7月 ルビー ~余命の使い方
医師から余命を告げられた日、俺が最初に考えたのは、残された時間で何ができるかということだった。
仕事のことでも、貯金のことでもない。
妻と、どこへ行こうか。
それだけだった。
「旅行に行かないか」
帰宅してからそう告げると、妻は夕食の支度をする手を止めた。
「旅行? 急にどうしたの」
「前から欲しかったんだよ。キャンピングカー」
「えっ?」
「買おうと思うんだ。二人で日本中を回ろう」
妻はしばらく俺の顔を見つめ、それから困ったように笑った。
「あなた、昔からそういうところあるよね。思いついたら、すぐ行動するんだから」
「嫌か?」
「ううん。行きたい」
妻はそう言って、もう一度笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
まだ、やれることがある。
残された時間がどれほどなのか、正確にはわからない。
でも、病室のベッドで終わりを待つより好きな人と知らない景色を見ていたかった。
それから俺たちは、小さなキャンピングカーで旅に出た。
朝早くに出発し、気に入った景色があれば車を止める。海沿いの道を走り、道の駅で買った弁当を食べ、予定になかった町で一晩を過ごす。
「ねえ、あそこに行ってみない?」
妻が指さした先には、海へ続く細い道があった。
「いいね。行ってみよう」
そんな調子で、行き先は何度も変わった。
若い頃、旅行といえば計画を立て、時間を決め、予定どおりに回るものだと思っていた。
今は違う。
目的地に着かなくてもいい。
予定どおりに進まなくてもいい。
妻が隣で笑っている。
それだけで、十分だった。
旅を続けるうちに、妻は俺の体力が落ちていることに気づいていたと思う。
少し歩いただけで息が切れる。以前なら何でもなかった坂道で、足を止めることも増えた。
妻は、何も聞かなかった。
俺も何も言わなかった。
お互いにわかっていたのかもしれない。
今は二人の目の前にある景色を大切にした。
ある日、俺たちは若い頃に訪れた海辺の町へ向かった。
そこは、俺が妻にプロポーズした場所だった。
あの日も、海は穏やかだった。
緊張して、用意していた言葉を何度も頭の中で繰り返した。
いざ伝えようとしたら、何を言うつもりだったのか、すっかり忘れてしまった。
結局、俺はひどく不格好な言葉で結婚を申し込んだ。
妻は笑いながら、うなずいてくれた。
「覚えてる?」
「もちろん。あなた、ものすごく緊張してたもの」
「仕方ないだろ。人生で一番大事なことだったんだから」
「今も?」
「今もだよ」
妻は驚いたように俺を見た。
俺はポケットから小さな箱を取り出した。
「これ、受け取ってくれるか」
箱の中には、指輪が入っていた。
深い赤色の石が、夕日を受けて静かに輝いている。
「どうしたの、これ……」
「もう一度、君に渡したかったんだ」
妻は指輪を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
「似合うかな」
「似合うよ、とても」
そう言って妻は指輪を受け取った。
俺は、彼女の手を握った。
「結婚してくれて、ありがとう」
妻はうつむいた。
その目に涙が浮かんでいるのを、俺は見ないふりをした。
旅を終えた頃、俺の体はもう限界に近づいていた。
病院へ戻り、そのまま入院することになった。
窓の外には、季節の移り変わりを知らせる木々が見えた。
妻は毎日、仕事の合間を縫って顔を出してくれた。
旅の話、道の駅で食べたもの、道に迷ったこと。
夜中に雨が降り、車の屋根を叩く音がうるさくて眠れなかったこと。
思い出すたびに、二人で笑った。
数日後の夕方、俺は妻の手を握った。
もう、指に力を込めることさえ難しい。
「楽しかった……な」
妻は俺の手を両手で包んだ。
「うん。本当に楽しかった」
その声を聞いて、俺は安心した。
