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02 伍長

 粥の鍋を囲む列の間に、兵の息が煙になって浮かんでいる。木の匙が椀の縁に当たって鳴り、ひと口すすれば味のない麦の皮が舌に残った。それでも腹を満たすだけで体が温まる。


 于禁が匙を置いて列の端を見やると、若い兵が鎧紐を結び損ねて、手を震わせていた。寒さで指が動かぬらしい。彼は歩み寄って結び目を確かめる。


 「指を動かせ。血が通わねば槍が持てぬ」


 若者は驚いてうなずいた。于禁はそれ以上言葉をかけず、手早く締め終えると鍋の方へ戻る。


 六年のうちに彼は伍長になっていた。黄巾の戦の頃から残った者は少なく、今では古参の一人である。将に名を呼ばれることはなくとも、部下五人の命を預かっていた。


 野営の外では、馬の蹄と車輪の音が続いている。洛陽からの撤兵と新たな編制が混ざり合い、陣は慌ただしい。周囲には焦げた木材の匂いが漂っており、あれは洛陽の焼け跡から流れた煙だと誰かが言う。


 于禁は無言でその匂いを吸い込んだ。戦の匂いは、火と鉄と汗の混じった臭いであった。嗅ぎ慣れたつもりでも、胸に残る。


 鼓が鳴り、出征の合図が走った。兵たちは慌ただしく鎧を締め、槍を手に取る。


 そのとき、巡察の列が陣を通り過ぎた。先頭の騎に立つ男は鮑信ほうしんである。彼は馬上から陣の隅々を見渡し、寒気に凍える兵たちに声をかけた。


 「火を絶やすな。みな、寒さに負けてはならぬぞ」


 些細な言葉であったが、誰の耳にも届くような響きがある。近衛が湯を配ると、鮑信は馬から降り、受け取った椀を自ら一人の老兵に渡した。


 「しっかり温まれ。明日の戦は、手の早い者が勝つのだからな」


 その仕草に兵たちの顔がほころぶ。于禁は列の後方からそれを見つめた。将が兵に湯を渡すという、たったそれだけのことで、冷えた空気がわずかに緩むのを感じた。名を呼ばれたわけでもないのに、それでも兵たちの胸は熱を帯びる。


 その日の午後、隊は滎陽けいようへ向けて進軍した。鮑信は曹操そうそうとともに軍を合わせ、董卓とうたくの将・徐栄じょえいを討たんとしていた。洛陽の外郭を過ぎれば、瓦礫と灰が続くばかりである。かつての街道は崩れ、瓦の破片が馬の蹄に当たってこつんと音を立てた。


 道の両側には焼け落ちた家が並び、梁の黒が陽に晒されて変色している。屋根のない家に、子供のものであろう小さな履物が転がっていた。誰のものかは分からぬが、拾い上げた兵が無言でそれを道の端に置く。


 井戸の石枠には灰が積もり、覗けば水の代わりに煤が浮いている。かつての市は跡形もなく、商人の架が骨のように残っていた。鉄の鍋が一つ転がる。道を行く兵の履がそれを蹴り、からからと音を立てた。


 兵たちが黙々と歩を進めるなか、伍の若者がつぶやく。


 「諸侯が集まって何をしているんだろうな。だぁれも動かねえ」


 別の兵が応える。


 「鮑将軍と曹将軍だけが進もうとしているらしい。ほかは腰が重いってさ」

 「義だの忠だのと旗を掲げても、誰も剣を抜かねえ」


 列の後ろで、老兵が淡と共に吐き捨てた。


 「戦を恐れるのは人の性であろう。だが、恐れたまま旗を掲げるのは罪だ」


 誰もその言葉を受けぬ。顔にかかる灰を兵は袖で拭き、また前を向く。洛陽を離れてなお、焦げた匂いは土にしみついて離れない。


 彼らの言葉に、于禁は黙したまま槍を担いだ。山東の群雄が董卓を討つと掲げながら、誰も矢を放たぬという。だが、鮑信と曹操はすでに動こうとしている。その違いこそが命を懸けるに値するものだと彼は思った。


