11 併存
曹操が徐州から戻ると、兵の足音が地の底で唸るように響いた。于禁は馬上からその列を見る。濮陽の地にはまだ戦の焦げが残っており、戦は終わらず、呂布は城に籠っている。
曹操の命は至極明快であった。
「南の陣を討て。別働は須昌の口を押さえ、糧道を断て」
北では夏侯惇が本隊を率い、曹操は中央に控えている。于禁の任は、その背を支え、南を鎮めることにあった。
丘の上から見下ろすと、敵の陣が二つ見える。軍旗が並び、塁の上には弓兵の姿があった。于禁は馬を止めて命じる。
「右の隊は丘を取り、左は塁を巻け! 鼓を三たび鳴らしたら進め!」
兵はうなずき、槍を立て直す。
鼓が鳴り、列が動いた。土煙が上がり、矢が空を裂くと、敵は抗う間もなく押された。戦の初めにも終わりにも、兵に選ぶ自由などない。
敵の旗が倒れると、土塁に火が走った。炎が唸り、煙が空へと昇る。すると、呂布の南陣を守っていた高雅が逃げ出した。戦はわずか一刻で終わり、勝敗は明らかであったが、于禁は勝鬨を許さぬ。
「追ってはならん。陣を保て」
副将が驚いたように顔を上げた。
「何故です! いま追えば、残党をすべて討てましょう!」
于禁は首を横に振る。
「浮足立った今追えば、こちらの兵も多く死ぬ。。命の使いどころを誤ってはならん」
その言葉は、兵たちの胸を突いた。
戦が終わると、捕虜が二十余りひとところに集められる。血気にはやる若い将が前に出て、剣を抜いた。
「裏切りの徒は、ここで斬るべきです!」
于禁はその手を制す。
「ならん。怒りで剣を振れば、法が死に、軍も死ぬ」
剣先が地に落ち、勝ったはずの陣に緊張が戻った。
夕刻、風が止むと、兵たちは鍋を囲み、焦げた雑穀の粥をすすった。湯のように薄いその味に、誰も不満を言わぬ。飢えを満たすよりも、律を保つことが命を繋ぐ。于禁はその列を見渡した。
「この粥はみなが生き延びた証だ」
誰が聞くともなく、その言葉が夜の陣に響く。
夜更け、火の明かりの中で書簡が届いた。封泥には曹操を示す印が押されている。
『北方にて呂布と対峙する。しばらく南を固めよ』
簡潔な文であった。于禁はそれを読み、灯の火に油を足す。兵は眠りにつき、見張りの槍が夜空を指していた。風の中に、焦げの匂いが残っている。ふいに、遠くで雷鳴のような音がした。それは陽に晒された荒土が割れる音であった。
払暁、陽は弱い。于禁は丘に上り、北の方角を望んだ。濮陽の城の上に、うっすらと旗が見える。風が巻き上げる砂の色と混ざり、赤とも黒とも見えた。戦は続いている。それだけは確かであった。
「本陣より報せは」
「昨夜は矢合戦のみ。今朝は動きなしとのこと」
「よし。南の守りを続けよ」
于禁は馬を返し、兵の視線が集まる。この将のもとなら生きて帰れると、無言の思いが広がった。
陽が高くなるにつれ、地が熱を帯びる。砂が目に痛い。麦の穂は色を失い、遠くの村から煙が立った。戦火によるものではなく、乾燥した葉が擦れ合うことで起きる、自然の火である。飢えが始まっているのを、于禁は悟った。
夜、見張りが告げる。
「川が浅くなっております。井戸の水も減っておりました」
于禁はうなずいた。
「雨は、何日ない」
「二十日を超えましょう」
風が幕を揺らし、遠い空でかすかに雷が鳴るが、一向に雨は降らぬ。次第に井戸の水は減り、泥ばかりが上がるようになった。于禁はその泥を掌ですくうと、兵に渡す。
