01 兵卒
朝の合図が鳴る前に、野営の囲いはすでに動き始めていた。眠りの浅い者たちが土の上から腰を上げ、鎧を払う。夜露に濡れた革の紐を手で絞り、凍えた指で結び直す。焚火の跡から炭を掘り起こし、まだ赤い塊を新しい木片に移す。湯を沸かすのも鉄鍋の焦げを落とすのも、順番が決まっている。
于禁、字を文則は、鍋底にへばりついた麦の黒い皮を指でこそげた。爪の間に黒が残り、そこへ井戸水をかけると、冷たさが骨に染みた。
向こうでは同じ伍の昌豨が、草鞋を火の傍で乾かしている。焦げた匂いが立ち、鼻を刺した。
「おい、火に寄せすぎだ」
于禁が言う。
「どうせ明日にはまた泥まみれさ」
昌豨は笑いながら草鞋を持ち上げた。底が片方焼けて波打っている。
「それで歩けるのか」
「歩くしかないだろ。俺たちの足なんぞ、所詮道具みたいなもんだ」
彼は言いながら干した衣を肩に掛けた。裾にはまだ血の色が薄く残っていたが、誰の血かはもう分からぬ。その赤も、陽に照らされてやがて大地と同じ色になる。
鍋の湯が鳴った。麦と粟の粒が膨らみ、泡の間から音を立てては底に沈む。鍋を見守る者の目は虚ろで、みな無言であった。
一人の兵が、手をすり合わせながら、配られたばかりの碗を見つめている。碗に盛られたのは、乾燥した大地が辛うじて育んだ、黄色くぼそぼそとした麦と粟の飯であった。否、飯ではなく粥である。兵たちは配られた者から、それを吸い込むようにして喉に流し込んだ。
野に新鮮な青物などあろうはずもなく、粥菜と呼べるものは、青菜の塩漬けのみであった。大抵は蕪の切れ端を塩に漬け込んだ代物で、酸味が強く塩辛いそれを粥に合わせる。これこそが、汗にまみれて進軍する彼らの貴重な栄養源であり、失われた塩分を補う生命線であった。
肉の匂いは、はるか遠くの帷幕から風に乗って漂ってくるのみである。軍営で飼育される豚や羊は将軍たちの特権であり、一般兵が稀にでも口にできるのは、黴の生えかけたわずかな干し肉の破片であった。それを鍋の湯に放り込み、ちびちびと出汁を絞り出して味わうのが、彼らにとって最高の贅沢である。とはいえ、この日の食にそのような品はない。
于禁にも碗が回り、粥が配られた。木の匙がぶつかって湯気が頬を撫でる。粥自体に塩はなく、味もないが、温いものが腹に落ちるだけで身体は動く。
于禁は一口すすり、空を見上げた。灰色の雲がゆっくりと流れていく。戦は終わったというのに、誰の気分も晴れなかった。
「文則」
昌豨が于禁に声を掛ける。
「何だ」
「お前、いつまでこんな暮らしを続けるつもりだ」
于禁は匙を置き鍋の火を見つめた。焚火の下で木の根が弾け、火花が一つ、昌豨の頬をかすめる。
「黄巾の戦も終わってもう久しい。だが俺たちは帰るでもなく進むでもなく、ここにいる。大きな戦もなく、小競り合いばかりで褒美もない。……なあ、このまま灰になるのを待つのか?」
「命じられれば戦う。それが俺たち兵の務めだ」
「務め?務めなんて言葉じゃ、腹の足しにはならん」
昌豨は粥を飲み干した。
「徐州で人を募ってると聞いた。あっちなら立つ機会もある。お前の腕があれば名を上げられるだろ」
于禁は返事をしなかった。木匙を置き、鍋の底に残った焦げを見つめる。その黒が、まるで泥のように見えた。
「動くなら今だ」
昌豨の声が小声になる。
「ここでくすぶっていたら骨まで冷える。俺と来いよ、文則」
「……俺は行かん」
「なぜだ」
「鮑騎都尉は良い方だ。俺は、あの方にお仕えする」
「名のある将軍ならともかく、騎都尉さまが俺たちの顔なんぞ覚えているものか」
昌豨は鼻で笑った。
「忠義を掲げても誰も見ちゃいない。お前の武は腐るぞ」
于禁は息を吐く。
「この話は聞かなかったことにする」
