25 寂寞
戦の終わった地には、まだ死の気配が漂っていた。地には矛が突き刺さり、折れた矢が横たわっている。砦は落ち、軍は退き、戦はひとまず終わった。しかし空にはなお灰が漂っている。
その中を、ひとりの男が歩いてきた。縄を自らの腕に掛け、地を踏んで進んでくる。左右には兵がいるが、誰ひとり手を伸ばそうとはせず、目をそらし、黙って道を開けた。
昌豨である。
かつて呂布に従い、曹操に叛き、再び降りて赦され、また旗を翻した男。顔には疲労の色が濃いものの、歩みには迷いがなかった。
前方にいた衛士が走り出す。間もなく帷が開き、臧覇が姿を見せた。鎧の上に布を掛け、口元を引き締めている。そのすぐあとに于禁が現れた。足音を立てずに前へ出る。二人の視線が昌豨の姿をとらえた。
昌豨はそこで立ち止まり、笑う。
「お前たちには勝てなかったか」
温度のない声であった。敗北を口にしながらも、まだどこか現実を掴みきれていない。自嘲とも諦めともつかぬ声色である。
臧覇が口を開くより早く、夏侯淵が駆け寄ってきた。戦の報をまとめ終えたばかりで、手には書簡を持っている。
「于将軍、この男、どう扱う」
臧覇はすぐに言った。
「本国に送り、曹公の裁きを仰ぐべきだ」
昌豨の縄のかかった両手がわずかに動く。すでに決した者の平静であった。于禁は一歩進んで告げる。
「曹公の過去の軍令では、包囲されてから降伏したものは許さずとある。法律や命令に従うのが臣下としての節義だ。旧友だからといって節義を失うことはできぬ」
その場にいる誰もが固まった。臧覇が顔を上げる。まなじりに怒りと悲しみが混ざっていた。
「文則殿!」
于禁の姿を、昌豨はまっすぐ見ていた。縄が揺れる。
「……そうか」
昌豨が不意に口元を緩めた。夏侯淵は唇を引き結び、臧覇は目を背ける。
× × ×
処刑はその場で行われると決まった。兵が動き、簡素な木台が用意される。柱の根に布が巻かれ、足元には血を受けるための穴が掘られた。見張りが距離を取り、野は音を潜める。夕陽が地上を赤く染めていた。
昌豨は木台の傍に立ち、手の縄をほどかれると、自らそこに腰を下ろした。風が吹き、額にかかる髪が揺れる。
于禁が手に剣を持ち歩み寄った。刃が陽射しを反射して輝く。
二人の間に無言の時が流れた。やがて、昌豨がぽつりとつぶやくように口をきく。
「昔さ。粥のことでよくお前に叱られたよな。焦がすな、よく見ろ、目を離すな、ってな」
于禁は剣を下げたまま、目で答えた。
「今は焦がしようがない。煮る暇もねえし、粥もねえ」
風が帷を撫で、遠くで焚火の音が鳴る。于禁は沈黙の中で、剣の柄を握り直した。
「以前、お前を真に理解しているのは俺だけだと言ったな」
抑揚のない声だった。さながら、事実のみを置くような響きである。昌豨は目尻をわずかに緩めた。
「ああ、言った。泰山で泥をすすっていたころ、同じ鍋の焦げを削りながら、俺はそう思った」
言葉の端に笑いが混じる。
「お前は火の勢いを見て水を足す。俺は鍋をあおって焦がす。それでいて、次の朝には同じ列に立っていた」
于禁は視線を外さない。
「ああ。その通りだ。俺はお前を知っている。ここで俺が情を取れば、お前はまた曹公に背く」
声には刃のような鋭さがあった。逃げ場を作らぬ言葉である。
「背く、か。そうだろう。俺は何度も背いた。口で言い繕っても、事実は消えない」
昌豨の目の奥に熱が立つ。
「だがな、文則」
彼は顔を上げ、陽の方角を見た。
「粥を与えられ、命令をきく。そんな生き方、獣と変わらないだろう!」
叫びは一度きりであった。声は空へ放たれ、吸い込まれていく。外で見守る兵の肩がびくりと揺れ、臧覇の瞼がきつく閉じた。
于禁は顔をわずかに歪めた。言葉は出ない。口を開けば何かが崩れる。沈黙のほうが強いと知っている者の面であった。
「律で世が立つとするなら、俺はその外で息をしてきた」
昌豨は自嘲するように笑い、すぐ笑みを収めた。
「赦されて戻っても、俺の足は地を離れたままだった。土の感触がなかった。旗を見ても、旗の下の人の顔を見ても、俺の居場所は見つからなかった」
