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09 趨勢

 陶謙討伐の軍が南に去ったのち、兗州の地には不穏な気配が漂っていた。曹操は徐州にあり、その留守を鄄(けん)城の荀彧(じゅんいく)と程昱(ていいく)が預かっている。城には曹操の家族が住まい、昼夜を問わず厳重な見回りが行われていた。兵の数は少ないが、士気は高まっている。荀彧は書簡を繰り、程昱は地図を前に思案していた。静寂の内に、かすかな波がある。


 兗州北方の諸城では、張邈の旗が翻っていた。張邈はもとより曹操と並び立つ兗州の士であり、董卓討伐のときには共に剣を抜いた間柄である。義を尊び、人望も厚い。しかしその陣に陳宮が入り、王楷(おうかい)・許汜(きょし)らと語り合うようになると、様相が変わった。


「曹公は遠征中にございます。奉先殿を迎え入れ、共に主を欠いた兗州を治めれば、世の趨勢も変わりましょう」


 張邈は黙して陳宮の言葉を聞いた。遠い昔、共に義を誓った日のことが脳裏に過(よぎ)る。さりとて、義と世とは同じ道を歩まぬ。やがて張邈は陳宮の進言を受け入れ、呂布を兗州に迎える決断を下した。


 濮陽の空に新たな旗が立ったのは、その直後である。呂布は濮陽を拠点とし、張邈の兵とともに兗州へ進んだ。陳宮はその先鋒を担い、城ごとに書簡を送り、協力を呼びかける。その一巻が、鄄城の荀彧のもとに届いた。


 鄄城に現れた使者の名は劉翊(りゅうよく)という。吏が迎え入れ、劉翊は荀彧の前で拱手した。


「張孟卓殿よりの書でございます。呂将軍、曹使君に陶謙征伐の加勢のため参られました。速やかに兵糧を供出くださいませ」


 荀彧は封泥を指で確かめ、慎重に書簡を広げる。文面を一読すると、しばし無言のまま目を伏せた。傍らの程昱が、倉を確かめたのちに返書を出すと告げ、礼を尽くして丁重に劉翊を返す。


 使者の姿が見えなくなると、程昱が荀彧に問うた。


「いかに思われる」


 荀彧は穏やかに息を吐き、声を落とす。


「……呂布が曹公をお助けするとは、少々理に合いませんね。表に書かれた言葉と、内の意が異なるように思われます」


 程昱が眉を寄せた。荀彧は筆の先で札を軽く叩きながら続ける。


 「孟卓殿はすでに呂布と歩を同じくされたのでしょう。この書簡は、こちらの出方をうかがうためのものにございます」


 その言葉を聞き、程昱はわずかにうなずいた。外の気配はまだ穏やかである。しかし、門を開けば流れが変わる。荀彧は筆を置き、すぐに命を下した。


「城門を閉じよ。民の移動を禁じ、兵糧を倉に戻せ。敵はまだ遠いが、乱は近いと心得よ」


 命は次々と伝えられ、城中が動き出す。


 その夜、荀彧は油灯の下で書簡を認(したた)めた。宛先は東郡太守・夏侯惇である。


『兗州に変事あり。張邈、呂布を迎うる。濮陽に火の兆しあり。早々に来られよ』


 筆を止めると、墨の香が微かに立った。荀彧はそれを封じ、使者に託す。



  ×  ×  ×  



 夜明け前、夏侯惇は陣中で報を受けた。余程急いだのか、使者の顔には砂がついたままで、声もかすれている。


「張邈が呂布を迎えて裏切ったとのことです。鄄城に不穏の動きがあり、援軍を求めておられます」


 夏侯惇は言葉を失い、使者を凝視した。喉の奥から絞り出すような、苦い吐息が漏れる。


「あの孟卓殿が、か」


 百戦を潜り抜けてきた眼眸に、昏い色が過った。生死を誓い合った友の情すら、権謀術数の前にはこれほど容易く脆く崩れ去るものなのか。乱世の不条理に対する、呪詛に近い怒りに奥歯を噛み締める。裏切りへの激しい嫌悪が、夏侯惇の五臓六腑を熱く焦がした。


「情も義も、すべては夢幻か。ならば、俺がその目を覚まさせてやる!」


 そうして、すぐに馬を引かせるよう部下に命じ、その身に鎧を纏った。


「全軍に触れを出しますか」


 傍に控えていた副将の韓浩(かんこう)が問う。


「ゆるゆると用意する暇はない! 三百を選び、すぐに鄄城を救いに行くぞ!」


 言い終えるが早いか、夏侯惇は駆け出していた。韓浩はただちに応じ、身軽な精鋭たちを掻き集める。


 霧の中、馬の列が動き出した。旗が鳴り、蹄が土を跳ね上げる。夏侯惇は振り返らず、前を見ていた。曹操の家族に将兵、そして民。彼らを護らずして戦を語ることなどできぬ。視界を遮る濃霧を切り裂き、三百の騎は馬を疾駆させた。