「飲むな。口を湿らせるのみとせよ」
兵はうなずき、唇に指を当てた。
× × ×
蝗は北から来た。最初は塵のようであった。空の端が黒く煙るのを、誰も気にも留めなかった。やがて、それが空を覆う。翅が擦れ、昼が闇になった。草も木も食い尽くされ、畑の根が晒される。
「……腹、減ったなあ。食えるものは、もうないか」
誰かがつぶやいたが、于禁は答えられなかった。
その夜、粥の鍋には麦も粟も一粒も入らなかった。木の皮と草の汁を煮て兵に配る。兵たちは両手で器を受け取り、苦く口内を傷つける汁を黙々とすすった。沈黙が夜を支配する。
翌朝、逃げ出した兵の痕跡があった。足跡が遠くまで続き、その先で鳥が鳴いている。于禁は追わせなかった。
「戻らぬ者の分まで糧を薄めよ」
声は冷たく揺るがぬ。律が乱れれば、心も崩れる。そのことを誰よりも理解しているのは、于禁自身であった。
昼過ぎ、伝令が駆けてきた。
「北より報! 夏侯将軍、戦の最中に流れ矢を受けられました!」
陣が凍り、于禁は問うた。
「命は」
「保たれておりますが、左眼を失われたとのこと」
風が吹き抜け、火が一つ消える。しばらく誰も言葉を発しなかった。
北の空に赤い煙が上がる。誰がその先に立つかは見えぬが、旗は倒れていなかった。兵たちは顔を伏せたが、于禁は旗の陰に立つ。
「命を賭して理を守る者がいる。ならば我らも乱してはならぬ」
その言葉が陣を渡り、疲れた列に力が戻った。
されど天は容赦を知らぬ。雨は降らず、蝗は去らず、川は枯れ、牛馬は立てなくなった。人が草を噛み、土を舐める。誰かが息絶え、仲間がその身を手で覆った。葬ることすら間に合わぬ。
× × ×
そのころ、曹操は本陣で地図を前にしていた。荀彧がその傍らにあり、油灯の火が二人の顔を照らす。
「天は我を試すか」
曹操が呟き、荀彧が答えた。
「天の理は人の理に従わず。ですが人が理を捨てれば、天もまた背くのです」
曹操はしばらく地図を見つめ、筆を執る。
「引くぞ。兵を鄄城に返す」
× × ×
命令は翌朝、全軍に伝わった。撤退と聞いても歓声は上がらぬ。兵たちは無言で荷をまとめ、槍を肩に担ぐ。誰もが、これが敗北ではないと信じていた。天が試したのである。
于禁は殿を命じられた。最後尾に立ち、列を見送る。砂が舞い、空が霞んだ。その向こうに、夏侯惇の騎がある。彼は布を巻いた片眼で前を見据え、なお馬上にあった。顔に残る血の跡は乾き、唇が固く結ばれている。
「将軍、休まれよ」
誰かが言ったが、夏侯惇は答えなかった。姿勢は崩れず、馬は進む。その背を見た于禁は、わずかに頭を下げた。言葉はなくとも互いに通うものがある。情と律、そのいずれもが折れていなかった。
列が動き出し、地の色と同じ甲冑が遠くまで続く。蝗の翅が舞い、風がその影を散らした。于禁は歩を進め、声を放つ。
「列を乱すな。振り返るな」
兵たちはうなずき、誰も後ろを見なかった。その背で、呂布の旗が遠くに揺れている。空は黄色の雲に覆われ、光も闇もなかった。
やがて陽が傾き、濮陽は地に溶ける。いつしか、蝗の音も止んでいた。その静謐の中で、于禁は歩を止め、兵の数を数える。それが、生きるということだった。
いつの間にか、空には星がいくつか瞬いていた。律を守る者も、情に燃える者も、みなその下にあった。戦は終わらず、理もまた尽きぬ。律を持つ者が歩むかぎり、軍は倒れぬ。




