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26 氐族

 荊州の野には黒く焼けた杭が並び、そこに吊られた縄が揺れていた。


 赤壁の敗戦からおよそ一年。曹操は江南方面の戦線を整理していた。兵は再び編成され、槍の穂先は磨かれ直されたが、どの顔にも疲れがある。


 于禁はその列を歩いた。焼け跡に残る炭の色が、かつての赤をわずかに含んでいる。兵の眼にも同じ色があった。飢えを知る者の目である。彼はその目を見て、言葉をかけなかった。粥を啜り、槍を磨き、命を待つ。それが兵の一日であった。


 その折、報が届く。


『梅成(ばいせい)・陳蘭(ちんらん)、氐族を扇動し、叛す。』


 曹操は命を下した。


「文則、宣高は東に向かえ。文遠、儁乂は灊山(せんざん)を討て」


 命が下っても、誰も声を発しなかった。戦は人の心の奥で再び火を起こす。赦された者が再び旗を挙げる。その繰り返しに、于禁はもう驚かなくなっていた。


 夜、火の跡の前に立ち、彼はふと耳の奥に声を聞く。


 粥を与えられ、命令をきく。そんな生き方、獣と変わらないだろう!


 昌豨の声であった。胸に焦げた粥のようなものがこびりついている。于禁は立ち尽くした。兵に食を与えるということ、それは生かすことであり、従わせることでもある。命をつなぐ糧は、同時に心を縛る鎖でもあった。だからこそ、糧を絶やさぬことは戦より重い。


