24 反旗
戦に敗れても、なお地に根を張る者がいた。降り伏しても、心まで折れぬ者もいた。征伐と赦免は繰り返され、戦後の地には平穏が戻る。
昌豨もまた、そのひとりであった。かつて呂布に従い、曹操に背き、劉備に呼応し、官渡戦後には再び挙兵した。そのたびに敗れ、また赦された。曹操は過去の咎を問わず、政に従う者には地を与えた。昌豨もその恩に浴し、旧地に戻った。そして、六年が過ぎた。
建安十一年。昌豨は、四たび、旗を翻した。
報は急を告げた。徐州方面の要地にて、昌豨が備蓄兵を起こし、曹操に背を向けたという。その兵は多くはないが、地形に通じ、拠っている砦も堅い。かつての配下や地元の郷兵が集い、統制も保たれていた。すでに数城において徴兵の気配があり、放置すれば周辺の治安にも波及する。曹操はただちに征伐を命じた。
軍を率いるは、于禁と臧覇。いずれも昌豨の友であった者だ。されど、その信念は異なる。一人は律を守り、降者に情を挟まず。一人は情に熱く、旧友にも手を伸ばす。
旗が立ち、命が下された。戦は再び、動き出す。
軍の支度が始まると、野に緊張が走った。布の包みを担ぐ兵、馬を曳いて走る者、鍛冶の音が帷の外まで響く。命の伝わった日の朝、于禁はすでに鎧を締め、地図を広げていた。対する臧覇はまだ帷の中で焚火の前で湯を啜っている。
「文則殿」
帷を分けて出てきた臧覇が呼びかけた。于禁は振り返り、手を止める。地図の上には線が幾重にも引かれていた。それらを見つめる眼は冷静で、ひとつの迷いもない。
「出立はいつに」
「今朝だ」
于禁の声には揺れがなかった。臧覇は一歩近づき、地図の端に目をやる。そこに記された昌豨の名に、指がわずかに止まった。
「あいつも、まだ諦めてはいなかったか」
「諦める者なら、そもそも叛かぬ」
「しかし、赦されて戻った身だぞ。曹公は一度ならず、三度も情を掛けられた。それを裏切るとは」
臧覇は言い淀む。言葉の先に、自らの胸を刺すものがあった。
「俺はあいつを知っている。考えなしに人を裏切る男じゃない。きっと何か、行き場を失ったのだろう」
于禁は視線を上げずに答える。
「法に行き場はない」
手心のない言葉に、臧覇は口を閉ざした。帷の外で馬が嘶く。焚火の煙が流れ、灰が宙に舞った。
× × ×
出立の合図が鳴る。列が動き、兵の足が一斉に土を踏んだ。鉄の音が野に響く。臧覇の陣は南の道を取り、于禁は北より回る。二軍が山をはさみ、東の砦を包む手筈であった。
行軍の途は険しかった。丘陵は幾重にも重なり、道は狭く、川を渡れば泥に車の輪がとられ、夜は霧が降りる。それでも于禁の軍は乱れず進み、夜営の火も一様に並んでいた。兵たちは無言で器を洗い、矢羽を乾かし、誰一人として命令を問わぬ。将の律がそのまま陣の様相であった。
一方の臧覇は、歩を緩めることが多かった。谷間に差しかかるたびに、耳を澄ませ、目を凝らす。
「このあたりは昌豨の兵が潜む地形だ。昔、砦を築こうとして断念した谷がある」
その声には、敵を知る者の実感があった。彼の後ろに続く将校が問う。
「臧将軍は古くからこの辺りを治めておられたのでしたな。敵方に旧知のものも多いのでは」
「情は兵を惑わす。が、知っていることは使う。それが戦だ」
臧覇は首を振った。
夜半、野営の火が灯る。臧覇は焚火の前で膝を抱き、炎を見つめた。かつて昌豨と肩を並べた日々が脳裏に浮かぶ。呂布の旗下、混乱の世でともに城を奪い、また奪われた。その記憶は血と腐敗にまみれ、誰もが勝者を知らぬ時代であった。しかし今は違う。乱は収まり、規律が生まれつつある。その規律の中で、昌豨は生きられなかったのか。