昌豨は匙を放り、火をまたいで歩き出した。地を踏む音が土に吸われる。焚火の煙が流れ、二人の間を割った。于禁はその背を追わぬ。
午後の鍛錬が始まると、号令が鳴り、兵たちは列を作った。鼓はなく、音の代わりに空の寒気が場を引き締める。素足のまま踏み出し、槍を構えた。木槍の先が一斉に突き出され、空気が裂ける。腕が重く、肩が痛み、指の皮が裂けた。それでもみな、黙って同じ動きを繰り返す。
手を止めた者は紐のほつれを結び直し、隣の者の槍を直した。教える者もいなければ罵声もない。ただ生き延びるための動作が続く。槍の影が地に並び、太陽がその位置を少しずつずらしていった。
鍛錬が終わると列は散る。兵たちは腕を擦り、手を火で温めた。誰も言葉を発しない。その沈黙の中には、息と咳の音のみがある。
于禁は槍を布で拭いた。穂先にこびりついた泥を落とすと、刃が輝きを取り戻す。柄の木が手に馴染み、節のあたりに汗がしみ込んだ。それは道具というより、身体の一部のようにも思える。
陽が落ちるころになると、陣の端では洗濯した衣が干されていた。遠くで桶が倒れ、鉄の触れ合う音が続く。誰かが桶を倒し、水が地に流れた。焦げた匂いが辺りに漂う。また誰かが何かを焦がしたのだろう。空はすでに紫色に染まっていた。
夜になると、野営は声を潜める。兵たちは焚火の周りに集まり、無言で手を伸ばした。火の明滅が顔を照らし、疲れの色が浮かぶ。干した鎧の金具が火を受けて鈍く輝いた。黴た匂いのする藁の上に体を横たえ、誰かが唾を吐く。その音が夜風に混じって消える。
于禁は槍を傍らに置き、足を布で拭いた。土が固く、足の裏に痛みが走る。息を吐くと白い煙が出た。焚火の熱が顔の片側を温めるが、もう片方は冷たい。遠くで馬が鳴き、鈴の音が続き、やがて止む。
于禁は目を閉じた。何かが動き、幕が揺れる。その中に、人の足音はもうなかった。
朝、昌豨の寝床は空になっていた。地の上には足跡が残り、雪解けの道へと伸びている。
見張りの兵が言った。
「ひとり、いなくなったな」
于禁はうなずくが、何も言わぬ。槍の穂先に指を這わせてから柄の布を巻き直した。
陽が昇ると、再び号令がかかる。誰も昨日と違うことはしない。だが于禁の胸では何かが小さく形を変えた。それが何かは分からぬ。ただ息を吸い込むと、胸が少し熱を帯びていた。
翌朝は、昨夜の続きのように始まった。藁の並びに空いた場所がはっきりと形を保っている。上掛けの端がひとつ結び目のまま硬く残るが、ほどく手はもうない。
鍋の焦げは昨夜より濃く、こそげた黒が布の織り目に入り込んだ。板を斜めにかけ直すと、湯の音が落ち着く。配膳の列は気持ち短い。誰もそのことを数えず、ただ手順が進む。粥は少し濃く、匙を置く音が鈍い。
水場では桶を支える手が一つ減った分、残った手が強く綱を引いた。指が白くなるまで力を入れ、肩で受ける。刃を拭く布は端から擦り切れ、結び直した紐が増えた。結び目が多いほど動きは確かになる。
鍛錬の合図が走ると、列は昨日と同じ角度で揃った。踏み出し、突き、引く。土の硬さは変わらず、掌の痛みが増えた。隣の列で穂先が一度ぶれ、すぐ戻る。その戻る速さに、みなが何も言わず息を合わせる。終いの合図で一歩下がると、木の柄がいっせいに小さく鳴った。
休みの間、粟をつぶす音が点々と弾け、古い油を伸ばす匂いが辺りに広がる。裂いた布を指に巻く者の爪に土が詰まり、別の手がその端を押さえた。礼は言わぬ。糸の先より言葉の方がほどけやすい。
その日も兵たちは粥を煮、槍を研ぎ、眠った。誰も名を呼ばれず、誰も褒められず、それでも日々は続く。泰山の上には薄く雪が残っていた。その白の向こうで雲の切れ間から差す陽が、鍋の縁と槍の穂先が反射する。于禁は立ち止まり、その光を見上げ、何も言わずにただ息を吐いた。胸に、言葉にならぬままの熱がくすぶっていた。




