13 夜襲
汝南の地は、まだ乱の火を宿していた。かつての黄巾の徒が散り、村を焼き、徴の車を奪っていく。その残党を束ねている劉辟・黄邵・何儀らは、夜ごと襲いをかけてはすぐに姿を消した。曹操はこれを放たず、討伐の軍を起こす。本営は版梁に置かれ、中軍に典韋、左右に諸将が布陣した。于禁は南の守りを預かり、先鋒と防衛の両を兼ねる。
夜は早くに降り、焚火の数は定められ、旗の群れが地を横切った。律のある陣は荒れず、曹操は幕舎の中で地図を見つめる。
「この乱を残せば、根はまた芽を吹く。明日、掃うぞ」
典韋はうなずき、手にした双戟を鳴らした。その音が陣を震わせる。
夜半を過ぎると、風が止んだ。外郭を巡る見張りは松明を掲げて歩き、その火の揺らぎの向こう、遠くの地で赤が跳ねる。火矢であった。すぐに煙が立ちのぼり、地鳴りが重なり、馬が暴れ、陣は騒然とする。瞬く間に火は走り、矢の雨が降り注いだ。曹操の幕舎の布が炎を受けて赤く染まる。典韋がまなじりを裂いて双戟を構え、火の粉を浴びながら怒声を上げた。
「傻! 退くな! 本営を守れ!」
十余の兵が従い、燃える幕へと突き進む。敵は闇を破って突入し、陣幕を蹴り倒した。火と怒号が重なり、一帯が混乱に陥る。
その報は間もなく南の陣にも届いた。
「本営に火の手が上がりました! 敵襲です!」
伝令が駆け込むなり、于禁は馬に跨る。
「火を避け、東の道を開け。すぐに矢を持て」
命令が飛び、兵が即坐に整列した。見張りを増やしていたことが功を奏し、位置も敵の進路も掴めている。于禁は手綱を引き、闇の中を駆けた。
夜風が顔を打ち、遠くで火の粉が舞う。煙が増し、大地の上に赤が走った。火の中から人馬の姿が現れる。曹操の陣の外輪が炎に包まれていた。敵は数を頼み、旗を振って突き進む。于禁は馬上から声を放った。
「列を保ち、乱すな! 弓を構えよ!」
その一声で背後の兵が一斉に足を止め、矢を構える。放たれた矢が、火の中に突き刺さった。敵の先頭が崩れ、その隙に于禁はさらに前へ出る。
「右、周り込め! 左、列を締めろ!」
命令が飛ぶたび、列が変わり、道が開く。火の明滅のなか、兵の影が一つの線を描いた。敵の勢がそれに押し返され、炎の中で動きを失う。曹操の本営からも鼓が鳴った。典韋の咆哮が轟く。
「押し返せ!」
中軍と于禁の陣が合わさり、火の海の中で形勢が逆転した。
炎が天を焦がし、煙が流れる。黄邵の軍は混乱のまま退き始めた。地を蹴る音が遠のく。于禁は馬を止め、敵の退路を見送った。
「追ってはならぬ」
その声が響くと、兵は矢を収めて槍を立てた。残ったものは、火の音と鉄の冷たい音である。
間を置かず、于禁は列を組み替え、反撃の手を前へと押し出した。火の粉が闇に舞い、地の上で刃が乱れる。敵は声を上げ、混乱の勢いのまま押し寄せてきた。松明を掲げた黄邵の兵が先頭に立ち、刃を振りかざす。その火が瞬くたび、地の上に無数の血が跳ねた。
于禁は馬を進め、矢陣の前に立つ。
「次を放て」
その声は平らでありながら、火の勢いにも呑まれなかった。弓の音が重なり、矢が空を裂く。炎の向こうで金属のぶつかる音がして、倒れた兵の上を後続が駆け越えた。足音が砂を蹴り、火花を散らす。
「前へ」
于禁が命じると、槍兵が進み出た。列は波のように動き、槍が火を受けて揺れる。整列した兵の群れが一つの壁となり、敵の勢いを止めた。
「押し返せ」
声が陣の奥から響く。典韋である。彼は炎の中に立ち、双戟を振るって道を開いていた。その後ろでは曹操の幕が半ば焼け、書簡が灰となって舞う。曹操はわずかに顔を上げた。
炎が敵の背を照らし、動きが乱れる。黄邵は馬上で叫び、旗を振って再び突き進む。
「押せ! 陣を破れ!」
その声の半ばで、矢が飛んだ。火の中を貫いた矢が彼の肩を撃ち、馬が跳ねる。
次の瞬間、于禁が槍を構えて迫った。槍の穂先が火を映し、黄邵の胸を貫く。血が飛び、炎がそれを照らした。黄邵は言葉を発せずに落馬する。その体が音を立てて地に沈むと、周囲の兵が退いた。次第に火の勢いも衰えていく。
将を失った敵の旗は次々に倒れた。残った者たちは武を捨てて地に膝をつく。何儀もまたその中にあった。彼は両手を挙げ、声を震わせる。
「降を、降を望みます」
于禁はうなずいた。
「命を惜しむことは恥ではない」
彼の言葉に、兵たちは背筋を正す。やがて炎は消え、煙が夜空に昇った。夜が明け始めている。地の色が灰から金に変わり、焦げた幕の端が陽光を受けた。曹操の本営では焼け残った札や糧を拾う者が歩き、典韋が腕に帛を巻きながら立っていた。曹操はその様子を見つめ、一言発する。
「よく守った」
その言葉が伝わると、兵の顔にわずかな安堵が浮かんだ。
陽が昇るころには、于禁は戦場の整頓を終えていた。兵は矢を回収し、倒れた馬を引き上げる。火の跡には黒い炭と灰が積もり、人が焼けた嫌な匂いが漂っていた。整列の合図が鳴ると、兵は無言で並ぶ。捕虜の列が遠くまで続き、遠方で鼓が一度鳴った。静寂の中に、戦の終わりがある。
典韋が焚火の傍に立ち、于禁を見た。
「曹公を救えたのは、おぬしの速さよ」
「みなの働きがあってこそだ」
そう言葉を交わし、互いに言葉を止める。
焦げた地に芽を出した小さな草を風が撫でていった。于禁は馬のたてがみに手を置き、空を仰ぐ。雲が流れ、鳥が一羽、焼け跡を越えて飛んでいく。
この戦の功により、于禁はのちに平虜校尉に任ぜられた。その名は、粛々と国中に広まっていった。




