23 民歌
官渡の戦いが終わり、黄河の岸に煙が消えても、野にはなお騒の気が残っていた。昌豨が曹操に対し、三度目の兵を挙げたのである。
討伐には張遼・夏侯淵が遣わされた。軍は東へと進み、山と水を分けて砦を包む。戦はすぐには動かず、数か月の攻囲となった。昌豨は地の利を生かし、兵をもって抵抗する。幾たびも夜襲を仕掛け、偽りの和を見せ、伏兵を操った。兵力はわずかに見えて油断ならず、張遼も夏侯淵もその姿に油を注がれるような日々が続く。
月がめぐるごとに、兵糧は減った。水場は痩せ、馬も人も痩せる。陣では撤退の言がささやかれ、矢も干からびたように飛ばぬ。軍議が開かれ、夏侯淵は指を地図に置いて言った。
「このままでは兵が持たぬ。持久は得策ではない」
張遼が口を開く。
「近ごろ、巡邏の折に砦より昌豨がこちらを見ておりました。以前は矢を射てきたのに、近頃はそれも稀です。心が揺らいでいる証かと存じます。某に説得の機を与えていただけますれば、和を結ぶ望みもありましょう」
夏侯淵は黙して張遼を見た。その眼差しには危ぶむ色もあったが、やがてうなずき、一任を示す。張遼は書簡をしたため、昌豨に使いを送った。
『曹公は神のごとき武勇を備え、徳をもって四方を懐ける。今ここに真っ先に降る者には、きっと厚き恩がある。機を逃してはならぬ。』
昌豨はその文に目を通して几に置く。夜が更け、火が赤くなるまで彼は言葉を発せず、やがて口を開いた。
「降れ、か」
それはつぶやきに似た声だった。
× × ×
翌日、張遼はただ一騎で三公山を登った。誰も伴わず、鎧も脱いで、かつての同僚を訪ねるような面持ちで。昌豨の邸に入り、まず妻子に挨拶し、邸内を乱さぬよう言葉を選んで坐につく。昌豨は驚きつつも、その礼に応じた。やがて笑みを見せ、肩をほぐし、張遼の杯を受ける。
「文遠殿にここまでされてはな」
それから日を置かず、昌豨は自らの足で曹操の元に出頭した。
曹操はこれを迎え、咎めることはせず、旧地に戻して政を委ねた。罪を問わず、手柄も問わず、事を収めることを優先した。
その後まもなく、張遼は曹操に呼ばれる。
「よく説いた」
曹操は言ったが、その声は冷ややかであった。
「だが」
低い声で言葉を続ける。
「大将たる者、己を賤しゅうして敵中に入るは、道にあらず。たとえ忠心あれども、法の外に出てはならぬ」
張遼は悔恨に頭を垂れ、言葉を返せなかった。
× × ×
昌豨はまた赦された。三度目である。裏切りも、帰順も、もはや珍しくはない。
処遇が定まり、旧地へ戻る日を待っていたある夕刻、昌豨は本営近くの道で見覚えのある背を見た。地味な色をした軍衣、乱れぬ歩み。于禁である。昌豨はその姿を見つけると、思わず声を上げた。
「おうい、文則!」
振り返った于禁の顔に一瞬の驚きが走る。昌豨は近寄り、笑みを見せた。
「覚えているか。あのとき言ったろ。酒でも飲もう、ってな。やっと約束が果たせる」
于禁は束の間口を閉ざしていたが、昌豨の笑みの中にかつての戦場の日々を見た。ためらいながらも彼はうなずく。
「一盃だけだ」
「上等だ」
二人は並んで歩き、通りの外れにある小さな酒肆に入った。
酒肆の灯は弱く、土の壁に映る影は不安定に揺れていた。戸口の幕が鳴り、寒の残る外気が吹き込む。席は粗末で、卓は歪んでいた。酒の壺は既に半ばを過ぎ、盃の縁には麦の粒が乾いている。
「ほら、覚えているか。あのときさ」
昌豨は盃を傾け、頬を赤くして笑った。
「俺が鍋を焦がして、お前に怒られたろう。草鞋まで焦げて歩けなくなってさ。あれはもう、十年より昔になるのか」
于禁は笑わず、卓の節を見つめていた。昌豨の声は続く。言葉は軽く、途切れず、空白を埋めるようにして場を満たす。