炎が小さく爆ぜる。臧覇はその音に我へ返り、立ち上がった。遠く、夜を裂くように角笛が鳴る。伝令が駆け込み、息を荒らせて報を告げた。
「昌豨軍、前方の丘に布陣。およそ三千!」
「全軍、備えを取れ。夜明けに攻める」
臧覇はすぐに命を下す。
× × ×
そのころ、于禁の陣も動いていた。風が北から吹き、軍旗が鳴る。副将が駆け寄り、報を伝える。
「臧将軍の隊が敵を発見とのこと!」
「こちらも進め。西の丘を押さえよ」
于禁は馬を進めて地形を見た。霧の向こうに、かすかに松明の炎が見える。昌豨の陣である。その位置は防備に適し、丘と沼地を背にしていた。攻めれば損害は避けられぬが、退けば周囲の村が危うい。
于禁は副将に命じた。
「三隊を分け、弓兵を高地に置け。攻めは焦るな。敵を動かしてから包め」
「はっ」
矢が鳴り、戦が始まる。初日は小競り合いに終わり、双方とも主力を出さなかった。
× × ×
しかし、二日目。夜明けとともに、昌豨軍は丘を下りて奇襲を仕掛けた。臧覇の軍がこれを迎え撃つ。槍と槍がぶつかり、地が震えた。昌豨の兵には旧知の顔が多く、臧覇の名を呼ぶ声もある。
「宣高! なぜ俺たちに刃を向ける!」
「背いたのはお前たちだ!」
叫びが乱れ、刃が閃いた。臧覇は槍を振るいながら、答えぬ者の顔を見る。それはかつて同じ陣幕で糧を分け合った男であった。彼は血を吐き、臧覇の足元に倒れる。その瞬間、臧覇の胸に暗い痛みが走った。
戦は昼を越えて続く。薄暮、互いの姿が見えづらくなると、双方の陣がいったん退いた。臧覇は槍を突き、肩で息をする。彼の視線の先には、丘の上に立つ昌豨の姿があった。赤い帛を肩に掛け、遠くを見下ろしている。
「昌豨」
臧覇はつぶやいた。
「何故、このような」
夜風が吹き、火の勢いが増す。その炎の向こうに、かつての友の陣が屹立していた。
× × ×
一方、北の于禁もまた苦戦していた。霧が晴れぬうちに敵が攻め、伏兵が矢を放つ。沼地には足を取られた。副将が進言する。
「将軍、このままでは兵が持ちませぬ。宣高殿と合軍を」
于禁は首を横に振った。
夕刻、両軍とも動きを止めた。丘には焚火が並び、煙が揺れている。矢が刺さったままの盾が土に突き立ち、折れた槍が輝きを失っていた。その夜、于禁は筆を執った。
『昌豨の軍、地を頼みて抗す。軍の損耗甚だしい。援軍を乞う。』
文は余情を交えず、律の人の筆である。伝令が駆け出してゆく。その背を見送り、于禁は地図を巻いた。
それから三日が過ぎ、補給は途絶え、兵の疲れは限界に達する。水場は濁り、馬は痩せ、火を焚く薪すらもはや乏しい。
ある朝、東の空に塵が上がった。敵かと兵が騒ぐ。が、次の瞬間、伝令の声が響いた。
「援軍です! 夏侯将軍の旗です!」
野に歓声が広がった。夏侯淵が軽騎を率い、山道を駆け下りてくる。風のような軍であった。鎧の金具が鳴り、馬のたてがみが白光を引く。
「文則!」
馬上からの声に、于禁はわずかにうなずいた。
「遅くなったな。陣形は保っているか」
「乱れはありません。ですが、長くは持たぬかと」
「ならば一気に断つ。宣高の陣と呼応し、東より挟撃する」
命はすぐに伝えられた。三軍が同時に動く。角笛が鳴り、鼓が地に響く。丘の上から弓が放たれ、火矢が夜の残り煙を焼いた。昌豨の陣は応戦したが、三方から押し寄せる軍勢に包まれた。
戦の渦の中、昌豨は陣幕を押し開けて外に出た。彼の顔には疲労が刻まれていたが、眼は澄んでいる。
「もう、終わりか」
つぶやいた声は誰にも届かぬ。部下が駆け寄り、逃げましょうと叫んだ。