指先が震える。縄痕の帯は、乾いた皮膚に赤く浮いていた。
于禁はまだ沈黙の側にいる。臧覇は拳を開いたり閉じたりし、その手を衣の中に隠した。夏侯淵は片足を一歩引き、地の傾きを確かめるように立ち直す。
「文則」
昌豨は名を呼んだ。今度の声音は柔らかい。
「俺は、お前に嫌われたくはなかった。好き勝手やっておきながら、勝手な話だ。けれど、あの頃から俺は、お前のまっすぐさを見てきた。俺にはないものだった」
瞳が揺れ、陽の赤と混じる。
「それでも俺は、俺の足で歩きたいと思ってきた。粥の順番でさえ列を飛び出したがるような性分でな」
于禁の胸に、はっきりとした痛みが走った。しかし顔は動かぬ。言えばよい言葉はある。されど、それを言えば律が傾く。将として立つ場所が砂のように崩れる。
昌豨が肩の力を抜く。
「ここまで来て、やっと息が楽になった。逃げ場がないというのは、ときに楽だ」
昌豨は視線を一度落とし、それからゆっくりと顔を上げた。
「文則」
泣き笑いが頬に刻まれ、声はかすかである。
「でもさあ……俺、まだ死にたくないよ、文則」
その一言が、野のすべてを鎮めた。
于禁は剣を上げた。涙が一筋、頬を伝う。声を上げぬ。顔を歪めもせぬ。ただ、ひとすじ。
そして刃が振り下ろされた。
昌豨の首は、土の上に転がった。血が帛を濡らし、風がその名を吹き消す。
処刑は終わった。刃は無慈悲に振り下ろされ、ひとつの命が絶たれた。
大地が赤く染まり、倒れた木台の下で、血が布を濡らす。
于禁は剣を納めず、無言でその場に立っていた。誰も言葉をかけられずにいた。臧覇も夏侯淵も、距離を取って立ち尽くしている。
やがて、ひとつの影が地に膝をついた。
于禁であった。
ゆっくりと屈み、昌豨の首を抱き上げる。手が震える。血が袖を伝い、掌に重みがかかる。まだ、温もりが残っていた。
かつて肩を並べた友の顔。閉じられた目と、声を喪った口。髪は頬にかかり、貼りついている。将として、受けねばならぬ責。律を通すということは、命を絶つということ。かつての友を、己の手で。
夏侯淵が前に出ようとしたが、足が止まった。何も言えなかった。言葉が届く場所ではなかった。臧覇もまた、肩を震わせていた。声にならぬ声を上げながら、彼は滂沱の涙を落とした。
誰も于禁を責めなかった。責めることができなかった。それは律であり、命であり、そして世の形であった。
于禁は首を包み、帛で巻いた。血の跡が広がり、白が赤に変じていく。
そのまま彼は立ち上がった。姿勢は崩れず、手は震えても膝は折れぬ。
兵たちは見ていた。列の中にいた者も、監視の者も、みながその姿を見ていた。命令が下され、陣は再び動き出したが、もはや声はなかった。号令も、報告も、どこか虚ろであった。
空に雲がたちこめ、夕陽の色が消えてゆく。昌豨の首は丁重に包まれ、遺骸とともに埋葬された。土を掘る者の手にも、涙はあった。その日、将たちは一言も交わさず、野営の支度に戻った。
× × ×
数日ののち、東の地・淳于に駐る曹操のもとに、報が届いた。
『昌豨、于文則により誅せられ、東海の乱、平定す。』
曹操はそれを読み終えると、しばし何も言わなかった。几の上には他の報も積まれていたが、手を伸ばさぬ。
やがて、口を開く。
「文則……よくやった」
律を守る者を、主君は賞する。理屈は通っていた。帷の外で風が吹いている。帛がなびき、兵の声が遠くに聞こえた。曹操は、書簡を置いたまま、独り言のようにつぶやく。
「俺ではなく文則の元に出頭したことで、昌豨の運命は定まったのだ」
その言葉には、嘆息のみがあった。情を捨てて律を取り、律の中で命を裁いた将。その将を賞する主。しかし、彼は理解していた。人は律だけでは動かぬ。動かぬ者もまた、律のみでは支えきれぬ。
「律は世を支えるが、律の後ろには情があるのだ。情を知らずして、律は貫けぬ」
まるで、零れるような言葉だった。
それから間もなくして、于禁の功は朝廷に上奏され、虎威将軍の号が授けられた。東海は平定され、道に旗が翻り、民は再び田に出る。
されど、于禁の掌にはなお血の温もりが残っていた。それは決して、剣では拭えぬものであった。