 強行軍の末、三百の精鋭はついに鄄城へと辿り着く。城門は固く閉ざされ、厳戒態勢が敷かれていた。立ち込める土煙と、ただならぬ騎馬の接近に、城壁の上の兵たちがにわかに色めき立つ。夏侯惇は馬を止め、門兵に名を告げた。


「東郡太守、夏侯元譲。荀文若殿にお目通り願う」


 門が開き、兵が整列する。その規律の高さに、夏侯惇はわずかに笑みを見せた。城内が恐慌の淵にありながら、これほど統制を保ち得るのは、背を支えるあの男の手腕に他ならぬ。兵らが左右に割れて道を作ると、端正な容貌の文官が衣の裾を揺らし、廊の奥から現れた。荀彧である。


「元譲殿、一刻を争う状況です。内応の動きがあるのです」

「外には呂布、内には裏切り者か。燻っている火種は、手遅れにならんうちに俺が踏み消す」

「お任せしてもよろしいですか。私は民の動揺を抑えます」

「おう。俺は不義理を働く奴らに筋を通させてくる」


 そう告げて、夏侯惇は剣の柄に手を置く。



  ×  ×  ×  



 夜が深まると、城のあちこちで松明の火が焚かれた。荀彧の命により、兵が密かに巡回を始めている。物音を立てぬように歩を進め、戸口を確かめ、倉の封印を照らした。今宵は常にも増して緊張がある。


 夏侯惇は廊をゆっくりと歩いた。足音を忍ばせ、柱の裏に潜む兵の姿を探す。


「気を緩めるなよ。音を立てれば敵に知られるぞ」


 気心の知れた仲間への言葉のようだった。長い沈黙ののち、彼の歩く先で灯がひとつ消える。やがてその闇の中から、報告の声が上がった。


「将軍! 内通者を捕らえました!」


 夏侯惇はうなずき、言葉少なに答える。


「連れてこい。ここで言い分を聞こう」


 しばらくして、縄をかけられた男たちが引き立てられてきた。顔は青ざめ、衣は乱れている。ひとりが腰が抜けたようによろめきながら膝を折り、泣き声をあげた。


「命ばかりは……どうかお助けを!」


 夏侯惇は黙ってその男を見下ろす。表情は動かず、手の中の剣も鞘から出ぬ。


 しばらくして、ようやく口を開いた。


「誰の命で動いた」

「張孟卓様にございます。曹公が遠征で留守と聞き……」

「では、張邈に従ったわけだな」

「そ、そうでございます。城の者を守るために、私は已む無く」


 夏侯惇は目を伏せて言った。


「守る為か。ならば余計に従う先を間違えたな」


 松明の火が男の顔を照らす。夏侯惇は剣を抜き、苦い顔で言った。


「裏切りは要らぬ」


 剣を抜き放つ音と同時に、男の悲鳴が途切れる。残る者たちが震え、声もなく首を垂れた。夏侯惇は長く息を吐き、剣を収める。


「法があるから人は生き、情けがあるから法が立つ。……どちらを欠いても城は持たん。難しいことだ」


 程昱が後方に現れ、その言葉を聞いてうなずいた。


「人を救うには、まず条理を立てねばなりませんな」

「仲徳殿も文若も理で国を保っているが、俺はこの腕で守らねばならん。そういうものだろう」


 言い終えて、夏侯惇は中庭へと歩を進める。そこには、すでに括り上げられた残りの内応の徒が引き据えられていた。夏侯惇は無言のまま、背後に控える兵らへ顎で指図する。


 夜半を過ぎて、処断は終わった。松明の炎が揺らめき、血を照らす。


「情けは捨てられぬが、甘さは殺さねばならん」


 夏侯惇は井戸の傍に立ち、使い終えた松明をそこへ投げ入れた。炎が消え、中庭に闇が戻る。



  ×  ×  ×  



 翌朝、城は平穏を取り戻していた。城門の東の空には、暁天の陽が差している。街道の先では、避難していた民が次第に戻り始めていた。夏侯惇は城壁の上に立ち、遠く濮陽の方角を見る。土煙が立ちのぼり、呂布の旗が遠く霞んでいた。手にしていた書簡を巻き取りながら、荀彧が隣に立つ。


「鄄城・東阿・范の三城の他はみな降ったそうです」


 夏侯惇はうなずき、目を眇めた。


「損失は痛いが、三城だけでも守れたのであれば、まずはそれでよしとせねばならんな。……陳宮め。敵に回ればこれほどに厄介な者であったとは」


 風が二人の衣を揺らした。遠くから鼓の音が聞こえ、城の中では人々が戸を開け始めている。夏侯惇は無意識に剣の柄を撫でた。


 戦はまだ終わらぬが、兗州の命脈はここに残っている。


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