10 情将
鄄城の乱を鎮め、夏侯惇は馬を濮陽へと向けていた。兵を返す途の道は、まだ戦の気配を残している。静寂が、かえって耳に痛い。
行軍の途中、斥候が慌てた様子で駆けてくる。
「報です! 呂布軍、濮陽に侵入いたしました!」
夏侯惇は手綱を引き、眉をひそめた。
「呂布だと。何ゆえに濮陽を」
「将軍の出陣を知り、留守を衝いたとのこと。輜重を奪い、城を荒らしております!」
夏侯惇の眼が烈しく光る。
「畜生にも劣る者どもめ! 孟徳の城を汚されて黙っておれぬ。すぐに行くぞ!」
韓浩が馬を寄せた。
「お待ちください。呂布の背後には陳宮がおります。あの男は油断なりません。急きすぎれば、敵の思う壺です」
夏侯惇は振り返らずに応じる。
「策など踏み破るまでよ!」
馬の蹄が砂を巻き上げた。濮陽の城壁が遠くに見え、旗が動き、兵たちの声が地を揺らす。呂布は城外に陣を構え、守りを固めている。夏侯惇はすぐに布陣を命じ、兵を二手に分けた。
「元嗣、左の丘を取れ。俺は正面から行く」
「承知しました」
鼓が鳴り、矢が飛ぶ。戦は熾烈を極めたが、初陣の勢いは夏侯惇にあった。槍が閃き、馬が駆け、土煙の中で次第に呂布の軍は押されていく。
やがて敵が城へと退くと、夏侯惇は叫んだ。
「追え!」
その命を韓浩が制す。
「追えば深みにはまります。敵は退いたのではなく、誘っているのではありませぬか」
「狐め……だが逃がす手はない」
夏侯惇は槍を下ろし、忌々しげに城門を見据える。
その夜、呂布の使者が陣へ来た。衣はほつれ、血の跡が袖にこびりついている。汗で額に髪が貼りつき、声は掠れていた。
「呂将軍、降を願われておられます。兵を退き、城を明け渡すとのことです」
夏侯惇は黙したまま、松明の下に立つ。戦に慣れた彼にも、その言葉は容易には飲み込めぬ。あの呂布が、あの陳宮が、ここまで早く膝を屈するだろうか。
韓浩が進み出る。
「将軍、信じてはなりませぬ。降伏もまた陳宮の策でありましょう」
夏侯惇はうなずいた。
「分かっておる。……しかし、降をはなから偽りと決めつければ、義は潰えよう」
束の間、無言の時が流れる。韓浩が言葉を探す間に、夏侯惇が続ける。
「我らは孟徳の旗を掲げる軍だ。疑いのみで人を斬れば、それは賊と変わらん。濮陽には孟徳の民も兵もいる。彼らを救う道があるのであれば……行く。俺が確かめる」
韓浩は口を閉ざし、拳を握った。その目に、将を止めきれぬ無念が宿る。
夜明け前、夏侯惇は百騎を率いて城門に向かった。城は沈黙し、門の前では使者の言葉どおり、降兵の列が並び、みな一様に剣も槍も伏せている。彼らの髪は乱れ、頬は汚れ、その顔は疲れきっていた。
馬を止める夏侯惇の脳裏に韓浩の言葉がよぎる。しかし、少なくとも目の前の兵の姿に偽りの色はない。もはや信じるしかない。
「門を開け!」
声が響き、鎖が鳴った。門がゆっくりと開く。その瞬間、城内の旗が翻った。布には呂の字。呂布の旗であった。
× × ×
すぐさま韓浩の陣に伝令が駆け込み、息も絶え絶えに叫ぶ。
「夏侯将軍が捕らえられました!」
陣中の空気が凍った。誰もが言葉を失い、遠くの城を見つめている。夏侯惇の旗が見えぬ。空に翻るのは呂布の旗ばかりであった。ひとりの若い兵が立ち上がる。
「将軍を助けに行きましょう!」
「待て!」
その声を、韓浩の掌が遮った。有無を言わせぬ鋭い声である。韓浩は一歩、二歩と前へ出た。
「敵は陳宮だ。策を見せて、我らの心を試している。ここで乱れを見せれば、夏侯将軍も濮陽の民も死ぬ」