もっと一緒にいたかった。
まだ見せたい景色があった。
連れて行きたい場所もあった。
これから先、二人で過ごすはずだった時間を思うと、悔しくないと言えば嘘になる。
最後に思い浮かんだのは、旅先で笑う妻の顔だった。
俺はゆっくりと目を閉じた。
それが、妻と交わした最後の言葉になった。
夫が亡くなってから、しばらくの間、私はキャンピングカーを手放せずにいた。
車内には、二人で旅した日々が残っていた。
座席の隙間から出てきたレシート。棚に置き忘れた小さな菓子袋。夫が使っていたマグカップ。
どれも、捨てることができなかった。
ある日、車内を片づけていると、助手席の収納棚の奥に封筒があるのを見つけた。
表には、私の名前が書かれていた。
夫の字。
震える手で封を切る。
『君へ
この手紙を読んでいるということは、俺はもう君の隣にいないんだろうな。
ごめんな。
本当は、もっと一緒にいたかった。
君と出会って、結婚して、二人で暮らしてきた。振り返れば、特別なことばかりじゃなかった。仕事に追われた日もあれば、くだらないことで喧嘩した日もあった。
でも、俺にとっては、その全部が大切な時間だった。
今回の旅も、本当に楽しかった。
海を見て、知らない町を歩いて、同じものを食べて、同じ景色を眺めた。
そんな当たり前のことが、こんなにも幸せだったんだな。
君と一緒になれて、俺は幸運だった。
もし、もう一度生まれ変われるなら、俺は必ず君を見つける。
そして、もう一度プロポーズするよ。
あの日、君に結婚を申し込んだ、あの海辺で。
今度も赤い石の指輪を用意して。
だから、そのときも俺を選んでくれたら嬉しい。
共に過ごしてくれた時間をありがとう。
今までありがとう』
最後の一行を読み終えたとき、私は声を上げて泣いた。
夫がいなくなった悲しみは、消えることなどない。
もう隣に座ってくれる人はいない。旅先で道を間違えても、笑いながら地図を広げてくれる人はいない。
でも、夫と過ごした時間まで失われたわけではなかった。
私は左手の薬指に目を落とした。
そこには、あの海辺で夫から受け取ったルビーの指輪がある。
ルビーに込められた言葉を思い出す。
夫は、残された時間を嘆くだけではなく、私と生きることを選んでくれた。
その旅の一日一日が、私たちの人生になった。
「次は、私があなたを見つける番ね」
私は手紙を胸に抱き、そうつぶやいた。
いつかまた、あの海辺に行こう。私の記憶にはあなたが居るのだから。
あなたと出会えて、幸せだったと記憶のあなたに伝えよう。
キャンピングカーの窓から、あの穏やかな海が見えた気がした。
私はもう一度、ルビーの指輪をそっと握りしめた。
あとがき
ルビーの石言葉には、
「情熱」「愛情」「生命力」
人は、いつか必ず大切な人との別れを迎えます。
それがいつなのか、誰にもわかりません。
私たちは明日が来ることを当たり前だと思い、伝えられる言葉を胸の中にしまい込んでしまうのかもしれません。
「ありがとう」
「一緒にいてくれて幸せだった」 「あなたと出会えてよかった」
そんな言葉は、特別な日に伝えるものではないのでしょう。
何気ない食事の時間も、二人で眺めた景色も、帰り道に交わした会話も、振り返ればかけがえのない思い出になります。
この物語の夫は、残された時間を旅に使いました。
遠くの景色を見たかったからだけではありません。愛する人と、もう少し一緒に生きたかったからです。
もし、生まれ変わりというものがあるのなら、もう一度同じ人と出会い、同じ人を愛することができるのでしょうか。
その答えは、誰にもわかりません。
もう一度プロポーズしたいと思える人に出会えたこと。
それだけで、人生は幸せだったと言えるのかもしれません。
ルビーの赤は、燃えるような情熱の色です。
けれど、この物語に込めたかったのは、燃え上がる恋の色ではありません。
