5 sideアドルフ
夜、仕事を終えて自室に戻ると、静寂が部屋を満たしていた。窓の外には星が瞬き、遠くから微かに夜風の音が聞こえる。俺はベッドに腰掛け、昼間の出来事を思い返していた。
(……アリスは、今日も笑っていたな)
昼休憩、書庫でのひととき。アリスが差し入れを持って現れるのは、もうすっかり日課になっていた。最初は戸惑いと警戒心しかなかったが、今ではその時間が一日の中で一番穏やかで、心が安らぐ瞬間になっている。
アリスは俺の顔を見るたびに、嬉しそうに微笑む。俺がぶっきらぼうに返しても、彼女は気にする様子もなく、明るく話しかけてくる。最初はその距離感に戸惑い、どう接していいかわからなかった。だが、彼女のまっすぐな好意と優しさに、少しずつ心がほぐれていった。
(本当に、俺なんかのそばにいて幸せだなんて……)
信じられない気持ちと、嬉しさと、戸惑いが胸の奥で渦巻く。俺なんかが彼女のそばにいてもいいのかと思うのと同時に、彼女を独り占めしたいという仄暗い独占欲が、心の奥底から湧き上がってくる。
(……誰にも渡したくない、なんて。俺は、そんなことを思っているのか)
アリスと過ごす時間は、静かで穏やかだ。彼女は俺が多くを語らなくても、無理に詮索しようとはしない。俺がぽつぽつと語る過去や家族のこと、任務で負った傷のことも、ただ静かに聞いてくれる。その距離感が心地よかった。
アリスは自分の家族や兄弟、厨房の仲間たちの話を楽しそうに語る。雪害で出稼ぎに来たこと、そして俺のことが大好きだということも、隠さずに伝えてくる。その素直さが、時に眩しくて、時に胸を締め付けた。
触れ合いも、甘い言葉もない。ただ、同じ空間で静かに過ごすだけ。それでも、俺は十分に幸せだった。終わりが来る距離だとしても、今はそばにいられることが嬉しかった。
アリスは意外にも、俺が甘いもの好きだと気づいている。スイーツを持ってくるたび、俺の尻尾が嬉しさを隠しきれずに揺れてしまうのを、彼女は微笑ましそうに見ている。恥ずかしいが、もう隠しきれない。
出会ってから三ヶ月が経とうとしていた。その日の差し入れはホールケーキだった。珍しい差し入れだなと少し引っかかる。
「アドルフ様、今日の差し入れはケーキです。ホールケーキなのですが食べてくださいますか?」
「ホールケーキ?食べるが、また珍しいな。」
「あっ、はい。今日は私の誕生日なもので、あわよくば私の作った誕生日ケーキをアドルフ様に食べていただけたらという下心付きです。申し訳ありません」
早口で言い切るアリスの顔が、どこか後ろめたそうで可愛らしい。だが、俺は思わず表情を険しくしてしまった。
「なんで誕生日のこと言わなかった。そしてなんで俺が誕生日ケーキ食べてるんだよ」
アリスは慌てて謝るが、俺の中では別の感情が渦巻いていた。彼女の誕生日に、俺が何もしてやれないことが、どうしようもなく悔しかった。
「アドルフ様は私にとってプレゼントみたいな存在で、すでにたくさんの想いを感じさせてくれる存在なんです。私の作ったものがアドルフ様の血となり肉となっていただくことが私にとって一番の喜びで……」
興奮して話すアリスの額に、思わず尻尾で軽く触れてしまう。俺の気持ちが、少しでも伝わればいいと思った。だが、尻尾で触れるのは獣人にとって求愛のサイン。アリスがその意味に気づいていないことをいいことに、無意識に執着を見せてしまった自分が恥ずかしい。もし意味を知ったら、彼女はどう思うだろう。そんな後ろめたさが胸を刺す。
「ほら、口開けろ」
言われるままに口を開けたアリスに、ケーキを一口運ぶ。驚いたように目を見開くアリスの顔が、なんとも愛おしい。
「……どうだ?」
不器用な声で尋ねると、アリスは慌ててうなずく。
「とっても美味しいです。アドルフ様にも食べてほしくて……」
「……俺も、食う」
照れ隠しのようにぶっきらぼうに言い、フォークを手に取る。アリスが切り分けたケーキを一口食べると、ほんの少しだけ目を細めてしまう。
「……甘いな」
「す、すみません、甘すぎましたか?」
「いや……悪くない」
短い言葉の中に、確かな満足と照れが混じる。アリスは胸がいっぱいになったように微笑んだ。
「来年も、また作ってもいいですか?」
緊張で少し声が震える。1年後の約束――それは、俺にとっても特別な意味を持っていた。
俺は少しだけ視線を逸らし、静かにうなずいた。一年後もその先もそばにいたい。もうアリスのいない未来は俺の中にはない。
「誕生日プレゼント、何がいい?」
思いがけず口をついて出た問い。アリスは慌てて首を振る。
「い、いや、これが私の誕生日プレゼントなので!!」
それ以上求めてはいけない、という彼女の気持ちが痛いほど伝わってくる。だが、俺はどうしても何か贈りたかった。彼女はいつも俺のことばかりだ、俺も彼女のために何かをしたいと思った。
数日後、意を決して宝石店に足を運び、琥珀色の石がはめ込まれた銀色のペンダントを用意した。俺の瞳の色に似た石を選んだ。自分の色を相手に贈るのは「お前は俺のもの」という独占欲の表れだと知っているだろうか?知らないだろうな……。ずるい俺はそれをアリスに伝えない。知ってしまったら、つけてくれないかもしれない。
そう思ってふとゼノンの「根暗で後ろ向き」という言葉が思い浮かぶ。
(そうだよ、その通りだ。少しずつ彼女を囲って、他の男が寄りつかないようにして、逃げられなくなってから捕まえるんだ)
書庫でアリスを待ち、彼女が現れると、そっけなく箱を差し出した。
「……これ」
「え……これ、私に?」
短くうなずき、少しだけ頬が熱くなる。
「……誕生日、だったろ。遅くなったが……」
アリスは箱を大切そうに抱え、涙を堪えている。
「嬉し過ぎて・・・言葉になりません」
「そうかよ、まぁ、開けてみろ。気にいるかどうかわからないが・・・」
アリスが箱を開けると、琥珀色の石が柔らかくきらめいた。その石は、俺の瞳の色。アリスは胸が熱くなったように、ペンダントを両手で包み込む。
「……すごく、きれいです。大切にします」
小さく震える声。アリスがペンダントを胸元に当て、深く頭を下げる。その姿を見て、俺の尻尾は機嫌良さそうに揺れていた。
(……この幸せが、少しでも長く続きますように)
静かな願いを胸に、俺はそっとアリスの頭に手を置いた。言葉は少なくても、伝えたい想いは確かにそこにあった。




