14 苦界
瑞兆が下ったという。天が紫の雲を垂れ、地が香を吐き、五色の光が寿春の空に立ったのだと。袁術はそれを天命と称し、自ら皇帝を号した。建安二年の秋のことである。
彼は玉殿を築き、金を柱に巻き、玉を階に敷いた。衣には錦、盃には珠を飾り、昼夜の区を忘れて酒を注ぐ。天命は己にあると信じ、暁には楽を奏し、宵には舞を命じた。香炉の煙が空を満たし、華やぐ宮の外には飢えた民の呻きが満ちる。
田畑が干上がり、兵糧も尽きた。兵は馬を殺して肉を食い、土を掘り返して虫を食い、木の皮を煮て食い、ついには人を喰んだ。都の周囲では、死骸を焼く煙が絶えず、泣き声が夜に混じる。城外に集まった民は、粥を乞うにも手を伸ばす力を失い、やがて群れの中で倒れていった。その惨を知りながら、袁術は玉坐を離れず、天子の徳あらば地は自ずから満つと言い放ったのだという。
陳国から潁川へ、飢えた人々が流れ始めた。家を棄て、親を担ぎ、道に倒れながら北へ向かう。秋の冷えで、草の根も枯れた。子を背に負った女が乳を吸わせるふりをして泣き、老人は黙って空を見上げる。人の形をした影が、土と同じ色をして道に散らばっていた。
曹操の治める地にも、その波は届いた。郡境を越えて流民が押し寄せ、道は人で埋まる。糧を求めて城門を叩く音が絶えず、守兵が門を閉ざしても、その外で群れが動かぬ。焚火の煙が重なり、焦げた穀の匂いが地に広がった。泣く声、呼ぶ声、呻きが交じり合い、夜も昼もなく響く。
その列の傍を、于禁の軍が通った。馬上から見ると、地が人で覆われている。飢えた者が這い、倒れ、また立ち上がろうとして倒れた。子を抱いた女の唇は乾き、声も出ぬ。地の上で、男が抱えたものに歯を立てていた。それが人の腕であることを、誰も口にはしない。
風が吹く。于禁は手綱を引き、馬を止めた。長いあいだ、動かなかった。兵は列を乱さず進み、誰も声を上げぬ。ただ、静寂の中で鎧の金具が微かに鳴った。その音は、まだ人の世に残る天の楽のように響く。
やがて、伝令が駆けてきた。
「陳国に袁術の将、橋蕤が籠もっております」
曹操はこれを討たんとし、行軍の号が出た。于禁もその軍に加わり、南へと向かう。野を渡る風は冷たく、兵の頬を刺した。倒れた牛馬の骨が転がり、干上がった井戸の底から土が舞う。行く先には焼け跡と空の家ばかりが続いた。人は姿を見せず、鳥も鳴かぬ。戦も飢えも、すべてが尽きた地であった。
しばらくして、曹操の軍は苦県に達した。橋蕤は陣を固め、城塁に兵を並べる。袁術の旗は裂け、布の端が灰のように散った。敵の数は多いが、みな飢えに疲れている。夜が来ても火を焚く力もなく、城の中は沈黙していた。
曹操は陣を見渡して告げる。
「夜に攻めよ。民にまだ息があるうちに、この戦を終わらせねばならん」
その命が下ると、于禁は右翼の指揮を預かった。矢束を手入れし、火を消し、列を密にする。星が甲をわずかに照らした。じわりじわりと闇が深まる。
「鼓を待て」
命じると、兵の息がひとつに揃った。遠くで鼓が一度鳴る。その音が闇を裂き、城壁に響いた。
火矢が放たれ、炎が空に跳ね、布を焼く。門が割れ、土塁が崩れ、兵が雪崩れ込む。夜の闇が赤く染まり、矢が敵陣に降り注いだ。叫びが混じり、槍がぶつかる音が続く。
橋蕤が槍を手に突進するも、于禁の部隊がこれを受け、左右から挟んで首を斬った。李豊、梁綱、楽就といった袁術軍の将も相次いで斬り伏せる。戦は夜のうちに終わった。
勝敗は決した。されど、終わりは平穏の始まりではない。夜風が灰を巻き上げ、燃え残った木の柱が赤を残している。兵は矢を拾い、倒れた仲間を運び出した。
于禁は槍を地に立て、崩れた城門の先を見る。炎に照らされた闇の中、何かが蠢いていた。よく見ると、死者の傍らに人影があり、その手が肉を裂いて口に運んでいる。飢えた兵と流民が入り混じり、声もなく屍に群がっていた。人の形をしたまま、もはや理を失った群れであった。兵のひとりが息を呑み、槍を構えかけたが、于禁は目で制して首を振る。
炎の明滅に合わせて影が揺れ、音もなく動く。人が人を喰う。その光景は戦よりも残酷で、静謐だった。命が軽く死が日常となる地に、律を語る声など届かぬ。それでも于禁は目を逸らさなかった。心の内で、怒りも悲しみも同じ色に溶けていく。
暁、血に濡れた土が次第に乾き、兵たちは焼け跡を片付け、倒れた門を薪にして粥の鍋を火にかけた。雑多な穀物を少しずつ混ぜた薄い粥であった。湯気が立ち、その香が夜気に溶ける。
そのとき、闇の向こうから人の姿が現れた。十ほどの群れが、ふらつきながら近づいてくる。痩せ細った腕、骨ばった足。衣は裂け、顔は垢と脂にまみれ、声も出ぬ。兵が慌てて槍を構えると、于禁が手を上げて制した。
「動くな」
声は闇に消える。
流民たちは、ふらふらと揺れながら焚火を見ていた。誰も言葉を発さず、手を伸ばすこともなく、目だけが湯気の立つ鍋を追っていた。
于禁はその視線の中に、獣ではないものを見た。飢えの奥に、かすかに残る人の光。その光を守るものが律であると、彼は知っている。
兵が椀を持ち上げかけたとき、于禁はわずかに首を振った。粥は兵のためにある。律を破れば、次は自分が飢える。しかし、律を保つとは、冷たく在ることと同義ではなかろう。
于禁はしばらく火を見つめ、やがて背を向けた。風が吹き、灰が舞う。火の粉が流民の足元をかすめても、誰も動かなかった。
夜が更け、焚火が小さくなっていく。兵は順に粥を食べ終えて列に戻った。雲が退いて月が顔を出し、城の瓦を照らす。
于禁は眠らずに立ち、遠い空を仰いだ。炎の跡に残った沈黙が耳を覆う。その内に、まだかすかな呻きがあった。獣の声か、人の声か、それは分からなかった。
袁術の勢はこの戦を境に崩れた。されど飢えと病は地に残り、夜ごと新たな呻きが生まれる。于禁はそれを背に受けながら、馬のたてがみに手を置いた。
夜明けの陽が地を照らし、焼けた城壁に影が伸び、兵が列を組む音が続く。歩調が揃い、足が大地を打つ。その律が、戦のあとに残った最後の条理であった。
野の果てにはまだ煙が上がっている。于禁は一度振り返り、飢えに包まれた地を見つめた。そこに言葉はなかった。ただ、乱世という名の静寂が広がっていた。