長い年月を共に過ごし、別れの時が近づいてもなお、変わらず相手を思い続ける色として作成しました。
あなたには、いつか伝えたい言葉がありますか。
そして、その言葉を伝えられる相手が、今そばにいるでしょうか。
月 ルビー
7余命の使い方
医師から余命を告げられた日、俺が最初に考えたのは、残された時間で何ができるかということだった。
仕事のことでも、貯金のことでもない。
妻と、どこへ行こうか。
それだけだった。
「旅行に行かないか」
帰宅してからそう告げると、妻は夕食の支度をする手を止めた。
「旅行? 急にどうしたの」
「前から欲しかったんだよ。キャンピングカー」
「えっ?」
「買おうと思うんだ。二人で日本中を回ろう」
妻はしばらく俺の顔を見つめ、それから困ったように笑った。
「あなた、昔からそういうところあるよね。思いついたら、すぐ行動するんだから」
「嫌か?」
「ううん。行きたい」
妻はそう言って、もう一度笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
まだ、やれることがある。
残された時間がどれほどなのか、正確にはわからない。
でも、病室のベッドで終わりを待つより好きな人と知らない景色を見ていたかった。
それから俺たちは、小さなキャンピングカーで旅に出た。
朝早くに出発し、気に入った景色があれば車を止める。海沿いの道を走り、道の駅で買った弁当を食べ、予定になかった町で一晩を過ごす。
「ねえ、あそこに行ってみない?」
妻が指さした先には、海へ続く細い道があった。
「いいね。行ってみよう」
そんな調子で、行き先は何度も変わった。
若い頃、旅行といえば計画を立て、時間を決め、予定どおりに回るものだと思っていた。
今は違う。
目的地に着かなくてもいい。
予定どおりに進まなくてもいい。
妻が隣で笑っている。
それだけで、十分だった。
旅を続けるうちに、妻は俺の体力が落ちていることに気づいていたと思う。
少し歩いただけで息が切れる。以前なら何でもなかった坂道で、足を止めることも増えた。
妻は、何も聞かなかった。
俺も何も言わなかった。
お互いにわかっていたのかもしれない。
今は二人の目の前にある景色を大切にした。
ある日、俺たちは若い頃に訪れた海辺の町へ向かった。
そこは、俺が妻にプロポーズした場所だった。
あの日も、海は穏やかだった。
緊張して、用意していた言葉を何度も頭の中で繰り返した。
いざ伝えようとしたら、何を言うつもりだったのか、すっかり忘れてしまった。
結局、俺はひどく不格好な言葉で結婚を申し込んだ。
妻は笑いながら、うなずいてくれた。
「覚えてる?」
「もちろん。あなた、ものすごく緊張してたもの」
「仕方ないだろ。人生で一番大事なことだったんだから」
「今も?」
「今もだよ」
妻は驚いたように俺を見た。
俺はポケットから小さな箱を取り出した。
「これ、受け取ってくれるか」
箱の中には、指輪が入っていた。
深い赤色の石が、夕日を受けて静かに輝いている。
「どうしたの、これ……」
「もう一度、君に渡したかったんだ」
妻は指輪を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
「似合うかな」
「似合うよ、とても」
そう言って妻は指輪を受け取った。
俺は、彼女の手を握った。
「結婚してくれて、ありがとう」
妻はうつむいた。
その目に涙が浮かんでいるのを、俺は見ないふりをした。
旅を終えた頃、俺の体はもう限界に近づいていた。
病院へ戻り、そのまま入院することになった。
窓の外には、季節の移り変わりを知らせる木々が見えた。
妻は毎日、仕事の合間を縫って顔を出してくれた。
旅の話、道の駅で食べたもの、道に迷ったこと。
夜中に雨が降り、車の屋根を叩く音がうるさくて眠れなかったこと。
