06 木像
夜が明け、霧が薄れていった。血濡れた風が野を渡り、渾濁の臭気が鼻を刺す。無数の傷口から溢れて大地を染めた血が放つ、錆びた鉄のような金属臭。人馬の体内から漏れ出た、臓腑と糞尿の悪臭。さらに、陣を焼き肉を焦がした火の燻りと、数万の男たちが死に物狂いで流した脂汗。これらが混然一体となり、踏み荒らされた大地から噎せ返るように立ち昇る。兵たちはその渦中を黙して歩き、倒れ伏した者の名を確かめていく。声は出さぬ。呼んでも応えがないことを理解しているからだ。
鳥が頭上で輪を描いていた。その下では、野犬が血の乾いた肉を引きずっている。書吏の一人が石を投げ、犬は唸って逃げた。そのあとに残ったのは、誰のものかも分からぬ腕である。腐り始めた皮膚の上には歯の跡があった。人の世の外に出れば、獣はためらわぬ。于禁は目を逸らさなかった。これもまた、戦のあとに残るものの一つである。
足元には折れた槍が散り、刃のいくつかは泥に埋まっていた。鳥は再び舞い下り、兵が追う。追っても、すぐに戻る。戦は終わったが、終わりという言葉の輪郭は、ここでは薄かった。黎明が訪れたとて、戦いの跡は地に残る。
どれほど探しても鮑信の姿は見つからなかった。名も位も持たぬ若い兵が、土を掘り返しては立ち上がり、しばらく空を見てからまた膝をつく。それを真似る者が続いた。
人の形を残した腹がわずかに動く。誰かが見間違いかとつぶやいたが、裂けた衣の奥に小指の先ほどの黒い羽虫が蠢いているのを見つけ、すぐに口を閉じた。探すとは、祈るのと同じことだった。祈りは声でなく、手の動きに宿る。掘る手、持ち上げる手、覆う手。どの手も、重かった。
曹操が丘に姿を現したのは、その日のうちである。黒い馬は汗を白く吹いていた。彼は戦場を見下ろし、しばらく動かなかった。伴の者が何か進言したが、曹操は首を横に振り、命じる。
「鮑将軍の遺体を見つけた者には、黄金を与える」
その声は、不思議に遠くまで届いた。人の群れがまた動き始める。川筋に沿って、林に沿って、列が幾筋も延びていく。
辺りが闇に覆われるまで探し、何も得られないまま戻る。翌日も、そのまた翌日も、同じことが繰り返された。土の色は掘り返されるほどに暗くなり、焚き火の灰は広がって足の裏に貼りつく。食は粗く、言葉は少なかった。誰も無駄を嫌ったからだ。無駄に声を使えば、心が割れてしまう。
于禁は空に薄明かりが差すころ、ひとり立った。耳に残っているのは、戦の最中に聞いた鮑信の声である。
退くな。
それきりの響きが、暁天にほどけた。胸の内で、言葉が形を持つ。
あの獣たちに食われてしまったのだ。
思考の底で何かが定まった。唇がわずかに動き、声が漏れる。
「粥と律がなければ、人は獣と変わらぬ」
捜索は続いたが、誰も鮑信を持ち帰れなかった。
その夕暮れ、老兵が焚き火の傍で木を削り始めた。何を作る、と隣の者が問えば、老兵は刃先を止めずに答えた。
「あの方の顔を見たいのさ。せめてもう一度だけでも」
刃が木の繊維をはがす音は小さいが、周りの者にはよく聞こえた。若い兵が手斧を持ってきて、曲がった柄を直し始める。別の者は折れた槍の柄から使えそうな部分を切り出した。似せようとするほど、似なくなる。それでも誰も笑わぬ。木屑が焚き火に落ち、火が鳴いた。
夜半前、粗い像が立った。顔は平らで、眼は穴に過ぎぬ。されど人は列を作り、像の前に膝をついた。哭礼を告げる者はなく、誰も合図をしない。
そのとき、曹操が歩み寄った。鎧の下には泥が残り、馬の汗の匂いが漂っている。彼は像の前に立ち、しばらく動かず、沈黙のまま立ち尽くしていた。その姿は兵の誰より深い悲しみを物語っている。
焚き火の明かりが揺れ、灰が舞い、息が重なった。ただぼんやりと佇むばかりで、誰も口を開かぬ。声を出せば、像の輪郭が崩れるような気がした。
于禁は列の端に立っていた。木像の影は、焚き火の揺れに合わせて伸び縮みする。鮑信の面影はどこにも宿らぬが、人はその前で自分の心を並べ替える。
形は心の置き場所であった。置き場所があれば、散ったものはまた集められる。その理が体の芯に落ちていくのを感じた。
