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33 律己

 雨を含んだ空はようやく晴れたが、瓦の上を渡る空気には、まだ冬の名残が混じっている。江陵の道には草の芽が伸び、槐(えんじゅ)の枝には白い蝶のような花がほころびていた。鳥の声も、長く続く安らぎを破らぬように、どこか遠慮がちである。


 その内に、ひとつの室があった。灯はわずかにともるのみで、厚く塗られた戸は固く閉じられている。


 于禁はその奥にいた。もはや身を繋がれることはなかったが、出入りは制され、日々同じ室で過ごしている。供される膳は豪華で、衣も清らかであったが、彼はほとんど箸を取らぬ。髪には白いものが増え、頬はこけ、帛の衣が骨ばった腕に重く見えた。侍する者たちは、恐れて言葉をかけぬ。されど廊下の隅で、囁くように交わす。


「まるで死人のようだ」


 その声はすぐに消え、誰もふたたび口にはしなかった。


 外では水の音が響いている。城下の水路が波をたて、岸辺の柳が揺れていた。于禁はその音に耳を澄ませ、まぶたを閉じる。


 過ぎた日の記憶が、波の間から浮かんだ。あの雨の丘、あの濁流。声を上げぬ兵、折れた旗、血を含んだ泥。己を見上げる人々の顔が、まだ瞼の裏にある。


 陽が昇っても、彼の心に朝はこなかった。陽が差せば影が深まり、鳥が鳴けば静寂が際立つ。己が生きているという実感ももはや遠い。


 その様子を、孫権は案じていた。降将といえど、志の人である。辱めることなく厚遇せよ。それが孫権の命であったが、幾日を過ぎても于禁は語らず、誰とも目を合わせようともしない。見かねた侍臣たちが主に進言する。


「あの者、心を閉ざして久しゅうございます。いっそ外気に触れさせ、馬を曳かせては」


 孫権はうなずき、ある晴れた日、自ら于禁を伴って城外に出た。


 春の陽が穏やかに二人を照らす。城を離れると、大地に水の香が交じった。孫権は鞍上から振り返る。


「長い雨もようやく止んだ。世は移ろえど、人の心は陽のごとく在りたいものだ」


 于禁は答えず、手綱を握った。その指の骨が陽に透けて見えるようである。


 そのとき、道の向こうから一人の臣が駆けてきた。虞翻(ぐほん)である。己が主君に並ぶ于禁の姿を見咎めると、射るように眼を光らせ、馬を止めざまに声を放った。


「降将の身でありながら、なぜ主公と並ぶか!」


 彼は鞭を振り上げる。音が空を裂き、地に響いた。孫権は咄嗟に馬を寄せ、腕を伸ばしてその鞭を受け止める。


「やめよ、仲翔!」


 鋭い声が飛び、場の空気が張りつめた。于禁はその間も動かぬ。頭を垂れ、ただそこに立っている。


 孫権はその姿を見つめた。そこにあるのは、己を律する者の厳しさである。その重さを、彼は改めて感じた。


 虞翻はなおも何か言おうとしたが、孫権の視線に押され、鞭を下ろした。帰れと命じられ、唇を噛んで退く。孫権は小さく息をつき、馬を進めた。その後ろで、于禁の影が地に伸びていた。



  ×  ×  ×  



 日は巡り、川面は流れに応じて姿を変え、時に闇に染まり、時にわずかな輝きを返す。


 室に留め置かれた于禁の姿は、益々やつれていった。黒かった髪は一面白に染まり、身体の線は生きているのが不思議に思えるほどに痩せている。しかし背筋は変わらず、端然と坐す姿には一片の乱れもなかった。


 若い将たちは、その姿を遠くから見守っていた。朱然(しゅぜん)は廊下の陰からその室を覗き見て息を吐く。


「……あの方にとっては、いっそ罵られているほうが楽なのかもしれぬな」


 隣にいた陸遜(りくそん)が答えた。


「文則殿はすべてを失ってなお、己を律しておられるのだろう」


 その言葉に朱然は黙する。


 孫権もまた、その心を慰めようとした。


 ある夜、楼船に灯をともさせ、江の上に宴を設けた。夜は穏やかで、波の音が艫(とも)を叩く。船上には朱然、陸遜をはじめ多くの臣が列席し、楽人が控えていた。孫権は自ら杯を取り、于禁を近くに招く。


「久しく空を見ぬと聞く。酒をともにしよう」


 声には心からの気遣いがこもっていた。于禁は深く頭を下げ、杯を受け取る。唇に当てるも、味はなかった。香の煙が流れ、波が明かりを映す。


 やがて楽人が琴を奏で、澄んだ調べが夜に混じる。その旋律を聞いたとき、于禁の胸に微かな震えが走った。


 それは、かつて昌豨が酒肆で口ずさんだ民の歌に似ていた。


 あの夜、粗末な卓をはさんで交わした友のぬくもり、帷を鳴らす風の音、そして歌のあとに残った静寂が浮かぶ。昌豨の声には、夢を諦めきれぬ者の痛みがあった。己の愚かさを知りながらも、それでもどこかで光を求めていた。あの背が帷をくぐり、夜の外へ消えていった時の寒さ。それが今、胸に蘇った。


 琴の音が止まり、于禁の頬にひとすじの涙が流れる。気づいた者は言葉を発せず、痛ましげに見つめるばかりであった。朱然は杯を置き、陸遜は目を伏せる。その場に漂う空気は、痛みでもあり、祈りでもある。


 しかし、その沈黙を虞翻が破った。彼は席を離れ、刺すような声で言い放つ。


「降将が涙を流すのは、恩を乞うためか! 心にもないことをして赦されようなどと!」


 場の空気が凍りついた。孫権は立ち上がり、怒気を帯びて叫ぶ。


「黙れ、仲翔! 文則殿を辱めるな!」


 しかし于禁は、手を上げて制した。


「よいのです」


 その声は平らである。


「仲翔殿の言は正しい。降将の身、我が涙など誰に示す価値もない」


 孫権は言葉を失った。その瞬間、波が艫を打つ。そうして気まずいうちに宴は終わった。残るのは、かすかな灯と杯の香ばかりである。


 季節が巡り、初夏。庭の槐が青く茂り、葉が揺れている。


 そのころ、于禁はなお室にあった。心は遠く、身もまた闇の中に捕らわれていた。


 廊下の向こうで従者たちが小声で話す。


「……曹公の後を継いだ子桓殿とは、どのような人物なのだろうな」


 漏れ出た言葉に、他の者が慌てて口を押えた。曹操の死はすでに数月前のことである。于禁がそれを知れば、命を絶つやもしれぬ。みながそう案じて話題にせぬよう気を使っていた。口の端にのぼったのは、ほんのわずかな気の緩みである。


 しかし、その声は格子越しの于禁の耳にも届いていた。于禁は膝の上の手を固く握りしめて顔を上げる。その頬から、血の気が失せていた。外の音が遠のき、地を打つ水の音が残る。


 彼は目を閉じ、顔を覆った。膝が床に触れ、身体が傾ぐ。嗚咽が漏れた。声にならぬ声であった。その涙には主君を失った者の痛みが宿る。


 槐の葉が舞った。雲が漂う江陵の空の向こうに、遠い北の景色があった。そこにはなお仕うる主の姿が揺らめいている。


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