4 sideアドルフ
昼休憩の鐘が鳴ると、書庫の静けさが一層際立つ。アドルフは分厚い本を手に、窓際の席で静かにページをめくっていた。外から差し込む柔らかな光が、埃の舞う空間を淡く照らしている。だが、文字は頭に入ってこない。昨日の出来事が、何度も脳裏をよぎる。
(まさか、あんな告白をされるなんて……)
アリスの叫ぶような声、真っ赤な顔、そして差し入れの包み。あの瞬間から、胸の奥がずっとざわついている。自分が誰かに好意を向けられるなど、思ってもみなかった。しかも、それがあんなに真っ直ぐで、隠し立てのない想いだとは。
扉がそっと開く音がして、アドルフの耳が無意識にピクリと動く。鼻先にふわりと甘いパンの香りと、アリスの柔らかな匂いが混じって届く。昨日のことが頭をよぎり、自然と背筋が伸びる。
「……アドルフ様、こんにちは」
アリスの声は少し震えていた。アドルフは本から顔を上げ、彼女を見つめる。昨日の余韻がまだ身体に残っていて、心臓がどくんと跳ねる。アリスの姿を見て、安堵と戸惑いが入り混じる。
「……もう来ないと思った。」
自分でも素直じゃない言葉が出てしまう。アリスは一瞬困ったような顔をしたが、すぐにまっすぐな瞳でこちらを見つめ返してきた。
「来ない方が良かったでしょうか?」
不安そんなアリスの顔を見ると、なぜか抱きしめたくなる。
「いや、そんなことはない。ただ、俺といてもお前に得はないはずだ。」
まただ。自分を卑下する癖が抜けない。昨日のアリスの好意は、まだ信じきれずにいる。
「好きです。私はアドルフ様のそばにいるだけで幸せになれます。これ以上の得はありません。」
はっきりと言い切るアリスの言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。耳が熱くなり、尻尾が無意識に揺れる。顔を逸らしても、アリスの視線が気になって仕方がない。
「なんで、どこが。話したこともほとんどないくせに」
信じたい、でも信じられない。これが嘘だった時、騙されていたと知った時傷つくのが怖い。情けなく怯える俺にアリスはまっすぐぶつかってくる。
「ぶっちゃけ顔です。最初に少しだけ微笑んでくれた顔に惚れました。」
「ぶっ!!」
思わず吹き出してしまう。こんなに率直に好意を向けられるのは初めてだ。自分の顔が赤くなっていくのがわかる。獣人の血が騒ぎ、耳も尻尾も感情を隠せない。
「お前目が悪いのか?」
「田舎育ちなので視力には自信があります。」
「じゃあ頭か?」
「正常です。」
アドルフの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「み、みるな!!」
そう言って顔を隠す。こ、こいつは何を言ってるんだ。俺にそんなこと言う奴なんて今までいなかった。
「颯爽と現れてスリを捕まえてくれたのも格好良かったです。私を怖がらせないように触れないように財布を渡してくれたのも、食堂で周りの人を怯えさせないようにここで過ごす優しさも、今知ってる部分全部好きです。不敬を覚悟でお伝えしますが、アドルフ様が伯爵家の人間でなければ良かったのにとさえ思いました。そしたら私にもまだ希望があったかもしれないのに。いや、ダメですね。こんなに素敵すぎるアドルフ様とどうにかなりたいなどと烏滸がましすぎ」
「もうやめろ!!・・・やめてくれ」
恥ずかしさが頂点に達し、思わず言葉を遮る。なんなんだこの女は・・・。
「やっと目が合った・・・」
思わず目を合わせてしまった。まずいと思い、慌てて顔をそらす。
「ご、ごめ」
謝りながら身を引くと温かく柔らかいものが手に触れる。アリスの手だと認識するのに時間がかかった。
「嬉しかったんです!」
