27 求賢
建安十五年、春。許の空には桃の花びらが舞っていた。遠くで鼓が午を告げ、城門を行き交う兵と民が早足になる。戦の合間に訪れた束の間の平穏であった。それでも、どこかに緊張が残っている。人々の声は抑えられ、風の向きひとつで空気が変わる。
街の南では武具を修繕する音が響いていた。鍛冶屋の槌が鉄を打ち、煙が高く上がっている。城外の道では、馬を曳く兵の列が続き、子らがそのあとを追っていた。戦が遠のいても、戦の影はまだ人々の暮らしの上にある。
于禁は城北の営舎にあった。征伐の功により仮節鉞を賜り、いまは軍の再建と兵の育成を命ぜられている。曹操の軍は各地の戦を終えて兵を収めつつあったが、度重なる遠征と疫病の流行で、命を落とした吏や士卒が少なくなかった。寡婦や孤児が増え、田畑は荒れ果て、郡県はその救済に追われている。軍の再建は、戦の勝敗に勝るとも劣らぬ急務であった。
前年、曹操はその惨状を憂い、自ら布告を出している。それは許中の吏舎にも掲げられ、士民の口に広く上った。
『最近来、軍はたびたび征伐に赴いているが、疫病の流行もあり、官吏士卒で命を落としたものも多く、その家人は取り残され、流民が出ている。そのような事態を仁者が喜ぶだろうか。死者を出した家で生活の基盤たる財産を持たず自活できないものに対して、県官は官倉からの支給を絶ってはならぬ。直吏は彼らの面倒を見て、労り、我が意に沿う働きをせよ。』
その文を読んだとき、于禁は筆を持つ手を一度止めた。戦場を離れた今も、彼の仕事は戦の延長である。討伐の報告、兵の点呼、武具の修繕、亡くなった者の名簿と家族の書き付け。一つの戦が終わるたびに、札の上には無数の名が増えていく。生と死のあわいを記す文字は、墨よりも重く感じられた。
兵舎の外では、若い兵たちの掛け声が風に混じっていた。整列の号令が響き、鉄の音が交じる。彼らはみな、新たに徴された者たちであった。胸の革帯はまだ硬く、槍を構える姿もぎこちない。于禁は遠くからその動きを見ていた。老兵が若者の手を取り、槍の重みを教えている。地に足を取られ、倒れた者もいる。そのたびに笑いが起きるが、笑いはすぐに止み、息がそろう。戦のない日にも軍は生きている。生きるために、日々を刻む。
陽が傾き、于禁の肩に影が落ちた。その胸には、仮節鉞を預かる将の責が重なっている。
于禁は命令に従うことに慣れていたが、命を受けるたび、胸にひとつの疑問が残る。この国は、どこまで戦いを続けるのだろう。戦のために育て、鍛え、また送り出す。その循環の先に何があるのか。
その日も、于禁は軍務の報告を終えて廊を歩いていた。府の門前に人の群れができている。壁面に新しい詔が掲げられ、吏がそれを読み上げていた。陽を受けて札がきらめき、墨の線が鮮やかに浮かぶ。人々の視線がその文に吸い寄せられている。行き交う者が足を止め、誰もが耳を傾けた。于禁も立ち止まり、その詔を見上げる。
札の面には新たなる令の文言が連なっていた。どよめきがやがて収まり、読み上げる声が響く。
『古より天命を受け、世を興したる君主というもの、かつて賢人君子の助けなくして天下を治め得た者があろうか。その賢を得るにあたり、必ずしも遠くを探すには及ばず、往々その人は門を出ぬ里巷にこそ在る。これは幸いゆえに出会ったのではない。上に立つ者が、真に求めたからこそ見出だせたのだ。いま天下いまだ定まらず、これぞまさに賢を求むる急なる時である。』
声を出さずに、その一節を心の中で繰り返した。曹操の文はいつも鋭く、言葉の端に熱がある。その熱が札の上から立ちのぼるように思えた。
『孟公綽は趙・魏の老にはふさわしいが、滕・薛の大夫には及ばぬのだ。だがもし、清廉な士のみを用いるというならば、かの斉の桓公は、いかにして覇を唱え得たであろうか。』
群衆の間から、誰かが小さく笑う。
「桓公は盗賊のような者まで使ったと聞く」
「だから覇になれたのだろう」
そんな声がひそひそと交わされた。于禁はそれを聞き流し、次の一文へ目を移す。
『今の世にも、粗衣をまといながら玉を懐き、渭水のほとりに釣る者があるやもしれぬ。また、嫂と密通し賄賂を受け取る、魏無知のような才ある者が世に隠れておるやもしれぬ。』
兵たちは顔を見合わせた。粗衣に玉。その比喩が胸に残る。この国の多くの者が、粗衣のまま名もなく働いている。その中に、まだ見出されぬ玉がいくつも埋もれているのだろう。
『われを助けて、世に埋もれた人材を明らかにせよ。才のみを見てこれを挙げよ。われはその者を起用するだろう。』
読み終えると、周囲の喧騒が収まった。陽が札を照らし、黒い文字が映える。
于禁はその場を離れようとしたが、足が動かなかった。胸に、言葉の余熱が残っている。この詔は、かつての彼のような持たざるものへ向けたものかもしれない。
兵として身を立てた若き日。選ぶことさえ出来ぬまま戦場に身を置いてきた。功を立てても、郷挙里選の制度のもとでは、家柄の低い者に道は狭い。しかしながらこの詔は、その壁を壊す言葉である。才ある者を探し、挙げよ。その一文は、天から降るようにまぶしかった。
もしこの令があの頃にあったのなら。もしも、昌豨にもこれが届いていたのなら。
思い出が胸をかすめる。十八年前、彼らが袂を分かったとき、まだ天下は乱れていた。剣よりも飢えが人を殺す時代だった。あのときこの詔があったなら、誰も刃を取らずに済んだのだろうか。
その思いを胸に、于禁は空を仰ぐ。雲はゆるやかに流れ、春の空は穏やかに街を包んでいた。戦を越えても、人は生きねばならぬ。
于禁は札に背を向けた。戦場を離れてなお、心の中に戦の名残があった。日々の務めに戻らねばならぬ。
城の北では、兵たちの掛け声がまた響いている。新しい命が、また鍛えられようとしていた。于禁はその声を背に受けながら歩き出す。