明けて、風が乾き、甘い死臭が漂った。天も地も蝿と蛆の群れに覆われ、捜索を続けようと言い出す者はもういない。それでも、誰かが焚き火の灰を払い、木像の足元を清める。像の前に置かれた小さな器には、薄い粥が入っていた。兵のひとりがつぶやく。
「将も腹は空く」
冗談のようにも聞こえる言葉であった。それは供えものというより、まだ残る絆の形である。
この日を境に、去る者が出始めた。荷を解いては縛り直し、郷里へ帰る道を確かめる。もはや誰も泣きもわめきもせず、怒る者さえいない。鮑信の下で剣を学んだ小隊は、まとまって去った。彼らの歩き方は、まだ揃っている。別れの挨拶は短く、互いの肩を軽く叩くだけだった。
曹操は咎めなかった。呼び止めず、責めず、通り過ぎる背中を見た。命じないということもまた、命令の一つであるかのように、彼は平らである。
于禁は残った。理由を言葉にしなかった。木像の前を通るたび、像の足元に置かれた器の縁に目が行く。腹を満たす粥があって、列を保つ律がある。粥は人の力を保ち、律は人の心を保つ。どちらも欠ければ、人は簡単に崩れる。その単純なことが、この地では生き死により価値を持った。
昼の刻前、古参の兵が于禁に近づく。鮑信のもとで二度、陣をくぐり抜けた男であった。
「済北に散った残りを追うそうだ」
声は砂を含んでいる。
「行くのか」
男が問い、于禁はうなずく。問われなくとも行くつもりでいた。声にすれば、気持ちは軽くなる。軽くなったものは、時に軸を失う。彼は軽さを嫌った。
午後、各営の端々で点呼が始まった。筆を持つ吏が名を読み、返事が返る。返らぬ名は札の上で線になった。列の端にいた男が、札を受け取りに来た書吏に小さく告げる。
「鮑将軍の兵は、こちらに寄せる」
書吏は眉を上げたが、すぐにうなずいた。札の上の線が、ゆっくりと別の列に移される。そこに命令はなく、自然にそうなっていた。
鮑信の下で槍を握った者たちが、于禁の背の方へ歩み寄ってくる。互いに名を呼び合うようなことはせぬ。名よりも先に、歩きの速さと呼吸の深さが合う。
夕刻、簡素な軍議が行われた。地図は粗く、印の多くは指でなぞられただけであった。済北へ逃れた群れの向きに橋の位置、浅瀬の名。話は短く済んだ。
終わり際、端に坐っていた若い兵が手を上げかけてやめた。問いは自分で引き受けるべきものだと気づいたのであろう。その若さが、于禁には羨ましかった。
夜、焚き火の火は小さく保たれた。眠りに落ちる前、于禁は槍の柄に掌を当てる。木は乾いていて、わずかに温い。この柄を握って歩く群れがあり、明日はその群れの先に自分が出る。命じられずとも、群れはそうなる。鮑信がいなくなったあと、自然に残った線の延びるほうへと。
星の少ない夜であった。風が止み、野は灰の匂いが強くなる。静寂の内には、遠い鼓の幻のようなものがまだあった。それが本当に鳴っているのか、記憶が鳴らしているのか、判じがたい。
于禁は目を閉じた。眠りは浅くてよい。浅い眠りは、すぐに起きられる。起きるべきときに起きられれば、よい。足りぬものを数えれば、きりはない。足りるものを握れば、歩ける。
翌る日、列が動き、先陣に立つ于禁の背に鮑信の兵が続く。丘を越え、河を渡り、荒れた田を進んだ。馬の足がぬかるみを叩く音が続く。戦の気配はまだ残り、鳥が飛び立つたびに兵が顔を上げた。誰も声を出さず、呼吸だけが律を作っている。
済北の戦の終わりは早かった。散った黄巾の残党は追いつめられ、やがて武器を捨てて逃げる。それを追って、于禁は騎を率いた。地上に陽が降り注ぐ。群れは崩れ、やがて白旗がいくつも上がった。
降伏の使いが来たのは、その日の午後である。曹操は陣にて報を受け、長く黙したのちに言う。
「みな殺しにはせぬ。降る者は収めよ」
その命に兵たちは一瞬戸惑ったが、やがて理解した。賊もまた人であり、律を与えれば、獣ではなくなる。
降兵三十余万、信者百余万。曹操はそのうちの精鋭を選び、その兵を青州兵と称した。かつて獣と呼ばれた群れが、律を得て兵となる。
于禁はその列を見つめて思った。
人は律を得て、人となる。
空は明るく、地は冷たかった。戦の匂いはまだ残っていたが、地の上には新しい規範がある。粥と律。人の世を繋ぐものは、その二つであった。于禁は槍を立て、歩を進める。




