29 忠烈
建安二十三年の冬、宛の地に異変が起きる。城を守っていた侯音・衛開らが、外から押し寄せる影と呼応したのであった。彼らは夜半に門を閉ざし、太守・東里袞を縛め、関羽と通じて反旗を翻す。
その報を最初に受けたのは、樊城を守る曹仁であった。
建安二十四年、正月。曹仁は諸将を呼び集め、討伐の軍を揃える。その陣の中に一人の将がいた。龐徳、字を令明という。
かつて涼州の地で戦い、馬騰の旗下にあって忠を尽くしたのち、馬超に従って征戦を重ね、やがて張魯のもとを経て曹操に降った将。転々としたように見えても、すべては戦の流れに押し出されたものであり、義を曲げたわけではない。曹操の麾下に加わってからはすでに幾年が過ぎ、今はその軍律の中に身を置いている。
彼の鎧は他の将たちと少し違っていた。鍛の痕が荒く、革の綴じも古い。白馬の手綱を握る手が傷んでも、声を発することはない。
周囲の視線は冷たかった。
「降将の忠など、どこまで信じられようか」
そう心の中で思う者も多い。しかし龐徳は何も言わず、矢を揃え、槍を確かめていた。胸には炎が燃えている。己の居場所は剣の先にあり、行いで示すほかない。
軍は北の道を下った。草の根に霜が降り、馬蹄がそれを砕く。空の曇りは濃く、太陽の届かぬ地を歩くようであった。兵たちの槍が並び、鎧が動くたび、金属の響きが野に重なった。
その列の中で、龐徳の白馬だけが際立っていた。雪のような毛並みが、地に映えている。彼は口元を引き結んだまま前だけを見つめていた。
やがて宛の城が見えた。敵は門を閉ざし、城壁には弓兵が並んでいる。曹仁は陣を敷き、鼓を鳴らした。龐徳は先鋒を請い、真っすぐに進む。矢が降ると、馬が大地を蹴り上げ、兵の叫びが響く。龐徳は馬首をめぐらせ、槍を構えて敵陣へ迫った。城門を指して旗を掲げ、声を張り上げる。
「義を知らぬ者ども、命惜しければ早く門を開け!」
その声は濁った風を一掃せんばかりに、城内に響き渡った。
× × ×
戦は長くは続かぬ。曹仁の策は明快で、包囲を固めたまま逃げ道を断った。
やがて城内から降伏の旗が上がり、侯音と衛開は捕えられる。兵たちは彼らを縄にかけ、城門の前で首を刎ねた。溢れ出た血が土に散り、陽がそれを照らす。東里袞が解き放たれたとき、空は曇っていた。
勝ちの報は早かった。曹仁は軍を集め、樊城への帰還を命じる。龐徳はその列の最後を守り、何度も背後を振り返った。焦げた旗、倒れた櫓、裂けた幔。人の罪も忠も、煙のように遠ざかっていく。
帰還の道すがら、寒気は益々強くなった。空を覆う雲は重く、陽が一筋もない。樊城の楼が見えたとき、龐徳はようやく息を吐く。戦いは終わっても、彼を包む疑いの眼差しは消えぬ。
城に戻ると、将たちの間で小さな囁きが交わされた。
「令明殿の従兄、龐柔は漢中にいるという。関羽と通じているのではないか」
その言葉がどこからともなく広まり、やがて兵舎の隅々まで回っていく。龐徳はそれを聞き、黙して何も答えなかった。剣を磨く音が夜更けまで響く。
彼は布で刃を拭いながら、天を仰いだ。曇り空の向こうに月の姿はなく、灰色の空が漂っている。曹操の軍に入ってから、すでに三、四年が過ぎていた。その年月のあいだに、彼は幾度もの戦に身を置き、常に先陣に立った。忠を問われ、義を疑われ、それでも退かぬのは、心に積もる悔いを戦で晴らすためである。
夜明けが近づくころ、彼はようやく口を開いた。
「某は国の恩を受けた。義を行なうは命を懸けることである。この手で関羽を討たねば、某が生きる意味は虚しきものとなろう。今年、関羽を殺さねば、関羽が必ず某を殺すであろう」
朝は灰のうちに明けた。空には雲が低く垂れ、川面まで濁っていた。兵たちは槍を磨き、矢を束ね、鼓を置いて待っている。重苦しい沈黙が辺りを支配し、誰も声を発しなかった。遠くで馬の嘶きがひとつ、空にちぎれて消える。
そのとき、南の丘に土煙が上がった。関の旗が林を渡り、槍の穂先が陽を弾く。関羽の軍勢であった。関平、趙累らが左右の軍を率い、河を越えて迫る。水の音が鳴り、鼓の響きが地を揺らした。
曹仁は城上に立ち、兵を分けて守りを固める。龐徳は白馬に跨り、矢筒を肩に掛けた。冷気が頬を刺しているのに、甲の下には汗が浮かぶ。彼は弓を取ると、矢を番え、敵の中央を見据えた。関羽の旗が見える。緑の羽飾りが揺れ、馬のたてがみが波のように躍った。
矢が放たれ、ひと筋の光が空を裂き、敵の陣を貫く。次いで響いたのは、鉄を打つような音であった。関羽の兜に矢が当たり、金の飾りをはじく。血がこめかみを伝い、紅が鎧の上にぱっと散る。軍の喧噪が一瞬止まり、すぐに地を割るような叫びが広がった。関羽は血を拭い、馬首を返して退く。
雨の匂いがした。曇り空がさらに低く垂れ、風が幔を鳴らす。龐徳は弓を降ろすと、ようやく息をついた。白馬のたてがみは濡れ、彼の鎧も湿っている。味方の兵が歓声を上げる中、彼は表情を変えなかった。勝ってもなお、心に暗い影が残る。
× × ×
戦の後、曹仁は龐徳を呼び、労をねぎらった。
「よく敵の勢を退けた。これで関羽も容易に近づけまい」
龐徳は拱手して、頭を下げる。
「この戦はまだ終わりませぬ。あの男は必ず再び来ましょう」
曹仁はうなずき、彼を北の陣に留めた。
「十里の地を守れ。敵の再来は近い。おぬしの白馬を見れば、敵は震えよう」
その夜、龐徳は火の傍に坐し、矢を一本一本確かめる。矢羽には血がにじみ、赤く乾いていた。彼はそれを布で拭い、弓に戻す。火の粉が流れ、闇の奥に消える。
天幕の外では兵たちが息を潜めていた。気まずさもあるのだろう、誰も声を出さぬ。龐徳は立ち上がり、幕を押し開けて空を見た。雲は厚く、空の色は鉄のようである。
「まだ晴れぬか」
つぶやいた声は、空に消えた。彼は馬のもとに歩み寄り、たてがみを撫でる。
「義をもってこの命を立てる。忠をもってこの身を支える。それを貫けぬなら、戦に生きる意味はない」
白馬は鼻を鳴らし、彼の掌に頬を寄せた。その温もりの中に、戦場の唯一の安らぎがある。
夜明け前、龐徳は甲を身に着け、槍を手に取った。白馬の背に跨り、北を見る。雨が一滴彼の頬を打ち、雲が流れていく。その下に広がる野は、灰に染まっていた。
胸に一つの誓いが燃えていた。関羽を討つまでは、心の曇りは晴れぬ。




