32 静寂
雨は止まぬ。濁った空が地を押しつぶし、丘の上の旗は垂れていた。水は道を呑み、陣の形を崩していく。ひたすらに、雨の音だけが続いていた。
于禁が降を決したのちも、龐徳はなお旗を掲げていた。丘の上にわずかに残る兵をまとめ、濡れた弓を手に取る。矢羽は水を含み、弦は思うように鳴らぬ。それでも龐徳は矢が尽きるまで弦を引き続け、雨と血が交じる中、戦い続けた。
配下の董衡と董超が、雨をかき分けて駆け寄る。
「将軍、これ以上はなりません。敵は川に満ち、兵はみな、関羽の旗へと走っております。ここで死を求めることに、何の義がありましょう。降を申し出る時です」
龐徳は振り向いた。
「義、と申したか。……義を語るのであらば、義を捨てて生きるは恥と知れ! 人は死しても、心を汚してはならぬ!」
言うが早いか、二人を斬る。雨に血が混じり、地が赤く染まった。声を上げる間もなかった。
丘の下では水が逆巻いていた。すでに兵の大半は濁流に呑まれ、残る者も武器を捨てている。龐徳は眉ひとつ動かさず、折れた弓を拾い上げた。
「この身、命尽きるとも、義は地に落とさぬ」
その声は雨に呑まれ、誰の耳にも届かぬ。
やがて小舟が一艘、丘の裾に寄せられた。龐徳は将を一人と伍長二人とを伴い、ぬかるんだ大地を踏んで乗り込む。
舟は流れに乗ったが、水は川の形を失っていた。濁流がうねり、舟はあっという間に翻る。龐徳は咄嗟に弓を掴もうとしたが、手の中から滑り落ちた。舟は砕け、木片が渦に巻かれる。
次の瞬間、冷たい水が口と鼻を塞いだ。息をつく間もなく、腕を掴まれる。革の鎧を着た兵が、船の上から網を投げていた。
龐徳は地に引き上げられた。視界の先には濡れた帛をまとい、髭に水を滴らせた関羽が立っている。その眼差しは穏やかな光を宿していた。
「降られよ、龐将軍。勝敗は決した。貴殿の戦いは誰に恥じるものでもない。漢中の従兄殿のもとで休まれるがよい」
龐徳は笑う。
「小僧め、何故に降伏を説く。魏王は百万の軍を擁し、天下に威を振るっている。劉備などという凡才が敵おうものか。某は国家の亡霊となろうとも、賊の将にはならぬ」
唸るような声が響いた。関羽はひととき黙し、雨がその間を埋める。やがて、関羽は背を向けた。
「義に殉ずる心、天もまた知ろう」
そう言い残し、去る。
龐徳は縄を受けたまま、顔を上げた。雨の向こうに、遠く樊城の石が霞んで見える。その城の上に、まだ旗があった。それを見届け、龐徳は目を閉じた。
槍が振り下ろされ、刃が閃く。血は雨に混じり、やがて流れ去った。丘の上に残ったのは、倒れた旗と濁った水である。
× × ×
樊城では、曹仁がなお城を守っていた。数千の兵が籠もり、わずかに残る高みに旗を立てている。城壁のうち、水に没せぬところは一丈ばかりであった。外では関羽の船が幾重にも城を囲み、矢と声が交錯している。兵糧はとうに尽き、兵の顔は痩せていた。火を使えば煙が敵に見え、夜は冷えても焚火も出来ぬ。延々と雨が降り続き、兵は槍を抱いていた。
遠くに、鼓の音が聞こえ、誰かが言う。
「援軍はまだか」
答える者はなかった。それでも曹仁は甲を着け、壁の上に立ち、濁流の中を見下ろす。関羽の旗が揺れている。
「曹公の助けは必ず来る。それまで、樊城は守り抜く」
その言葉を兵たちは聞いたのか聞かぬのか。雨音の中に、声が消える。
× × ×
報は、やがて長安に届いた。書簡は濡れた布のように重く、言葉が沈んでいる。曹操はそれを読んだ。眉が動き、筆が止まり、静寂が堂を支配していた。
『七軍水没し、于文則、関羽に降る。龐令明、関羽に斬らるる。』
その報に、坐する者たちは息を呑む。やがて司馬懿が進み出た。
「于将軍は水に溺れたのであって、戦に負けたのではありません」
蔣済もまた前に出る。
「劉備と孫権は表では親しげに見せておりますが、心は遠い。関羽の功を、孫権は快く思ってはおりますまい。人をやってその背を討たせるのがよろしゅうございます。長江の南を割き、孫権を君主に立ててやるのです。さすれば樊城の包囲は自然と解けましょう」
曹操は目を閉じ、やがてうなずいた。筆を執り、紙に向かう。筆が止まると、曹操は書簡に封泥を施した。その手の震えは誰も見なかった。
× × ×
そののち、季節は移り、戦の報は南へ伝わった。雨はやんだが、川辺にはまだ氾濫の跡が残っていた。江陵の城は落ち着きを取り戻し、瓦の上を風が過ぎていく。
庭に一本の槐があり、枝の先から水が落ちていた。その音が途絶えるたびに、遠くで鶴の声が響く。回廊を舞い落ちた葉が横切り、奥の室の戸口に触れた。
灯のない室の内には、長き戦の果てがある。そこには、ひとり于禁が繋がれていた。
廊に足音が響き、室の戸が開き、一人の男が現れる。江東の雄・孫権、字を仲謀。素の絹衣に身を包んでいる。彼は配下に命じ、于禁の縄を解かせる。
「長き戦、お疲れであった」
声は柔らかく、穏やかな響きだった。于禁は答えず、ただ息をする。孫権は几の前に立ち、粛々と告げた。
「樊城は守られた。公明殿が到着し、子孝殿と呼応して関羽の軍を破った」
その言葉にも、于禁の視線はそのまま動かぬ。虚ろに視を前に向けたまま、言葉の続きを待っていた。
「令明殿は降らず、死を選ばれた」
ほんのわずか、肩が揺れる。
「その後、関羽は南西へ退いた。そして、わが軍が討ち取った」
孫権は事実のみを並べている。于禁は黙して聞いた。眼差しがゆるやかに落ち、几の上に差す明かりを追う。
しばらく黙したのち、孫権は言葉を継いだ。
「関羽を斬ったのち、文則殿の兵は幾ばくかわが軍に加わった。残る者は故郷へ帰った。……みな、それぞれに生を得た」
于禁の瞳に、一瞬、光が過ぎる。それでも唇は動かず、やがて答えた。
「……そうでしたか」
孫権はしばらくその姿を見つめていたが、やがて息を吐く。
「文則殿の気骨、まことに敬する」
そう評して、孫権は身を翻した。衣の裾が床をかすめ、足音が遠ざかっていく。
戸が閉じ、再び室に静寂が戻った。遠くで水の滴る音がする。それは戦場の雨とは違い、やさしい響きだった。于禁の耳には、あの丘の上で聞いた雨の音がまだ残っている。長い雨の記憶が空に溶けていく。
于禁は何も言わなかった。沈黙の中に、人としての形だけが残っていた。