 翌る朝、行軍の鼓が鳴った。列が動き出し、旗が上がる。風が衣を打ち、音が野に響く。于禁は黙して馬に乗った。前を行く臧覇が振り向いて言う。


「赦しても、変わらぬ者は変わらんな」

「変わらぬなら、律をもって正すまでだ」


 それきり言葉はなかった。


 彼らの軍は北東へ進み、氐族の地へと向かう。谷の風は冬の名残を運んできた。木々の影が岩に伸び、鳥の鳴く声が遠くで続く。兵たちは黙して馬を進め、腰の帯を締め直した。


 やがて山の端に煙が立ち上る。その下に、梅成の陣があった。陣幕は粗く、地形に任せて張られている。決して整ってはいないが、山裾の道を断つには十分な位置であった。


 臧覇は地図を広げ、眉を寄せる。


「ここは氐族の旧居で、地の者が味方している。とはいえ、山の裾を押さえれば逃げ道はない」


 于禁はうなずき、簡素な指令を出した。


「左翼は伏せ。右翼は迂回。糧車は最後尾」


 平らな、いつもの彼の声である。されど、声で陣の形は成った。


 陽が昇るころに矢の音が走り、槍の列が崩れた。梅成軍はまとまりを欠き、臧覇の突撃を受けてあっという間に瓦解する。


 梅成はその日のうちに軍勢三千を率いて降を請うた。臧覇は笑うが、于禁は顔を動かさぬ。裏切りは繰り返されると悟っていた。


 その夜、梅成は兵を引いて城外に幕を張った。火を焚く音が響く。だが夜半、斥候が駆け込んだ。


「梅成、逃亡しました!」


 臧覇は立ち上がり、槍を取る。


「该死(ガイスー)! あの野郎!」


 火の粉が舞い上がった。于禁は沈んだ声で言う。


「逃げる先は一つ。灊山だ」


 灊山は南の険であった。そこにはすでに陳蘭の陣があり、張遼・張郃が対峙している。兵を集める時間はなかった。梅成は夜の闇に紛れて逃げ込み、陳蘭と手を結ぶだろう。


 翌朝は霧が深かった。視界は山の端が見えぬほどの白に覆いつくされる。ややあって、前線からの使者が到着した。


「灊山前線、苦戦! 韓当(かんとう)が援軍に現れ、戦は膠着しております!」


 その言葉に、臧覇は地を蹴る。


「韓当だと? 孫権が動いたか」


 于禁は黙して空を見た。山の向こうに陽が昇っている。その光の中で、軍旗がわずかに揺らいでいた。


「宣高、韓当は貴殿に任せる。俺は兵糧を運ぶ」

「文則殿が行くのか? 戦ではなく、糧を?」

「戦は二人に任せる。糧が尽きれば、誰も戦えまい」


 臧覇は沈黙した。彼は戦の勇将であったが、同時に于禁の律をよく理解している。


「ならば頼む。とはいえ、輜重隊を抱えてあの山を越えるのは至難だぞ」

「越える」


 于禁の声は確かであった。山の方角に、地を轟かす雷のような音が響く。遠くの谷で、戦の鼓が鳴りはじめていた。



  ×  ×  ×  



 谷を渡る霧が糧車の輪を包み、音を吸い込んでいく。兵たちは声を潜め、滑る岩道を進んだ。糧袋を載せた車が音を立て、牛の息が煙る。雨が落ち、布を濡らし、重くなった荷が車を押し返す。


 于禁は先頭に立っていた。手綱を握る手が冷え、指の節が白くなる。


「止まるな。足を取られれば終わりだ」


 その一声にみな息を合わせ、ぬかるむ道を押し進めた。


 刹那、崖の上から音もなく矢が飛んだ。一本の矢が牛の背を掠め、荷の袋を裂く。麦がこぼれ、雨に混じって流れ落ちた。思わず兵が手を伸ばす。


「拾うな!」


 于禁は一声で制した。列が乱れれば、命も糧も失われる。


 山の方から敵影が見えた。少数の兵が岩の上から石を投げ、矢を射かけてくる。于禁は手を上げた。


「前へ!」


 弓の音が返り、敵は霧に紛れて消える。小競り合いが幾度も続いた。それでも、隊列は崩れなかった。


 昼には雨が止み、于禁は腰の帯を絞り、濡れた地図を開く。谷を抜ければ、張遼の陣まで半日の距離である。進むほどに道は狭く、岩がせり出していた。車を一台落とせば後ろは詰まる。兵は黙々と、崖の縁を押していった。


 途中、若い兵が車輪を滑らせ、地に膝をついた。糧袋が傾いて布が裂ける。彼は震える手でそれを支えようとした。于禁が近づき、荷を結ぶ紐を直す。


「結びが緩いな。焦ってはならぬ。糧は命と同じだ」


 その言葉に兵はうなずいた。涙とも汗ともつかぬものが頬を伝う。


 夕刻、山を抜けた。霧が晴れ、遠くに張遼の旗が見える。兵たちは声を上げず、肩の力を抜いた。張遼が于禁の隊に気づき、駆け寄って馬上から叫ぶ。


「文則殿! よく通された!」

「間に合いましたか。糧を絶やさねば、兵は動きましょう」


 于禁はそれだけを答えた。その声に、張遼は笑いながら拳を上げる。


「ならば見せよう、糧を食らう兵の力を!」


 その夜、張遼軍は息を吹き返した。火が灯り、鍋が鳴る。兵たちは久しぶりに腹を満たし、濡れた衣を乾かした。臧覇の軍からも報が届く。


「臧将軍、韓当軍を敗走させました!」


 その報せに陣中が沸いた。山を覆っていた陰鬱な空気が、夜明けとともに薄れていく。


 次の日、張遼は山麓に陣を敷いて攻勢をかけた。梅成・陳蘭の陣は乱れ、兵が四方へ散る。張郃が右から回り込み、山を背にした敵を押し潰した。戦の音が谷に響き、岩が震える。


 于禁はその音を遠くに聞きながら、後方で糧の積み直しをしていた。兵は紐を結び直し、崩れた袋を縫い合わせる。


「糧を守れ。それが勝ちだ」


 彼はそう告げた。戦場に向かう者の背を見送り、律を正す。やがて、報が届いた。


「張将軍が梅成を討ち取られました。陳蘭も同じく」


 伝令は息を切らしていた。于禁はうなずき、空を仰ぐ。雲が流れ、山の頂が見える。


 戦は終わった。空は黄昏に変わり、その色が岩に染みている。その中を兵たちが歩いている。糧を分け合い、鍋を囲み、互いの生き残りを喜び、湯を啜っていた。


 于禁は少し離れた岩に腰を下ろした。


 粥を与えられてなお、戦う者がいる。それが獣なら、人はどこに立つのか。


 彼は答えを求めず、火の揺れをじっと見つめる。


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