「鮑騎都尉のもとで、俺たちはほんとにただの一兵卒だった。粥をすする順番だって、良い槍だって、先に並んだ者勝ちだった。今じゃ、あの時の誰も俺らの顔なんか覚えちゃいないだろうけどな」
于禁は盃を持ったまま、その言葉を聞いていた。目は合わず、うなずくこともなかったが、かつて焦げを削った手が今も盃を支えている。無言のままに、それが答えのようでもあった。
「でも、俺は覚えてる。お前が夜番のときは、必ず鍋底の焦げを削っていた。みんな面倒くさがってやらないようなことを、何も言わずに、黙々と」
盃が卓に当たり、鈍い音を立てた。昌豨は喉を潤すと、笑みを薄くする。どこか遠いものを見るような目をしていた。
「なあ、文則」
「何だ」
「お前、子供のころ、どんな夢を持っていた」
于禁は少し眉を寄せ、視線を上げる。
「夢、か」
「俺はさ、将になりたかった。名のある将になって、礼を受けて、旗の下で命令を出す側に立ちたかった。使われる側じゃなくてな。今も、ちょっとはそう思っている。そういうの、馬鹿だと思うか」
于禁は答えなかった。沈黙が帷を通り抜け、外の空気と混ざる。
「いや、分かっている。何度も裏切った俺に、そんなこと言う資格はない。でもよ、夢ってのは、なかなか終わらせられないもんなんだよ」
卓の上の盃に手を伸ばし、昌豨は酒を注いだ。壺の口から溢れた酒が卓の上に染みをつくる。
「文則。お前は偉いよ。律を守って、筋を通して、名を上げた。でもな」
舌で唇を湿らせ、昌豨は続けた。
「良いように使われているだけじゃないのか。死地にばかり回されて、名士の方々は後ろで書簡ばかりを読んでいる。あれが義か? あれが理か?」
昌豨の声がわずかに高くなる。それは心の底から溢れ出る疑問のようだった。
「宣高も俺も、任されているのは田舎の賊の抑えだ。地味で、誰も見ちゃいない。お前だって似たようなもんだ。あんたらは立派だって言うが、ほんとうはただ」
言いかけて、昌豨は盃を傾ける。酒が喉を通り、音もなく胃の腑に落ちた。
「ただ、律に囚われているだけなんじゃないか」
于禁は手を伸ばし、盃を戻す。その仕草に音はなかった。
「曹公も、文遠殿も、俺を評価してくれている。けれども、それがいつまで続くか分からない。俺が何か間違えば、また裏切り者の烙印を押される。俺は、俺が怖い」
酔いが回っている。昌豨の声は、少し震えていた。
「俺を真に理解してくれているのは、お前くらいだよ」
その言葉に、于禁は小さく首を横に振る。
「俺に、お前を斬らせるようなことはするな」
静謐な声であったが、その言葉は酒肆の空気を変える。昌豨は一瞬きょとんとした顔をしたあと、声を上げて笑った。
「お前はそんな情のない人間じゃないだろ。昔から、そうだった。俺が鮑騎都尉の軍を抜けた時だって黙っていてくれた。槍を研ぎながらも、誰より人の痛みが分かる奴だ」
続けて何か言おうとしたが、于禁は目を伏せたまま動かなかった。
「笑えよ。堅すぎるって、いつも言われていただろう」
盃を手に、昌豨はふらりと立ち上がる。そして、唐突に口ずさみ始めた。素朴な調子の、民の歌。戦の地を巡る兵たちが夜営で唄うような、そんな旋律である。
その声には、どこか夢を見るような響きがあった。自分の置かれた場所を忘れ、未来をまだ信じられる者の声音。
于禁は黙ってそれを聞いていた。唄は途中で止まり、昌豨は席に戻ることなく、泳ぐように帷をくぐって外へ出た。
ゆっくりと揺れながら、昌豨の背が遠ざかる。その背に向けて、于禁は何も言わなかった。掌に、冷えた盃の重みが残る。
夜が深まり、酒肆の灯も小さくなった。風が入り、かたかたと盃を鳴らす。于禁はその音を聞きながら立ち上がった。
それは律を守る者が抱えるしかない、言葉にならぬ感情であった。




