↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/39

10 情将

 鄄城の乱を鎮め、夏侯惇は馬を濮陽へと向けていた。兵を返す途の道は、まだ戦の気配を残している。静寂が、かえって耳に痛い。


 行軍の途中、斥候が慌てた様子で駆けてくる。


「報です! 呂布軍、濮陽に侵入いたしました!」


 夏侯惇は手綱を引き、眉をひそめた。


「呂布だと。何ゆえに濮陽を」

「将軍の出陣を知り、留守を衝いたとのこと。輜重を奪い、城を荒らしております!」


 夏侯惇の眼が烈しく光る。


「畜生にも劣る者どもめ! 孟徳の城を汚されて黙っておれぬ。すぐに行くぞ!」


 韓浩が馬を寄せた。


「お待ちください。呂布の背後には陳宮がおります。あの男は油断なりません。急きすぎれば、敵の思う壺です」


 夏侯惇は振り返らずに応じる。


「策など踏み破るまでよ!」


 馬の蹄が砂を巻き上げた。濮陽の城壁が遠くに見え、旗が動き、兵たちの声が地を揺らす。呂布は城外に陣を構え、守りを固めている。夏侯惇はすぐに布陣を命じ、兵を二手に分けた。


「元嗣、左の丘を取れ。俺は正面から行く」

「承知しました」


 鼓が鳴り、矢が飛ぶ。戦は熾烈を極めたが、初陣の勢いは夏侯惇にあった。槍が閃き、馬が駆け、土煙の中で次第に呂布の軍は押されていく。


 やがて敵が城へと退くと、夏侯惇は叫んだ。


「追え!」


 その命を韓浩が制す。


「追えば深みにはまります。敵は退いたのではなく、誘っているのではありませぬか」

「狐め……だが逃がす手はない」


 夏侯惇は槍を下ろし、忌々しげに城門を見据える。


 その夜、呂布の使者が陣へ来た。衣はほつれ、血の跡が袖にこびりついている。汗で額に髪が貼りつき、声は掠れていた。


「呂将軍、降を願われておられます。兵を退き、城を明け渡すとのことです」


 夏侯惇は黙したまま、松明の下に立つ。戦に慣れた彼にも、その言葉は容易には飲み込めぬ。あの呂布が、あの陳宮が、ここまで早く膝を屈するだろうか。


 韓浩が進み出る。


「将軍、信じてはなりませぬ。降伏もまた陳宮の策でありましょう」


 夏侯惇はうなずいた。


「分かっておる。……しかし、降をはなから偽りと決めつければ、義は潰えよう」


 束の間、無言の時が流れる。韓浩が言葉を探す間に、夏侯惇が続ける。


「我らは孟徳の旗を掲げる軍だ。疑いのみで人を斬れば、それは賊と変わらん。濮陽には孟徳の民も兵もいる。彼らを救う道があるのであれば……行く。俺が確かめる」


 韓浩は口を閉ざし、拳を握った。その目に、将を止めきれぬ無念が宿る。


 夜明け前、夏侯惇は百騎を率いて城門に向かった。城は沈黙し、門の前では使者の言葉どおり、降兵の列が並び、みな一様に剣も槍も伏せている。彼らの髪は乱れ、頬は汚れ、その顔は疲れきっていた。


