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04 伝令

 あれから二年が過ぎ、汴の岸に焦げた鍋を置いた日の匂いは、もう誰の装いにも残っていない。代わりに、新しい革と鉄の匂いが陣を満たしている。


 人も入れ替わった。覚えている名よりも知らぬ顔のほうが多い。だが、槍の握りは変わらぬ。重さも布の結び目の堅さも同じである。


 于禁は槍を目の高さに上げ、しっかりと巻き跡を確かめた。巻きが甘いと、突きの終いで腕がぶれる。ぶれは小さくとも、列の端へ出れば大きな穴になる。


 傍で、焚き場の鍋が湯気を上げていた。底を擦る音、木杓が縁に当たる鈍さ。若い兵が水嚢を振り、口を指で拭う。


 「また動くのか」

 「さあな」

 「それならそれで、早く伝えてほしいもんだ」

 「言われてから動くのが兵の務めだ。あれこれ文句を言っても仕方ない」


 そこで会話は切れたが、それでも困らぬのが兵の会話である。動くか動かぬかは、言葉より前に足が知っている。


 その折、伝令が手に札を挟んで駆けてきた。青州黄巾の残党が百万人とも伝わるほどに膨れ上がり、任城で乱れ、東平にも牙を向けていると報せられる。数は大きいほど見ぬ者の胸に効く。


 伝令が告げた。


 「備えを固めよ!」


 命は簡単で手間は長い。兵たちは盾の縁を削り、革紐を湿らせて通し、槍の布を巻き直す。于禁は伍の顔を一つずつ見た。


 「槍、曲がっていないか」


 古参の兵が柄を押す。


 「いや」

 「ならいい」


 いつも通りの、ほんのわずかなやり取りであった。例え言葉が足りなくとも、もう足す暇はない。


 この日、兗州牧えんしゅうぼく劉岱りゅうたいの旗が立った。


 出陣の報せが下へ降りてくる。鮑信が、賊は輜重しちょうなく長くは持つまい、と進言したのだと兵の内で噂が流れていたが、噂は噂のままに薄らいでいく。ためらいは上で決まり、下では足の幅が決まった。于禁は伍の並びを詰める。


 「幅、揃えろ」

 「はい!」


 履の紐を結び直す音と金具の立てる小さな音が続いた。会話はそこで切れ、呼吸の回数が増える。


 出立の刻がきた。馬の鼻息が背後へ流れ、兵たちの油じみた匂いが広がる。旗の下をくぐると人の目は上に行くが、上を見れば足が遅れ、遅れた分は隣が埋め、埋め続ければ隣が先にすり減る。ゆえに、兵たちはすり減らせぬよう下を見た。列は任城の方へ伸び、やがて視界から旗が消える。


 数日ののち、土煙が薄くなったころに札が戻り、伝令が告げた。劉岱が討死したとの報である。


 騒ぎはなかった。簿が繕われ、指揮の札が掛け替えられ、負傷者の道が引き直される。折れた槍や剣の破片は箱に集められ、札が貼られ、道具の行き先が変わった。列が止まらぬよう、誰もが手を動かす。


 于禁が焚き場に戻ると、鍋の底に固く黒い焦げが張りついていた。若い兵が棒で突く。


 「落っちねえなあ」

 「放っとけ」


 古参の兵が言った。


 「どうせまた焦げる」

 「……ああ」


 于禁は木杓で湯を回し、黒い薄片が円を描いて沈むのを眺める。


 その夜、鮑信が人を集めた。遠くから聞こえる声には芯がある。


 「命はここに残っておる。亡き者たちのためにも、嘆いてばかりではおられぬ。みな、次の働きに力を置け。列を崩してはならん」


 その言葉に、兵たちがうなずいたかどうかも見ぬ。散った後の火のように、言葉の温度がしばらく残った。


 翌朝、札がもう一束来た。伝令の口に、州吏・万潜ばんせんの名が上がる。鮑信が人を選ぶ、と伝令は言った。東郡へ行く者に残って守る者、避難を護る者と、それぞれに分けられていく。


 于禁は呼ばれたが、呼ばれた理由は知らぬ。伍で槍の具合が一番ましだったのかもしれない。出立の支度は穏やかであった。


 「水、足りてるか」

 「足りてない。水場が混んでたから、後で詰めてこようと思ってた」

 「今なら空いてるぞ。さっさと向こうで詰めてこい」

 「うん」


 やりとりが過ぎ、帯の結が小さく締まる。陣を出ると避難の列とすれ違った。荷車に載る布の端が浮きそうになり、それを子の指が支えている。兵の一人が水嚢を傾け、ひと口分けた。群れれば動きが崩れる。于禁は手を肩ほどに上げ、目で合図をした。合図は小さいほど規律が破れにくい。


 行軍の列の隣を札を抱えた男が歩く。陳宮ちんきゅうだ、と誰かが小さく言った。将の中で囁かれる名も兵にとっては大差はない。肝心なのはいつも荷と槍のほうである。


 並びが崩れかけるたび、伝令が走った。


 「詰めろ!」

 「はい!」

 「離れるな!」

 「はい!」


 同じ言葉の往復で列は形を保つ。


 やがて、幕の立つ地に至った。門の外に控えの兵の列がある。その動きには無駄がない。


 鮑信が進み、万潜が脇に立ち、陳宮が半歩下がる。于禁は少し離れたところで槍を立てて待った。幕の内からならされた歩が出てくる。速くも遅くもなく、場の音が歩に合わせて変わる。あれが曹操だ、と後ろで誰かが囁いた。その囁きはすぐに空に吸われる。


 鮑信が礼を正し、兗州のいまを述べた。賊は数に頼り、統制もとれておらず、糧は略奪。守りを固め、疲れの来るときを待ち、精兵で要を取るべし。


 曹操は三つ問うた。


 「民はどこに寄っている。輜重の道は生きているか。兵の心は乾いていないか」


 万潜が準備した文を差し出す。起筆のところだけ、曹操は目を落とした。初めを見れば、終いの形もおよそわかる。


 陳宮がわずかに視線を落とし、札の角に触れた。誰も余計なことは言わぬ。


 即答はなかった。


 「倒れぬ旗は、杭と紐で立っている。杭は地の中、紐は結び目の確かさだ」


 曹操は言う。


 彼が幕を去ったあと、陣の気配が引き締まった。風が抜ける音がやけに通る。鮑信は命じた。


 「陣を繕い、夜明けに備えよ」


 その言葉が伝令に渡るたび、杭を打つ音が夜に響く。


 「おい。布、足りそうか」

 「端切れが少し残ってる」

 「足りているならいい」


 于禁が焚き場に戻ると、鍋の中では麦がゆるく泡を立てていた。古参の兵が匙で底を撫でる。


 「お、今日は焦げてないな」

 「配られた薪が少なかったお陰だな」


 火の上で湯気が立ち上り、兵の肩の力が抜けていく。


 夜半、鮑信が端から端まで陣を歩いた。将が歩く夜は、敵より味方が多く生き残る夜だとみなが信じている。


 兵が眠りの内で息を合わせ、火の粉がひとつ灰に落ちた。その静寂の中で于禁は目を閉じる。


 戦が来る。それでも今はまだ、みなの息は揃っている。


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