35 清影
ほのかに暖かさを含んだ空気の中で、若草が地面から芽を出している。遠くの水面には氷が残り、鳥がその上を滑るように飛んでいった。都の朝は、人の声よりも木々の枝をわたる微かな音の方が早く届く。
その日、于禁は出立を命ぜられた。曹丕は群臣の前で長く語らず、彼にただ一文の詔を与える。
『呉に使し、国の意を伝えよ。』
筆跡は端正で、言葉の数も少なかった。それ以上の命はない。于禁は書簡を受け取り、深く頭を垂れた。謝の言葉さえ発しなかった。沈黙が、最も確かな礼である。
門外に馬が並び、帛を巻いた綱が陽を受けて輝いた。見送りに立つ者は少なく、鼓も鳴らぬ。衛士が遠くで槍を立て、門を開いた。
于禁は馬に乗り、手綱を引く。影が地を渡り、蹄の跡が石の上に刻まれた。その影の形を見つめ、于禁は口元を引き結んだ。胸に浮かぶものは言葉にもならず、払暁のなかに溶けていく。
街を離れると、道は開けていた。田畑のあいだを流れる川が陽を返している。草を踏む音が列に重なり、遠ざかっていった。誰も言葉を交わさず、しばらく息の音のみが続く。春のはじめの空はどこか憂鬱であった。
都を遠く離れると、護衛の将が進み出て告げる。
「この先、鄴の陵へ至ります。主上のご許可がありました」
于禁はうなずき、答える。
「そうか」
それきりである。声は地に吸われ、後ろの兵はそれを聞いて黙した。
丘を越えると、灰色の石が遠くに見えた。曹操の陵である。周囲には柏が並び、根のあいだから土の香が立ちのぼっていた。葉の端がわずかに鳴り、陽は雲に遮られ、柔らかく石の面を撫でる。
于禁は馬を下り、鞍に手をかけて息を吐く。鎧の留め具がわずかに鳴った。音を聞きながら、歩を進める。石の段のひとつひとつに歳月が積もり、その上を踏みしめるたび、戦場の記憶が過ぎった。
陵の前に至ると、膝を折り、掌と額を地につける。冷たい土の感触が指に伝わった。その冷たさは、幾たびもの戦で握った槍の温度に似ている。
目を閉じると、遠い鼓の響きが心に浮かんだ。泰山の夜、官渡の煙、そして樊城の水。しかし、それらは音を残さず、すぐに消える。無言の内で息をし、己を律する形だけが于禁の中に残っていた。
陽が傾き、刻まれた文字に陽が宿る。あたりが鎮まり、その静謐の中に時が流れていた。それはかつて曹操のもとで戦った日々すべてを包み、いまもなお、彼の内に脈を保っている。
長い沈黙ののち、于禁は立ち上がった。衣の裾に土がついたが、払わなかった。背が石に重なり、地の上でひとつの形をなす。遠くで鳥が鳴き、音が空へと昇った。その声を振り返らず、于禁は歩みを陵の外へと移す。
護衛の将が遠くで手を挙げた。行路の支度が終わった合図である。于禁はうなずき、馬へと戻った。背に手を置き、腰を下ろす。陽が傾き、影がその頬にかかった。瞳は澄み、何の色も映さぬままに、静謐な光をたたえている。
振り返ることなく、護衛の将の手綱が引かれた。陵が背に重なり、葉がひとつ、舞うように落ちる。それが地に触れる前に、列は動き出す。蹄の音が重なり、山に溶けていく。
列は野を抜け、遠い路の先へと続いていた。地は緩やかに傾き、踏みしめるたびに土が粉となって舞い上がる。足跡はしばらく残り、やがて消えた。音も景色も、すべてが薄れゆくようである。
呉に続く道の傍らに、幾つかの家があった。屋根の上に干された布が、柔らかく揺れている。畑では人が鍬を振り、幼い子が水を汲んでいた。誰も行列に声をかけぬが、手を止めぬままに目は上げる。その一瞬の動きが、道を過ぎる影の形と交わった。互いに気づかぬまま、光と影が離れていく。
荷を負った車が音を立てる。そこには軸の音を聞き、木片を打ち直す者の姿があった。顔は見えぬが、打つ角度の正しさに、長く培われた癖があった。戦でも家でも、木は鳴いてはならぬ。鳴けば折れる。その律が、時を越えて受け継がれている。
丘の上で、若者が畔に立っていた。袖をまくり、手の汚れを拭う。列の音が遠くに響き、しばらく耳を澄ませた。どこか懐かしさのようなものが胸をかすめたが、その理由は分からぬ。やがて鍬を取り、黙って土を返した。春の土は柔らかく、その上に陽が降りていた。
列は霞を帯びた光の中を進み続けた。于禁は先頭にあって、何を見るでもなく、地平の線をなぞるように遠くを見ていた。その姿は馬と重なり、ゆるやかに揺れている。音は消え、歩みだけが時を刻んだ。
やがて川に出た。浅い流れの上に輝きが散り、波紋が幾重にも重なっている。列は水を渡った。蹄が打つたびに雫が上がり、光の中で細かな粒となって舞う。流れが途切れるころ、対岸に家々の煙が見えた。粥を煮る煙がまっすぐに昇り、空の薄明に交じり合っていく。
岸辺に若い男が立っていた。桶を片手に、水面へ身をかがめる。風が吹き、腰の麻布がほどけた。男はそれを結び直そうとして、指先を止めた。背後から男の母が近づき、無言でその結び目を直す。男が顔を上げると、川向こうを渡る列が動いていた。その目はどこか遠くを見ているようで、何かを確かめるようでもあった。列に向かって頭を垂れると、ふたりは家の方へと歩き出す。
丘を越えると、野は再び広がった。そこには、かつての戦場の跡があった。草が生い茂り、大地の下には鉄が眠っている。その上を列は踏みしめ、影を落としていった。音もなく、形だけが続いていく。
空の端に雲が伸び、陽が薄れていった。行く手の道がゆるく下がり、列の姿が次第に見えなくなる。遠くで子供の声がした。母がその肩を抱く。声が止むと、雨に似た音が残った。それは列の行く方から流れてくる馬の足音であった。やがてその音も消え、水の音だけが続く。
夕刻、陽が山の端に傾いた。野に長い列が伸び、川面が黄金を散らす。人々は家へ戻り、牛を小屋へと引いた。誰も知らず、誰も語らず。されど、その胸に確かな律があった。それは、昼と夜を分ける線のように揺るがぬものであった。
夜が訪れ、曹操の陵の上には月が昇り、柏の葉の輪郭をかすかに照らす。そうして、地に影が重なった。人の名も、戦の跡も、その影の中に眠っている。しかし、形は崩れぬ。それが、于禁の残したものだった。
雲の端が遠く輝く。陵の石の上に差す光は、動かぬままに地を照らす。
その静寂の底に、崩れぬものがひとつあった。名も声も持たず、さながら律そのもののように。




