30 行軍
曹操は左将軍・于禁を派遣し、七軍を以て樊城の救援に向かわせた。
命は短く下り、列は長く伸びる。輜重の車輪が鳴り、革はこすれ合って小さな音を重ねた。空の端には黒い雲が伏せ、空気は雨の匂いを帯びている。
列の中ほどで、若い兵が口を開いた。
「于将軍の軍にいれば、必ず勝てると兄が言っていました」
隣の古参がうなずく。
「間違いない。律が厳しい分、戦で迷わぬ。官渡でも、あの人の列だけは乱れなかった」
若い兵は腰の麻布を撫で、形の良い結び目を確かめた。布は母が渡したもので、汗を拭うにも傷を巻くにも使う。言葉に出さず、手の中で結び直した。
于禁は会話に加わらず、馬上から列の端と端を見渡していた。先の合図が走り、後ろまで形が同じように伝わるかどうか、それだけを見る。于禁の視は、いつもその一点に据えられていた。
遠くで鼓が二つ、間をおいて鳴る。
道が狭まり、樹の背が高くなった。葉裏には水気が宿り、枝が揺れて音を立てる。斥候が往き、戻り、旗指が手を挙げる。言葉は要らぬ。合図の角度がひと目で分かるよう、日ごろから練られていた。若い兵はその手振りを盗み見し、古参は歩幅を揃えて彼の背を軽く押す。腕に抱えた矢束は、布で包み、羽根が濡れて重くならぬよう工夫がこらされていた。
風が変わったのを最初に感じたのは馬だった。耳がわずかに動き、鼻先が湿りを嗅ぐ。列の前方で、斥候が戻りざまに言う。
「敵影、ありません。前方、道は開いています」
于禁はうなずき、合図の手を下ろした。
「陣形を乱すな。足を止めてはならぬ」
兵たちは言葉少なに従い、樹影の濃いところを抜けて緩い丘に出る。丘の向こう、遠くに旗が見えた。曹仁の軍がいる方向である。はっきりした色は分からぬが、旗は布の重みで垂れていたが、規律のある並び方を保っていた。耳を澄ますと、地の底をゆくような響きがある。鼓か、槍の柄が触れ合う音か、それとも城の石に当たる風の音か。いずれとも言えぬが、戦の気配は確かであった。
若い兵が息を吐く。声というより、喉の奥で漏れ出た音である。
「なんだか、空気が重くなってきましたね」
古参は視線を前に置いたまま答えた。
「ああ。戦が近い」
それきり二人は口を閉じる。言葉を継げば、足の運びが乱れると理解していた。
行軍の後ろでは、別の古参が穂先の刃文を布で拭いている。
「命を拾うも律の内よ」
そう言って彼は笑う。笑いは短く、口元で消えた。
雲は益々厚くなり、陽射しは柔らかさを失っていく。葉陰の鳥が地へ近く、群れて飛んでいた。代わりに、遠い水の音が続く。川はこの先にあった。増水しているとなれば渡る工夫がいる。しかし今はまだ、道は開けていた。于禁は天を仰ぎ、雲の厚みを測る。何度も見た空であった。地が変わっても、空はいつも同じ灰を宿す。灰の下を粛々と列が進む。
列のなかに、ひとりの輜重の若者がいた。車輪の軸に耳を当て、回りの音を聞いている。油の回り方が鈍ると、声に出さずに楔の角度を変えた。その手際は、夏に麦を刈る家の父に習ったものである。戦でも家でも、木は鳴ってはならぬ。鳴れば折れる。若者はその教えを守っていた。
地はゆるく下り、一陣の風が面を撫でる。甲の内側がじっとりと重く、誰かが兜の縁を帛で拭った。汗が落ち、土に丸い点が残る。斥候が二度目の往復から戻り、右手で輪を描いた。回り道は要らぬ、の合図である。前方は丘の裾へ続き、その向こうは浅い谷。谷の先に、樊城の石がある。
