05 人獣
夜明け前の空は、まだ藍を含んでいた。焚き火の灰が色を失い、炭の芯が赤く息をしている。兵たちが、薄明の地を無言で動いていた。槍を拭き、革紐を結び直し、手を火にかざす。音は小さく動きは一定であった。命令を待つときの兵は、いつもこうして黙る。声を出せば、余計なものが漏れる。
遠くで馬を下り、陣を歩いている鮑信の姿が見えた。言葉は交わさず、うなずきをひとつ落とす。
昨日曹操が言った言葉が、まだ于禁の耳の奥に残っていた。
倒れぬ旗は、杭と紐で立つ。
杭は地に打たれ、紐は人が結ぶ。結び目が緩めば、旗は倒れる。于禁は自らの槍の結び目を確かめた。
東の空がわずかに明け、その光とともに伝令の声が駆ける。
「進軍!」
張り上げた声が、陣の端から端まで流れた。馬が鼻を鳴らし、寿張の東へと列が動き出す。湿地と田畑が続く地で、土はぬかるみ、履が重くなる。朝靄の向こうには黄の帯が揺れていた。青州黄巾の群れである。叫びとともに鼓が鳴り、地が震えた。
「押し寄せるぞ!」
伝令が叫んだが、誰も振り向かず、前だけを見る。
丘の上の二つの大旗が風を受けて高く翻った。その下には鼓手が並び、伝令が駆けていく。鼓の律が両の陣から響き合い、谷を渡った。曹操軍の将、夏侯惇と夏侯淵の旗もその間に見える。鼓と旗が呼び合い、戦場の骨を打ち鳴らしていた。
鼓が連打され、馬が大地を蹴る。泥が飛び、目にかかる。先に動いたのは賊であった。怒号とともに、獣のように群れが走る。武器を掲げ、形を成さぬまま、ただ前へ。
「押すな、間を詰めろ!」
于禁が叫んだが、声は音に呑まれた。槍の列がぶつかり、重さが腕にずしりと響く。突けば骨、引けば血。敵の目は血に濡れ、歯を剥き、肉を裂こうとする。規律も何もあったものではない。
鮑信の陣が右手に見えた。彼の旗の周りはいまだ足並みが揃っている。命令が通い、兵が応じた。その律こそが戦を支えている。
戦線は広く、声は風に混ざった。夏侯惇の軍が左翼を支え、夏侯淵が騎を率い、右手の高みをかすめて回り込む。中央では鼓の音が重なり、二つの陣が呼吸を合わせていた。旗が一つでも折れれば、兵の心は崩れる。
鮑信は馬上で剣を掲げ、声を張った。
「下がるな!踏み留まれ!」
背を伸ばすような声である。その響きが、人の恐れを押しとどめていた。
しかし、敵は海のように押す。槍を受けても退かず、斬られてもなお足を止めぬ。倒れた者の上を踏み、また前へ。数の波が、土と血を混ぜて飲み込んでいく。
于禁の伍も、いつしか形を失っていた。
「右へ寄れ!」
「まだだ!」
叫びが空を切り、もはや誰の声かも分からぬ。槍を構えたまま、押し戻され、また押す。刃が頬を掠め、熱い線が走った。血の匂いが鼻を焼き、大地が濡れ、滑る。視界の端々で指が、腕が、どこの部位とも知れぬ肉の欠片が飛んでいる。足を取られるたびに、死が近づく。
敵の顔が見えるほどに近い。歯に土が挟まり、唇は鉄の味がした。于禁は腕を振り上げ、突く。槍の穂先が胸を貫き、骨に当たった。手が震える。恐れによるものではなく、腕の感覚が消えていた。目の前の男が口をぽかりと開き、ごぼりと吐き出した赤黒い泡の生臭さに、胃液と糞尿の酸い臭いが混じる。敵を突き放し、息を吸う。音が遠のく。
次に気づいたとき、左の兵が倒れていた。その穴を埋めるように前へ出る。誰も言葉を交わさぬ。声を出せば列が乱れる。黙っていることが、唯一の条理だった。
右手の戦袍の裾が裂け、裂け目から風が入る。その冷たさで、于禁はまだ己が生きていることを知った。刃が閃き、叫びが飛ぶ。混じる音の中に、鮑信の声があった。
「右、押せ!」
その一声が、すべての音より高く響いた。彼はまだ立っている。馬上で剣を掲げ、陽を受けていた。その姿は遠くからでも分かる。兵はそれを見てまだ持ち堪えていたが、敵の波は止まらぬ。黄巾の群れが右から左へとうねり、鮑信の陣を包み始めた。旗が揺れ、土煙が覆う。
「将軍、中央が!」
伝令の声が届くより早く、鮑信の馬が跳ねた。足元に槍が突き立っている。馬が倒れ、鮑信の体がどうと地へ落ちた。
彼は立ち上がり、血に濡れた手で剣を取り、叫ぶ。
「退くな!」
その声が戦場に裂けた。敵が群がる。十、二十、数える暇もない。味方は遠い。援軍の旗は見えぬ。于禁は駆け出した。
「鮑将軍!」
叫びは届かぬ。敵を斬り払い、押し分ける。血が顔にかかる。泥が目に入る。それでも、前へ、前へとひたすらに進んだ。されど距離は縮まらぬ。敵が層を成している。剣が折れ、槍を拾い、また折れる。鮑信の姿が群れの中に沈んだ。
「敵の将だ!」
「首を斬れ!」
「服を剥げ!」
「その剣は俺のだ!」
叫びが重なり、血が上がる。于禁の視界が赤く染まり、音が消え、血の匂いと心臓の音のみが現に残る。
やがて陽が傾いた。沈黙が生まれ、煙が地に低く流れていく。斜陽の下、地に転がる鎧が光を返した。于禁は槍を杖にして立つ。息を吸うたびに、鉄と血の匂いが肺に入り込んだ。戦は終わったのか。終わっていないのか。耳の奥では、まだ鼓が鳴っている気がした。
仲間が次々と地に坐る。手にした刃を拭う者、空を見上げる者。誰も言葉を発しない。
鮑信の旗が見えぬ。土煙が戦場を渡る中、丘を下り、泥を踏み、于禁は歩いた。兵たちが残骸を片付けている。折れた槍、砕けた盾、裂けた衣、肉、肉、肉。人の形を失ったものが、そこかしこにあった。だが、鮑信の姿はどこにもない。
「鮑将軍を見た者は」
問うた声は、虚しくかき消えた。誰も答えぬ。答えられぬ。何も残っていなかった。
布の切れ端が泥に埋もれている。拾い上げると、血と脂が染みていた。布か肉か、もう判然としない。それでも于禁はそれを握った。手の中で、湿った音がする。
空は赤から黒へとその色を変えた。丘の上では、鼓手が鼓面に布を掛けて音を殺す。鳴らさぬためだ。音を絶やせば、夜が来る。
しかし、誰も火を起こさなかった。灯を掲げれば、敵に見える。闇の中に、兵の息が漂っていた。
地の匂いに、鉄と腐り始めの肉が混じる。鼻を刺すその臭いが、戦の終わりを告げていた。血が土に吸われ、音が消え、夜が降りる。
于禁は槍を立て、布の結び目を押さえた。小さいほどほどけぬ。ほどけぬほど、心は迷わぬ。
杭と紐。杭は折れ、紐は切れた。それでも、立たねばならぬ。それが兵の務めであった。
風が向きを変え、煙の残りをさらっていく。闇の中で、誰かが小さく祈る声がした。