アリスの言葉が、まっすぐ胸に飛び込んでくる。俺は顔が熱くなり、思わず視線を逸らした。尻尾が落ち着かずにゆらゆらと揺れてしまう。恥ずかしさと戸惑いが全身に広がり、耳もピクリと動く。
アリスが俺の尻尾にちらりと視線を送るのがわかった。獣人の本能で、そういう視線には敏感だ。慌てて尻尾を隠すように身体をずらす。
「……そんなに見るな」
そう言ったものの、アリスの好奇心が伝わってきて、どこかくすぐったい気持ちになる。俺の尻尾や耳は、感情が隠せない。だからこそ、余計に恥ずかしい。
「お前の気持ちはわかった。疑って悪かった。」
顔が熱いまま、どこかバツが悪くて視線を落とす。こんなふうに誰かに真っ直ぐ好意を向けられるのは初めてだ。
「いえ、伝わって良かったです。あの、アドルフ様、大変烏滸がましいお願いだとはわかっているのですが、これから昼休憩に差し入れに来てもいいでしょうか?食事はしっかりとった方がいいですし、心配ですし、会いたいですし、少しでも顔見たいですし、話したいですし……」
一気に本音をぶつけてくるアリスに、思わず小さくため息が漏れる。
「最初の頃と違って本音がダダ漏れだな」
「アドルフ様相手に本音を隠す意味がないとわかりました。」
「少しは隠してくれ……」
恥ずかしさに耐えきれず、項垂れる。こんな自分を見せるのは情けないが、アリスの前ではどうしても素直になれない。
「アドルフ様に特定の相手ができるまででいいんです。恋人ができたらさっぱり……できるかは分かりませんが離れます!迷惑かけません。好きでいさせてください」
アリスの声が涙で震える。沈黙が苦しくて、俺もどうしていいかわからなくなる。
「わかった。お前の趣味嗜好は理解できないが、今は特定の相手もいないし構わない。」
そう答えた瞬間、アリスの目から涙が溢れた。
「な、なんで泣くんだよ!?」
慌てて袖口でアリスの涙を拭う。貴族らしくない不器用な仕草だが、今の俺にはこれしかできない。女慣れしていない自分が情けないと思いつつも、アリスの涙を見ていると胸が締め付けられる。
「嬉しいんです、例え一時でもアドルフ様のそばにいられることが泣くほど嬉しいんです。」
「そうかよ」
ぶっきらぼうにそっぽを向いたつもりだったが、気づけば俺の尻尾がそっとアリスの手に巻き付いていた。獣人にとって、尻尾を相手に絡めるのは明確な求愛のサインだ。だが、アリスはその意味を知らない。ただ「優しい」と微笑んでいる。
(……しまった。なんてことを)
自分でも無意識のうちに、彼女に執着するような行動を取ってしまったことに気づき、顔がさらに熱くなる。羞恥心と後ろめたさが胸を刺す。アリスがその意味に気づいていないことに、ほっとする一方で、どこか仄暗い独占欲が心の奥底から湧き上がってくる。
(誰にも渡したくない、なんて……俺は、そんなことを思っているのか?)
アリスの涙や手の温もりが、俺の理性を揺るがす。彼女が自分だけを見てくれることが、こんなにも嬉しいなんて。だが、彼女の純粋さに甘えて、獣人としての本能を隠してしまった自分が、どこか卑怯にも思える。
(この気持ちを知られたら、きっと引かれるだろう。それでも、もう少しだけ……この温もりを独り占めしていたい)
その後、アリスから差し入れの包みを受け取る。名残惜しそうに書庫を後にするアリスの背中を見送りながら、胸の奥がじんわりと温かくなる。
扉が閉まった後もしばらくその場に立ち尽くし、手の中の包みを見つめる。涙の跡が残るアリスの顔が頭から離れない。
(本当に、俺なんかを……?)
嬉しさと戸惑い、信じられなさが入り混じり、心がふわふわと浮かぶようだった。深呼吸をひとつして、そっと尻尾をなでる。
アリスが欲しい明確に示した尻尾の動きが忘れられず、胸の奥に仄暗い熱が残り続けていた。