若い兵が帯をほどき、結び直した。手がわずかに震えたが、結びは美しく整う。古参はそれを横目で見て、何も言わなかった。
于禁は馬を下り、ひととき徒歩で列の後ろを歩く。たてがみに手を置き、革の張りを確かめ、再び鐙を踏む。彼の歩みは緩まぬひたすらに、見て、確かめ、進む。列の最後尾にいる小柄な兵が、将が背を過ぎたのに気づいて、姿勢を正した。
空がさらに暗くなり、雲の腹が地を押し下げる。鼓の音はもうはっきりと聞き取れた。間を保った連打で、無用の昂りはない。曹仁の軍は持ちこたえている。そう思わせる律の音であった。兵たちの会話は次第に減り、足音と革の音が支配する。列のどこかで、誰かが矢羽根を布で拭っていた。濡れれば重くなる。重くなれば狙いが鈍る。そういう知恵が受け継がれていた。
行軍の中ほどで、別の若い兵が息を吐く。
「俺、生きて帰れたら、家の田を起こそう」
隣の男が、口の端で笑った。
「なんだ、天気にやられたか? 農夫は雨でも耕す覚悟をせねばならんぞ」
笑いが数歩のあいだ続き、やがて消える。于禁は遠くでその様子を感じ、視線を前へと戻した。戦の形を保つとは、人の声を絶やさぬことでもある。列のどこかに、笑いがひとつ、言葉がひとつ、灯っては消える。それがあるうちは、足は揃う。心も揃う。
丘の肩に出たとき、樊城の石が雲に灰色の線を引いた。壁上に立つ人影が小さく動き、旗が伏す。色は曇りに飲まれて判じがたい。
列は歩度を保ったまま、わずかに詰めた。命が先へ寄る。後ろは呼吸を浅くし、前は肩の力を抜く。于禁は軽く片手を上げ、合図の手をひとつ落とした。先頭の槍がゆっくりと下がり、同じ角度で並ぶ。
いつの間にか音が鈍くなった。獣が走り、葉の表に溜まった水気が筋となって滴る。最前列の若い兵が、天を仰ぐほどでもなく、視線を上げた。雲の色は鉛に近い。斥候が三度目の復命に現れる。
「この先、谷です。水嵩は高くありません」
于禁は再びうなずいた。
「よし。隊はこのまま進める」
若い兵の喉が軽く鳴り、古参の肩がわずかに下がる。輜重の楔がもう一度鳴り、大地が音を飲み込んでいく。歩幅は揃い、槍の穂先はふたたび同じ高さをとった。地は水を含み、空は暗さを増していく。列は乱れず、乱れぬ列の上を、灰色の雲が流れていった。
雲は低く重なり、空はますます地に近づいていた。少しずつ、土の色が濃くなる。列はそのまま進み、足音が地を叩いた。
「歩度を保て。無駄に声を上げるな」
命を受け、列は動く。槍が並び、衣の端が揺れる。
後方でひとりの兵が囁いた。
「もうすぐだな」
隣の兵が答える。
「ここから先は、将軍のお声ひとつだ」
二人は笑わず、前を見た。馬蹄の跡が浅く地に刻まれ、その上を次の列が踏んでいく。
谷を抜けると、地の傾きがゆるんだ。水を帯びた草が足に絡み、空気はひどく重い。輜重の者が車輪の楔を軽く打ち直す。音は小さく、すぐに雨に紛れた。
于禁は振り返り、列の背まで見通した。兵は並び、息も乱れぬ。形がある。この形が崩れぬ限り、命はまだ途切れぬ。
斥候が戻り、馬を止めて告げた。
「この先、道は開けています」
于禁はうなずき、ただ一言を返す。
「よし」
列が再び動く。槍がゆるやかに揃い、軍旗がたなびいた。兵の目は城の方向を見据え、口を閉ざす。雲が裂け、空から冷たい雫が降った。衣の上に、人の上に、音を立てて弾ける。
誰かが言った。
「雨が降ってきましたね」
その声に、誰も応えなかった。列は黙々と前へ進む。灰の中にある城の姿が、少しずつ大きくなっていった。




