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03 敗戦

 遠く左手の方向で、旗がひとつ折れた。折れた旗の向こうで、鮑信の乗る馬が一気に前へ出る。矢の雨を裂くように左右の兵が道を開けた。すぐさま、鮑信に寄り添うように軽装の男が走る。衛茲であった。骨ばった顔に無表情、手は余計に動かさぬ。走りながらも周りをよく見ていた。


 反対側には鮑韜がいる。兄の馬の脇腹ほどの位置に歩を合わせ、陣のほころびが生まれればすぐに埋めた。手綱のさばきが荒れぬように努めているのが分かる。


 騎の音が近い。地が波のようにうねった。


 「踏ん張れ!」


 于禁は槍を前へ突き出し、柄を胸で押さえた。先端が金属に触れ、鈍い感触が腕に伝わる。馬の鼻息が顔にかかった。


 左の兵が弾かれ、右の兵が膝をつく。于禁は片手でその肩帯を掴み、引き戻した。


 「立て」


 ただの言葉が体を起こす。


 矢の第二波が来た。前で鮑韜が肩を揺らし、馬の首がひるむ。彼はすぐに片手で体を支え、兄の馬の前に半歩入った。


 次の瞬間、鋲の打たれた胸甲に何かが当たり鮑韜の体が傾く。


 周囲の時間が、薄い膜に包まれたように遅くなった。鮑信が手綱をあげ、斜めに身を乗り出す。衛茲が走った。地を踏む音は乱れぬ。倒れかけた体を支え、血の出方を確かめ、顔を上げた。顔には何の色も出ないが、唇が僅かに動く。その唇が何を言ったのか、于禁の位置からは聞こえぬが、鮑信の眉がわずかに震えた。


 敵の騎がもう一度押し寄せ、さらに押し返す。于禁は伍を縮めた。間隔を短くし、互いの肩が触れるほど近くに寄せた。


 「後ろを見るな!足は前!」


 叫ぶ声が盾と盾の隙間で跳ね返る。槍の柄が一つ折れた。別の手が折れた槍を押さえる。


 衛茲がこちら側に寄ってきた。腕に矢を受けている。矢柄を折り、血を流しきらぬよう布で縛る。彼は目で周囲を見回し、于禁の伍の空きを二つ、三つ拾って埋めた。


 「押し返せるか」


 問いではなく、確認であった。于禁はうなずき、衛茲は笑う。声を出さぬ代わりに、地を蹴って前へ出た。


 次の瞬間、音のない斜めの影が彼の胸を走り、血が布の上に丸い花を咲かせる。彼は崩れず、体を半歩引いて坐った。膝に手を置いたまま顔を上げ、遠い昔からの友にでも語りかけるように口元で言葉がこぼれる。前へ。ただ前へ。


 鮑信の声が陣の上を渡る。


 「一度退く!陣を乱してはならぬ。みな、必ず生きて戻れ!」


 命を受け取る者が迷わぬ声だった。于禁は伍の背を押す。


 「下がれ!間を広げるな!」


 後ろを振り向く兵の首を軽く叩いた。いま見てよいのは足元だけだ。後ろに悲しみがあっても、戻る道は前にしか開かれていない。


 汴水の岸に出ると冷たい風が頬を斜めに切った。川面が騒がしい。踏み入れれば足が取られる。退く兵の脇を布を張った輿が行き交い、担がれた者の指先が動いた。生きている。


 于禁は最後尾に位置を変えて追ってくる敵の足を数えながら、間合いを測った。追撃の勢いは強いが、長くは続かぬ。


 「止め!」


 そう命じて一歩踏み込み、前列が同時に槍を突き出した。追う側の足が遅れ、肩が泳ぎ、そこで引く。押し引きの呼吸が兵を生かす。


 そのとき、右手の丘の上で新たな鼓が鳴った。曹操の軍が側面から攻勢に転じたのであった。敵は一瞬たじろぎ、追撃の勢いを緩めた。汴水の流れのように戦の音が重なっていく。


 鼓の音が別の調べに変わった。味方の側面が揃い、追撃の角度が変わった合図である。鮑信が再び陣を回した。弟を担がせ、自らは最後の最後まで馬首を返さぬ。その背に誰も言葉を投げることは出来なかった。


 陣へ戻る道は長く、夜が来るのは早い。焚火が支度され、湯が鳴り、やがて焦げた麦の匂いが鼻をかすめる。担がれてきた者の中に衛茲の姿はない。


 鮑韜の傍らに鮑信が坐り、膝に両手を置いたまま長く息を吐いた。見張りの若い兵が、火の向こうから声を掛ける。


 「将軍、我らは敗れたのでしょうか」


 鮑信は顔を上げた。火の明かりが瞳に入る。


 「……勝ちは取れなんだが、義は落とさなんだ」


 声に張りはない。それでいて、火のはじける音より明らかだった。


 「義を捨てて勝つ策では次が続かぬ。今日残したものは明日の矢になると信ずる他ない」


 自身にも言い聞かせているようなその言葉に、若い兵はうなずいたのかどうか顔が暗くて分からぬが、背の丸みがわずかに和らいでいた。


 鍋が一度、底を打った。湯が上がり、麦が踊る。于禁は木の匙で鍋の縁をこそげて、焦げを起こした。黒い薄片が湯の上を回り、ゆるやかに沈んでいく。


 焦げは苦いが、苦いものが混じっていない粥など戦の粥ではない。彼は配膳の列の最後に回り、空いた椀を拾って並べた。指先に残った砂を払い、布で槍の穂先を拭く。泥が乾いて落ち、鉄がわずかに光った。


 夜半、風が変わった。火の勢いが弱まり、襜褕せんゆに白い粉が降りる。


 鮑信が立ち、中央から端へ、端からまた別の端へと歩いた。眠れぬ兵の傍で足を止め、顔を見て、何も言わずにまた歩く。誰の名も呼びはせぬ。呼べばそこに情が生まれる。情はときに重く、その重さは兵を地面に縫いとめてしまう。それでも歩く足取りに、兵は目を閉じながら耳を澄ませていた。将がいる。この夜を越えるために必要なことは、その一つだけである。


 明け方、于禁は槍を布で包み、柄の布を結び直した。指は思いのほか確かに動く。火は灰になり、鍋の底には黒が残っていた。彼は鍋を持ち上げ、水を少し注いで木べらで底を撫でる。焦げが柔らかくほどけ、黒が水に溶けていった。


 そこへ影が落ちた。鮑信である。


 「眠れたか」

 「は、はい」

 「傷と人を数えるゆえ、今日は動かぬ。お前も休める時に休んでおけ」


 ほんの短いやりとりであった。去ってゆく背に于禁は深く頭を垂れる。誰にも見えぬところで、垂れる。


 陽が昇ると伝令が戻って来た。徐栄は深追いをやめ、陣を固めたのだという。勝ちは遠のいたが、今日の陣は崩れていない。于禁は伍の名を一つずつ呼んだ。返る声を数える。返らぬ名が二つ。その二つは、もう二度と口に出さぬ名になった。名は地に落ち、槍の柄に沁み、鍋の焦げに混じる。焦げは水で洗っても、木目の奥に残る。人の義もまたそうして残るのだと、彼は思った。


 汴水の方から一陣の風が吹く。冷たいが、どこか澄んでいる。于禁は空を見上げて息を吸った。あの背の下でなら命を使える。言葉にすれば軽くなる思いを言葉にせず、胸の内で抱えた。


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