 空の端が赤く染まり、焼け跡の上に同じ赤が映る。まるで炎がまた燃え出したように見えた。于禁は思わず足を止めたが、すぐに歩を戻す。歩かねばならぬ。止まれば冷え、冷えれば命が遠のく。その単純な理が、彼を動かしていた。


 汴水べんすいへ近づくころ、ふいに風が強まる。川面には氷が残り、足場はぬかるんでいた。渡河の途中、若い兵が滑って水に落ち、周囲が騒然とする。鮑信は馬上からその様子を見ると即坐に命じた。


 「湯を沸かせ!濡れた者は休ませろ!」


 湯が運ばれ、兵がせんに包まれる。鮑信はそれを確認すると、再び馬首を東へ向けた。その背を見送る于禁は心の内でつぶやく。この人は兵を人として扱う。だからこそ、みな命を惜しまぬのだろう。


 夜になり、陣のあちこちで焚火が灯った。湯気に混じって焦げた麦の匂いが立ちのぼる。その中央、将の幕営では鮑信とその弟の鮑韜ほうとう、そして張邈ちょうばくの配下・衛茲えいじが地図を広げていた。于禁は伍の者たちと少し離れた場所から、その光を遠くに見ていた。


 焚火の輪の外では、若い兵が膝を抱えている。指の節が腫れ、目は火の方へ向いていながら、焦点はどこにも合っていない。別の若者が、眠れねえな、と小さく笑った。笑いは音にならず、唇の動きが残る。古参の兵がその隣で刃を布で拭いていた。磨かれた鉄が火を受けてちらと反射する。


 「あれこれ考えるからだ」


 言葉というより、息の延びた独り言だった。若者はうなずきもせずただ火を見ていた。焦げた匂いと人の息が混ざり、夜風がその上を流れる。誰も声を上げぬ。声を出すと胸の震えまでこぼれそうだった。


 古参たちは黙して手を動かす。彼らの無言が、夜の中でひとつの律をつくっていた。若い兵の震えが少しずつ収まり、火の音が代わりに響く。その合間に将たちの話声が耳に届いた。


 「兄上、明日は我らが先鋒だと?」

 「そうだ。動かねば士気が腐る。勝ちを拾うには先に矢を放つしかあるまい」

 「命を惜しまずとも、人は惜しみましょう」

 「人を惜しんで国を失えば、それこそ本末転倒であろう」


 言葉が空に溶ける。焚火の明かりがちらつき、三人の影が地に揺れていた。于禁はその影を見つめながら手の中の槍を握り直す。指先に汗がにじんだ。戦が始まる。そして誰かが死ぬ。そのことをみな、言葉にせずとも理解していた。


 夜明けはまず鼓の皮に来た。ひと打ちの音が鋭く空を切る。


 風が幕の縁を持ち上げ、火の粉が二つ三つ、暗がりから跳ねた。兵たちは黙って立ち上がり、紐を締め、槍を取る。


 列が動き出す。前に、さらに前にと。青い空に旗がいくつも揺れている。矢羽の束を運ぶ小兵が、転ばぬよう膝を柔らかく使って走っていた。弓手が指先をこすって感覚を戻し、矢をつがえる。


 最初の一声は遠かった。地平の端で鉄がぶつかり、すぐに応えるようにこちらの鼓が鳴る。敵の先頭に、兜も甲も厚い騎の列が見えた。それが土煙を押し分けて迫る。徐栄の重装であった。


 右手の丘には曹操の旗が立っている。布地に曹の字が揺れ、鼓の音が鮑信軍と呼応した。二つの軍が互いに間を詰め、汴水を挟んで並び立つ。


 于禁は自分の伍を見た。若者が一人、吸っても吸っても息が足りぬかのように、口を開けては肩を上下させている。


 「息を細く吐け」


 それだけ言って、槍の石突きを土に軽く打った。音が揃い、前列の足並みが微かに揃う。


 敵の矢が来た。最初の一斉である。空が黒くなり、次の瞬間には地が鳴った。木の柄に重い衝撃が伝わり、脇を掠めた矢が後列の脛に刺さる。叫びが走ったが、前列は動かぬ。


 「盾を上げろ!間を詰めるな!」


 伍の中で、于禁の声が背を正す骨となった。


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