34 還帰
秋。槐の葉が音を立て、洛陽の城門に積もる。呉からの護送の列がその門へと進んだ。列をなす者たちはみな、言葉を持たぬ。長い道を越え、幾度も雨を浴び、いくつもの関を過ぎてきた。衣には旅の汚れが染み、革帯には錆がこびりついている。
そのなかに、于禁の姿があった。
彼は歩を乱さず、地を見つめて歩いていた。列の端で誰かが咳をし、履の音が響く。人々はその音を聞きながら、黙って列を見送った。かつて歓呼で見送られた将の帰りであったが、いまは誰の声もない。子を抱く女は目を伏せ、老いた者は杖を地に突いたまま動かぬ。
洛陽の空は高く、白い雲が悠々と流れていた。その下を、塵にまみれた列が進む。
洛陽の門が開かれ、列は中へと入る。懐かしい街の景色が胸を打つ。かつてここを発ち、曹操の旗の下に幾度も戦へと向かった。あの頃の声はもはやない。生きて戻った将としての誇りも、降った者としての悔いも、彼の顔には見えぬ。静寂だけがその歩みに寄り添っていた。
その日、宮中にひとつの詔が下る。帝が于禁と引見するとのことであった。
宮中の堂。左右に列坐する群臣の衣が、風を受けて揺れる。その中央に、白髪の老将がひとり伏していた。鬚も髪も雪のように白く、頬は痩せ、骨が浮いている。長い沈黙がその身を包んでいた。
曹丕は御坐にあって、しばらく言葉を発さず、于禁を見つめる。父の代に仕え、数多の戦を支えた将。かつて官渡にあって北を守り、濮陽においては命を賭して戦った男。その名は魏の創業に刻まれていたが、眼前にあるその姿は面影をかすかに残すのみである。
やがて曹丕は口を開いた。
「昔、荀林父は邲において敗北し、孟明視は殽において軍を失ったが、秦も晋も更迭せず、元の官に復せしめた。そののち、晋は狄を討ち、秦は西戎に覇を唱えた。取るに足らぬ小国すら、このような寛大を示した。まして朕は天子である。樊城の敗は水害によるものであり、戦の咎にはあらず。よって于禁を安遠将軍に復す」
言葉は穏やかで、理に適っている。それは帝としての務めであり、父の代の功臣に対する、礼としての赦しに過ぎぬ。
于禁は頭を垂れたまま、声を発さなかった。石の上に叩頭する音が広間に響く。かつて曹操のもとで百戦を重ねた将の姿は、いまここにひとつの形として留まっている。
群臣の中には、痛みをこらえるような顔で視を伏せた者もあった。老臣の目に、言葉にならぬ感情が宿る。若い者たちは、目を逸らすことも出来ずに見守っていた。誰もその場を乱すことはない。
曹丕はしばらく于禁を見下ろしていた。かつて父の坐を飾った名将たちの名は、すでにその多くが土に帰している。于禁もまた、その列に加わるべき男であった。それでも生きて帰った。生きるとは、帝にとっても重き言葉である。そして言った。
「退下せよ」
声は何の温度も持たず、粛々と堂を渡る。その一言で儀は終わった。赦しは与えられたが、温もりはなかった。
群臣は起立し、于禁の前に道を開ける。彼は頭を下げたまま、ゆるやかに立ち上がり、背を向けた。歩む足音が石の床を叩く。その音は小さく、しかし確かであった。門を出るとき、振り向く者はいない。
洛陽の空は曇り、隙間から陽が降っている。赦しを受けた者の背に、影が長く伸びた。それは生の印でもあり、過ぎた日の影でもある。
その夜、于禁は洛陽の南の官邸に移された。室は清潔で、膳も衣も恵まれている。されど、彼は箸を取らず、黙して坐していた。
于禁は目を閉じ、息を潜めた。形を保てという言葉を、幾度も己に言い聞かせてきた。あの日から、何ひとつ変わってはいない。律とは己を立たせるものである。それを守る限り、たとえ敗れても崩れぬ。
そのまま、彼は朝を迎えた。眠らず、語らず、ひたすらに坐していた。
幾日かが過ぎると、空は冴え、風が冷たさを増す。洛陽の街には早くも霜が降り、槐の枝が煌めいた。その日、侍者が一巻の書簡を持って于禁のもとに現れる。
封泥に押されているのは、臧覇の印であった。長い戦を共にした戦友の名である。彼はしばらくそれを見つめたのち、やがて封を割った。中には言葉が記されている。
『再び文則殿の名を聞き、嬉しく思う。近いうちに、旧交を温めたい。乱世にあって命を保ち帰るは、天の命だ。』
筆跡は力強く、行の端までまっすぐに伸びていた。その文字には、幾多の戦を共にした者にしかわからぬ温かみがある。于禁は目を通し、巻を閉じた。それで終わりであった。
心の内に浮かぶのは、友の言葉よりも己の務めである。赦された身でありながら、もはや戦に立つこともない。それでも、己を律することはできる。それだけが于禁にとって残された道であった。
その日もまた、彼は坐していた。外の葉が舞い散り、夜は深まっていく。人の声も遠く、都の空には月が浮かんでいた。時折、更鼓がかすかに届く。それは、この都に満ちる静謐な響きであった。その音を聞きながら、彼は目を閉じる。
翌朝、霜が地を覆っていた。侍者が安遠将軍の印綬を持ってくる。新しく磨かれた金の輝きが、陽を受けていた。于禁はそれを受け取り、卓の上に置く。
窓の外では、書を手に持った官吏たちが慌ただしく行き交っていた。赦しとは命を与えること。しかし、その命をどう使うかを問う者はいない。
于禁は身じろぎもせず、顔ひとつ動かさぬ。
遠くの山々に霧がかかり、都の鐘の音が響く。その音に、人々は一日の始まりを知る。しかし彼には、始まりも終わりもなかった。生かされているという事実だけがそこにある。
于禁の影が地に溶けた。その姿は動かず、呼吸さえも音を立てぬ。都の空に鳥の声が遠く響く。その音が消えると、陽射しは一層強くなっていた。




