立ちの長身で均整の取れた身体をお持ちのアドルフ様です」と、必死に訂正する。
リナさんは絶句。「あ、会いたいとは……。私10メートル以上接近するのも無理、怖すぎて心臓止まる」
しばらく放心した後、リナさんは教えてくれた。「アドルフ・リトス。リトス伯爵家の三男で現在27歳。見ての通り強面、2メートルの長身とムキムキの筋肉で女子供に怖がられる存在。獣人部隊の中でも精鋭が揃う第一騎士団に所属してる」
(お、お貴族様だった……。遠い存在の人だった……。あんなに素敵な人と自分が結ばれるなんて思ってない。思ってないけど……せめて顔みたい)
「食堂に全然来ないんですけど、なんでか知ってますか?この間一度だけ来たことがあって」
「……あぁ、私が非番の日に来てくれて本当に助かった。って、ごめん、本音が漏れた。アドルフ様が食堂を使わないのは、以前食堂を利用した時に文官の女の子に叫ばれて泣かれたことがあったの。あの顔が原因で。それからは食堂だけじゃなくて共有スペースにも姿を現さなくなったのよ。大体は騎士団の中だけで過ごしてるのよね」
(な、なんと言うことでしょう……)
「格好良すぎて黄色い声援と尊すぎるが故の涙とかでは?」
「「んなわけない」」
私の問いに、ミーナとリナさんが即座に否定する。
「本能的に草食動物である私たち獣人は、肉食獣人を恐れるようになってるから仕方ないことではあるんだけれど、少し可哀想よね」
(会うことすら許されないのね……)
肩を落とし、ため息をつく私を見て、リナさんがどこか哀れむような目を向けてきた。
「ここだけの話よ。友達が教えてくれたんだけど、昼休憩は少し時間をずらして遅めに入ってるらしくて、その間は王宮内の使われてない第二書庫の奥で昼食を取ってるみたいよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わずリナさんに抱きついた。「ありがとうございます!!」
リナさんは苦笑しながら、「怖すぎるから近づかないようにって女の子たちの間で注意喚起のように広まった話なんだけどね」と付け加えたけれど、私の耳にはもう届いていなかった。
(明日、お礼に差し入れしに行こう!!身分違いだし、相手は天井人のような存在だけど、お昼ご飯は食べる権利はあるし、助けてくれたお礼だし……)
自分の中でいろいろと言い訳を並べてみるけれど、結局のところ「会いたい」という気持ちが一番大きいのだと、胸の奥で自覚していた。