静寂の中で鎧の音が鳴り、誰もが言葉を呑んだ。韓浩は剣を鞘から抜き、刃先を見つめる。
「法を破れば軍は滅び、情に流されれば条理は死ぬ」
その声は酷く乾いていた。
「どちらか選ばねばならぬというのであれば、国法のために涙を飲むことをわしは選ぶ」
言い終えると同時に、韓浩は帷幕を出た。将兵たちはその背を追って外へ出ると、誰からともなく、対峙する濮陽の城壁へと顔を向ける。
そのとき、城の上に人影が現れた。夏侯惇の鎧の一部を掲げ、敵兵が叫ぶ。
「この将を思うなら退け! 退けば命は取らぬ!」
陣はにわかに色めき立った。
「退きましょう! 夏侯将軍の命には代えられませぬ!」
「黙れ!」
雷のような一喝である。韓浩は顔を上げ、城の方を睨んだ。
「極悪人めらが。大将軍を人質に取り、生きのびられると思ったか。わしはご命令を受けて賊を討伐しておるのだ。どうして一将軍のために、賊を見逃すようなことがあろうか!」
兵たちはみな、黙してその背を見つめている。韓浩は叫んだ。
「全軍、構え! 旗を上げろ!」
その号令が伝わるや、鼓が鳴り響く。韓浩は城へ向けて槍を掲げた。
鼓が轟き怒涛のように兵が押し寄せ、矢が空を裂き、城門を覆う。城壁の上では呂布軍が応戦し、油を注ぎ、炎を放った。されど韓浩は退かぬ。
「突け!」
声が枯れ、胸が焼けた。煙と血の中で、韓浩は前に出る。刃が折れ、腕が裂けても、足は止まらなかった。門が轟音を立てて崩れ落ち、突入の声が上がる。混乱の渦の中、韓浩は将の姿を探す。
夏侯惇を呼ぶ声は、容赦なく上がる鬨の声にかき消された。鬼気迫る勢いで城内を捜索し、いくつもの死体を踏み越えていく。血と煤の臭いが鼻を突く中、かすかな呻きを耳が捉えた。
奥の室に後ろ手に縛られ、倒れたままの男の姿があった。捕らえられたときにいくらか怪我をしたのだろう。頭から血が流れ、半ば意識朦朧としている。韓浩はその傍に駆け寄り、縄を断ち切った。夏侯惇の目がゆるく開く。血の中で、彼は微かに笑った。
「来たのか」
「法を優先いたしましたので、お助けするのが後になりました。罰は、いかようにも」
韓浩の声も掠れている。夏侯惇は首を振り、唇に血をにじませながら言った。
「お前は正しい」
韓浩は答える。
「法を守れたのは、将軍が命を惜しまぬ方だと知っていたからです」
「俺の副官がお前でよかった」
それきり二人は言葉を交わさなかった。外では呂布軍が勢いを取り戻し、城の奥から新たな鼓が鳴る。韓浩は夏侯惇を抱きかかえ、兵をまとめて退いた。濮陽の門は閉ざされる。
× × ×
夜が明けたとき、濮陽はふたたび呂布の手に落ちていた。城壁の上には呂の旗が翻り、夏侯惇らの軍はやむなく南へ退く。夏侯惇は輿に乗せられ、韓浩がその脇を歩いた。民の家々は門を閉ざし、街の通りにはまだ戦の煙が漂っている。
ふいに、夏侯惇が口を開いた。
「……済まなかった」
「なにがです」
「俺の浅慮で、民を救うどころか、多くの兵を死なせてしまった」
「将軍がいたから、みな、生きようとしたのです」
「命まで預けさせて、報いがこれではな」
韓浩は首を振る。
「報いなら、あの背中で十分です。あの背を見て、みなが動いた」
夏侯惇は小さく笑った。
「お前は普段厳しいくせに、時々俺に甘過ぎる」
「将軍が甘いからですよ」
二人の苦い笑いが混じる。韓浩は主を見捨てず、法を曲げず、夏侯惇は情を捨てなかった。敗れてなお、二人の行いは後の軍律の礎となる。




