31 天律
雲がいよいよ厚さを増し、空から太陽が消えていた。丘の向こうに樊城の石が見え、壁の上には旗が揺れている。されど、その色を見分けることは出来なかった。灰の空がすべてを包み、遠近の差を奪っている。
雷鳴がひとつ、遠くで割れた。その音を合図にするかのように、雨が激しさを増していく。はじめは細く、のちに太く、そして音をもって地を打つ。瞬く間に道が消えた。列のなかで、若い兵が口を結んだ。
「これでは戦になりません」
隣の古参が答える。
「戦どころではない。天が敵だ」
声が雨に呑まれた。鉄の鎧が鳴り、麻布が肌に貼りつく。火を扱えず、飯も炊けぬ。于禁は馬上から地を見渡した。合図の旗は濡れて重く垂れ、槍の穂先に水が溜まる。歩を止めれば列が乱れ、進めば泥に足を取られる。彼は命じた。
「丘を取れ。地の高いところを保て」
兵たちは言葉少なに従い、濡れた草を踏んで足を滑らせぬよう慎重に丘へと上った。そこは辛うじて水を逃れている。然れども、見渡せば、周囲の野はすでに川のように変わっていた。目線を挙げれば遠くにもうひとつの丘があり、そこにも旗の列が見える。龐徳の軍であった。彼らもまた高地に避け、雨をしのいでいる。
その間を埋めるように、濁流が走った。漢水が決壊したのである。ふだんは緩やかに流れるその川が、今は野を呑み込み、地の形を変えていた。
漢水を遡るつもりで船を用意していた関羽の軍は、既にこの地に満ちている。しかし、陸路を伝ってきた于禁らには船がなかった。雨が止まぬ限り、渡ることも退くことも出来ぬ。兵の中に焦りが走った。誰も声を上げぬが、疲労と絶望の色が濃い。ひとりの兵がつぶやいた。
「このままでは、俺たちは……」
別の兵が言葉を継ぐ。
「水に入れば流される。矢を射ても届かぬ。火も使えぬ。このような時に、もはや何が出来るというのか」
古参が顔を上げて言った。
「関羽の軍は、我らを見ているだけで勝てる」
雨が答えるように地を叩く。
于禁は黙してその言葉を聞いていた。彼の心の奥に、律という文字があった。それは人を人として立たせるための道である。しかしこの雨の下で、その道はどこにあるのか。いかなる条理をも呑み込む水の前に、律はどこへ消えたのか。彼は答えを求めず、天を見上げた。雲は重く、空の端まで灰に支配されている。
次第に時間の感覚が失われていった。昼も夜も、光の差がなかった。雨が続けば兵の心は削れる。足も冷え、声も細る。されど、まだ陣は保たれていた。丘の上に並ぶ旗はひと筋ごとに揃い、形を崩してはいない。于禁はそれを見て息をついた。
「まだ持つ」
近くにいた兵が、その声を聞いて背を伸ばした。
丘の下では、濁った水が幾筋にも裂けて流れている。木の幹が浮き、車輪が沈み、布幕が流れていく。丘の裾に立つ兵が言った。
「龐将軍の丘が見えます」
于禁はうなずく。
「見えるうちは、まだよい」
遠くの丘の上で、小さな旗が揺れていた。それもやがて雨に霞んで、輪郭を失う。
雨音がすべてを覆った。人の声も、馬の嘶きも、鼓の響きも、もう聞こえぬ。丘の上では火も絶え、灯りもなく、ただただ暗い。兵たちは麻布を身体に巻きつけ、互いに寄り添って雨をしのいでいた。誰かが囁く。
それでも、たまには列の方を見ろよ。昔の俺らがどんな顔で立っているか、見えるかもしれんぞ。
于禁の耳に懐かしい声がした。
「いつまで続くのだろう」
「天は、我らを見放したのか」
「こんな終わり方は嫌だ」
沈黙の中で、于禁は聞いていた。
「腹が減った」
「家に帰りたい」
「母さん」
返る言葉はなく、雨が降る。
その時、兵のひとりが声を上げた。
「于将軍」
声は雨に引き裂かれ、近くの者しか届かぬほどであった。それでも次の声が続く。
「于将軍」
多くの兵が顔を上げた。彼らの眼には、願いが宿っていた。天に縋るような眼だった。于禁はその視線を受け止めて見返す。そして、心の奥で思った。
