2 sideアドルフ
仕事を終えて寮に戻ると、部屋の前でゼノンが腕を組んで待っていた。
「今日は悪かったな、お礼に酒持ってきたから一緒に飲もう。」
そう言って、やけに高そうなワインを得意げに見せてくる。
「いや、今日の巡回はそんなに悪いものじゃなかった。礼ならいらない」
ぽつりと漏れた本音に、ゼノンの目が鋭く光る。
「何かあったのか?お前が巡回で嫌な思いをしないなんて初めてじゃないか?」
しまった、と思った時にはもう遅い。ゼノンは俺を部屋に押し込み、自分も当然のように入ってきて、勝手にグラスを出しワインを注いだ。
「とりあえず飲むぞ、話はそれからだ。」
仕方なくグラスを受け取り、一口飲む。芳醇な香りが鼻を抜ける。
「で、街で何があった?」
「街でスリにあった女性を助けた。そしたら、ありがとうって言われた」
言葉にすると本当に些細な出来事だ。でも、俺にとってはその「普通」が特別だった。あの女の子の輝く瞳を思い出すと、胸の奥がざわつく。
「それだけだ、悪いかよ!」
不貞腐れたように言うと、ゼノンは呆れたように首を横に振る。
「お前を見てなきもせず、慌てず、怯えずにお礼を言ってくれるなんて、しかも女だなんて貴重な存在だぞ」
ひどい言い方だが、否定できない。
「名前は?どこに住んでる?ちゃんと聞いたのか?」
遠慮なく質問攻めにされるが、俺は首を横に振った。
「何も聞いていないし、知らない。」
「なんでだよ!?お前を怖がらない女なんて、こんなチャンスもうないかもしれないぞ!」
本当に酷い言われようだ。
「聞いたところでどうなるつもりもない。俺は前回の婚約者のことで、結婚どころか女と親しくなろうとすることも諦めた。それに、俺に個人情報を聞かれて怯えられる姿を見るより、ありがとうと笑って言ってくれた顔だけを覚えていたかったんだ。」
「根暗で後ろ向きな考えだな」
ぐさりと胸に刺さる。
「アドルフ、お前の本質を知らずに忌避する女どもなんて見る目のないクソ女ばっかりだ。そんな奴らのことなんか考えるだけ無駄だ。元婚約者のことも、お前に非は一つもない。」
容赦ないが、ゼノンはいつも俺の味方でいてくれる。ありがたい存在だ。
「ありがとな。まぁ、もう二度と会わないと思うし、お前も忘れろ」
そう言ってワインを煽る俺を見て、ゼノンはニヤリと笑った。
「案外、近くにいたりしてな。」
その言葉に、なぜか胸が少しだけ高鳴った。
それからしばらくたったある日のこと。アドルフはその日寝坊したため昼食を待たずに寮を出てしまった。訓練後で腹が減っているし、午後も試合形式で訓練をする予定だ。飯は食わなきゃ倒れる。
アドルフは重い腰を上げ食道へ向かった。
昼下がりの食堂。できるだけ隅の席を選んでいた。ふとパンの香りが漂い、視線を上げると、あの日の少女がこちらを見ていた。
(まさか、ここで会うとは……)
彼女は目を輝かせて駆け寄ってくる。「あの……!」
思わず驚いて目を見開くが、すぐに視線をそらし、できるだけ平静を装う。「……ここに配属になったのか」
少女が深々と頭を下げて「この前は本当にありがとうございました」と礼を言う。俺は小さくうなずくだけ。どう返せばいいかわからない。しばし沈黙が流れる。
(気の利いたことでも言えたらいいのだが)
少女が緊張しながら名乗る。「あの、私……アリスといいます。」
「……アドルフだ」
短く名乗ると、彼女は嬉しそうに微笑む。「また会えて、うれしいです」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。だが、どうしてもその場に居続ける勇気が出ず、「……あぁ」とだけ返し、食堂を後にした。
(相手が普通に接してくれることが嬉しい。優しい子だ。でも……やっぱり、俺がここにいると周囲がざわつく)
食堂を出てからも、アリスの笑顔が頭から離れない。だが、過去の出来事が脳裏をよぎる。あの顔や体格のせいで、泣かれたり、避けられたりしたこと。だから、できるだけ人前に出ないようにしてきた。
(あの子は違う。怖がらず、まっすぐに俺を見てくれる。でも……また誰かを怖がらせてしまうのは嫌だ)
それ以来、食堂には近づかず、再び昼食は人目を避けて第二書庫の奥で取るようになった。孤独は慣れているはずなのに、アリスの笑顔を思い出すたび、胸の奥がじんわりと痛む。
(もう会わない方が、あの子のためにもいい……そう思うのに、なぜかまた会いたいと願ってしまう)
昼休憩の時間、俺は人目を避けて王宮の奥にある第二書庫へと足を運ぶ。ここは使われていない古い書庫で、静かで誰も来ない。埃っぽい空気と、古い本の匂いが落ち着く。
(ここなら誰にも会わずに済む……)
窓際の小さな机に腰掛け、簡素な昼食を広げる。パンと干し肉、冷めたスープ。味気ないが、静けさが何よりのご馳走だ。
食事をしながら、ふとアリスのことを思い出す。あの笑顔、まっすぐな瞳。胸の奥がじんわりと温かくなり、同時に少しだけ寂しさも感じる。
(また会いたい……でも、俺が近づけば迷惑をかけるかもしれない)
本を手に取り、ページをめくる。内容は頭に入らない。静かな時間の中で、心だけがそわそわと落ち着かない。
(このまま、誰にも気づかれずに過ごすのが一番だ。そう思っていたはずなのに……)
昼食を終えると、食器を片付け、誰にも気づかれないようにそっと書庫を後にする。孤独な日常。でも、どこかで誰かに見つけてほしいと、ほんの少しだけ願ってしまう自分がいる。