 馬を止める夏侯惇の脳裏に韓浩の言葉がよぎる。しかし、少なくとも目の前の兵の姿に偽りの色はない。もはや信じるしかない。


「門を開け!」


 声が響き、鎖が鳴った。門がゆっくりと開く。その瞬間、城内の旗が翻った。布には呂の字。呂布の旗であった。



  ×  ×  ×  



 すぐさま韓浩の陣に伝令が駆け込み、息も絶え絶えに叫ぶ。


「夏侯将軍が捕らえられました!」


 陣中の空気が凍った。誰もが言葉を失い、遠くの城を見つめている。夏侯惇の旗が見えぬ。空に翻るのは呂布の旗ばかりであった。ひとりの若い兵が立ち上がる。


「将軍を助けに行きましょう!」

「待て!」


 その声を、韓浩の掌が遮った。有無を言わせぬ鋭い声である。韓浩は一歩、二歩と前へ出た。


「敵は陳宮だ。策を見せて、我らの心を試している。ここで乱れを見せれば、夏侯将軍も濮陽の民も死ぬ」


 静寂の中で鎧の音が鳴り、誰もが言葉を呑んだ。韓浩は剣を鞘から抜き、刃先を見つめる。


「法を破れば軍は滅び、情に流されれば条理は死ぬ」


 その声は酷く乾いていた。


「どちらか選ばねばならぬというのであれば、国法のために涙を飲むことをわしは選ぶ」


 言い終えると同時に、韓浩は帷幕を出た。将兵たちはその背を追って外へ出ると、誰からともなく、対峙する濮陽の城壁へと顔を向ける。


 そのとき、城の上に人影が現れた。夏侯惇の鎧の一部を掲げ、敵兵が叫ぶ。


「この将を思うなら退け! 退けば命は取らぬ!」


 陣はにわかに色めき立った。


「退きましょう! 夏侯将軍の命には代えられませぬ!」

「黙れ!」


 雷のような一喝である。韓浩は顔を上げ、城の方を睨んだ。


「極悪人めらが。大将軍を人質に取り、生きのびられると思ったか。わしはご命令を受けて賊を討伐しておるのだ。どうして一将軍のために、賊を見逃すようなことがあろうか!」


 兵たちはみな、黙してその背を見つめている。韓浩は叫んだ。


「全軍、構え! 旗を上げろ!」


 その号令が伝わるや、鼓が鳴り響く。韓浩は城へ向けて槍を掲げた。


 鼓が轟き怒涛のように兵が押し寄せ、矢が空を裂き、城門を覆う。城壁の上では呂布軍が応戦し、油を注ぎ、炎を放った。されど韓浩は退かぬ。


「突け!」


 声が枯れ、胸が焼けた。煙と血の中で、韓浩は前に出る。刃が折れ、腕が裂けても、足は止まらなかった。門が轟音を立てて崩れ落ち、突入の声が上がる。混乱の渦の中、韓浩は将の姿を探す。


 夏侯惇を呼ぶ声は、容赦なく上がる鬨の声にかき消された。鬼気迫る勢いで城内を捜索し、いくつもの死体を踏み越えていく。血と煤の臭いが鼻を突く中、かすかな呻きを耳が捉えた。


 奥の室に後ろ手に縛られ、倒れたままの男の姿があった。捕らえられたときにいくらか怪我をしたのだろう。頭から血が流れ、半ば意識朦朧としている。韓浩はその傍に駆け寄り、縄を断ち切った。夏侯惇の目がゆるく開く。血の中で、彼は微かに笑った。


「来たのか」

「法を優先いたしましたので、お助けするのが後になりました。罰は、いかようにも」


 韓浩の声も掠れている。夏侯惇は首を振り、唇に血をにじませながら言った。


「お前は正しい」


 韓浩は答える。


「法を守れたのは、将軍が命を惜しまぬ方だと知っていたからです」

「俺の副官がお前でよかった」


 それきり二人は言葉を交わさなかった。外では呂布軍が勢いを取り戻し、城の奥から新たな鼓が鳴る。韓浩は夏侯惇を抱きかかえ、兵をまとめて退いた。濮陽の門は閉ざされる。



  ×  ×  ×  



 夜が明けたとき、濮陽はふたたび呂布の手に落ちていた。城壁の上には呂の旗が翻り、夏侯惇らの軍はやむなく南へ退く。夏侯惇は輿に乗せられ、韓浩がその脇を歩いた。民の家々は門を閉ざし、街の通りにはまだ戦の煙が漂っている。


 ふいに、夏侯惇が口を開いた。


「……済まなかった」

「なにがです」

「俺の浅慮で、民を救うどころか、多くの兵を死なせてしまった」

「将軍がいたから、みな、生きようとしたのです」

「命まで預けさせて、報いがこれではな」


 韓浩は首を振る。


「報いなら、あの背中で十分です。あの背を見て、みなが動いた」


 夏侯惇は小さく笑った。


「お前は普段厳しいくせに、時々俺に甘過ぎる」

「将軍が甘いからですよ」


 二人の苦い笑いが混じる。韓浩は主を見捨てず、法を曲げず、夏侯惇は情を捨てなかった。敗れてなお、二人の行いは後の軍律の礎となる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。