俺の命、俺の誇りに、どれほどの価値があるのだろう。
雨はやまぬ。丘の上には静寂があった。そしてその静寂の中に、律だけが残っていた。
夜があったのかも分からぬ。雨の帷の下では、昼も闇の内にあった。地はどこまでも濡れ、足を置けば埋まり、動けば音を立てる。丘の裾では、濁流が巻き、根の抜けた樹が逆さまに流れていく。その水の上に、折れた槍が浮かんでいた。誰のものとも分からぬ槍が、まるで空を映すように揺れている。
丘の端に立ち、于禁は水面を見つめた。水はもう、海のようである。彼はその中に、龐徳の丘を見た。遠く霞む高みの上に、黒い影がいくつも動いている。声は届かぬが、まだ旗は立っていた。その影を見つめながら、于禁は目を閉じる。
三十年。
戦の中にあった年月が、脳裏を過ぎた。剣を執り、律を守り、形を崩さずに歩いてきた。乱の世を駆けるほか、己の生きる道はなかった。律こそが、生をつなぐただ一つの綱であった。数多の戦を越え、数多の地を渡り、それでも律を手放さなかった。しかし今、天がそれを奪おうとしている。
雨が顔を打った。冷たさはもう感じない。掌を開けば、血か水かも分からぬものが流れる。空は暗く、雲が地を押している。人の力ではどうにもならぬ。それを思うと、不思議な静謐が胸に広がった。
その時、丘の裾からどよめきが起こった。兵が水面を指さしている。
「船です!」
誰かの叫びが雨に割れた。闇の中から、灯のようなものがいくつも浮かび上がってくる。それは関羽の軍だった。船を並べ、丘の周囲を巡っている。雨の中でも、旗は濡れたまま立っていた。鼓の音が、重く水を渡って響く。
「降られよ! 于将軍!」
声が雨を割って届いた。船の上に関羽が立っている。帛をまとい、髭に水を滴らせていた。その声にはおごそかな響きであった。
「貴殿は天を相手にされるおつもりか!」
水面を渡るその言葉に、兵たちが息を呑む。丘の上で、誰かが泣き出した。于禁はただ立っていた。長い沈黙が続く。
やがて彼は、一歩前に出た。雨が肩から流れ落ち、唇が動いた。
「曹公より預かりし七軍の命、確かにお守り頂けるか」
関羽は答えなかった。しかし、深くうなずく。その目に偽りはなかった。于禁はさらに言葉を継ぐ。
「飢えさせず、人として扱うか」
関羽は再びうなずいた。
丘の上に静寂が満ちる。兵たちはその姿を見つめていた。誰も声を上げず、動かず、息をひそめる。
于禁は剣を抜いた。刃は濡れ、水を受けて黒く佇んでいる。その剣を両の手で持ち、地に伏せた。刃先が泥に沈んだが、音はなかった。雨がその上に落ち続ける。
「これまでだ」
声は小さく、雨音に溶けた。それでも近くにいた兵たちは、その言葉を聞いた。彼らは槍を下ろし、膝をついた。誰かが泣いた。それは命をつなぐことの価値を知る涙であった。
関羽の船が丘に近づく。波が打ち寄せ、水が跳ねた。船の舳先が土に触れる。その上から索を掛ける音がした。関羽の兵たちが岸に降り立ち、ゆっくりと進んでくる。彼らは矢を持たず、刃も抜かずに歩いた。于禁は剣を伏せたまま、それを見つめていた。
雨の音が、また強くなった。丘も、船も、兵も、すべてその中に溶けた。空と地の境がなくなり、人も灰の中に立っているようであった。その中で于禁は目を閉じる。長い年月がひとつに融けるように思えた。
乱世を駆け、律を守り続けた日々。すべてがこの雨の中に帰していく。
一陣の風が丘を渡った。その音の中に、遠い鼓の響きが混じる。関羽の軍が動き出したのだ。櫓の節が水を打ち、水面が割れる。丘の周囲に波が広がり、また静寂が戻った。
于禁は動かなかった。兵たちはその傍らに立ち尽くす。誰もが目を伏せ、雨を受けた。龐徳の丘はもう見えなかった。空も、地も、ひとつの色に染まっている。その中で、雨が落ちていた。何も語らず、何も裁かず、天が地を洗っていた。