思い出すたびに、二人で笑った。
数日後の夕方、俺は妻の手を握った。
もう、指に力を込めることさえ難しい。
「楽しかった……な」
妻は俺の手を両手で包んだ。
「うん。本当に楽しかった」
その声を聞いて、俺は安心した。
もっと一緒にいたかった。
まだ見せたい景色があった。
連れて行きたい場所もあった。
これから先、二人で過ごすはずだった時間を思うと、悔しくないと言えば嘘になる。
最後に思い浮かんだのは、旅先で笑う妻の顔だった。
俺はゆっくりと目を閉じた。
それが、妻と交わした最後の言葉になった。
夫が亡くなってから、しばらくの間、私はキャンピングカーを手放せずにいた。
車内には、二人で旅した日々が残っていた。
座席の隙間から出てきたレシート。棚に置き忘れた小さな菓子袋。夫が使っていたマグカップ。
どれも、捨てることができなかった。
ある日、車内を片づけていると、助手席の収納棚の奥に封筒があるのを見つけた。
表には、私の名前が書かれていた。
夫の字。
震える手で封を切る。
『君へ
この手紙を読んでいるということは、俺はもう君の隣にいないんだろうな。
ごめんな。
本当は、もっと一緒にいたかった。
君と出会って、結婚して、二人で暮らしてきた。振り返れば、特別なことばかりじゃなかった。仕事に追われた日もあれば、くだらないことで喧嘩した日もあった。
でも、俺にとっては、その全部が大切な時間だった。
今回の旅も、本当に楽しかった。
海を見て、知らない町を歩いて、同じものを食べて、同じ景色を眺めた。
そんな当たり前のことが、こんなにも幸せだったんだな。
君と一緒になれて、俺は幸運だった。
もし、もう一度生まれ変われるなら、俺は必ず君を見つける。
そして、もう一度プロポーズするよ。
あの日、君に結婚を申し込んだ、あの海辺で。
今度も赤い石の指輪を用意して。
だから、そのときも俺を選んでくれたら嬉しい。
共に過ごしてくれた時間をありがとう。
今までありがとう』
最後の一行を読み終えたとき、私は声を上げて泣いた。
夫がいなくなった悲しみは、消えることなどない。
もう隣に座ってくれる人はいない。旅先で道を間違えても、笑いながら地図を広げてくれる人はいない。
でも、夫と過ごした時間まで失われたわけではなかった。
私は左手の薬指に目を落とした。
そこには、あの海辺で夫から受け取ったルビーの指輪がある。
ルビーに込められた言葉を思い出す。
夫は、残された時間を嘆くだけではなく、私と生きることを選んでくれた。
その旅の一日一日が、私たちの人生になった。
「次は、私があなたを見つける番ね」
私は手紙を胸に抱き、そうつぶやいた。
いつかまた、あの海辺に行こう。私の記憶にはあなたが居るのだから。
あなたと出会えて、幸せだったと記憶のあなたに伝えよう。
キャンピングカーの窓から、あの穏やかな海が見えた気がした。
私はもう一度、ルビーの指輪をそっと握りしめた。
あとがき
ルビーの石言葉には、
「情熱」「愛情」「生命力」
人は、いつか必ず大切な人との別れを迎えます。
それがいつなのか、誰にもわかりません。
私たちは明日が来ることを当たり前だと思い、伝えられる言葉を胸の中にしまい込んでしまうのかもしれません。
「ありがとう」
「一緒にいてくれて幸せだった」 「あなたと出会えてよかった」
そんな言葉は、特別な日に伝えるものではないのでしょう。
何気ない食事の時間も、二人で眺めた景色も、帰り道に交わした会話も、振り返ればかけがえのない思い出になります。
この物語の夫は、残された時間を旅に使いました。
遠くの景色を見たかったからだけではありません。愛する人と、もう少し一緒に生きたかったからです。
もし、生まれ変わりというものがあるのなら、もう一度同じ人と出会い、同じ人を愛することができるのでしょうか。
その答えは、誰にもわかりません。
もう一度プロポーズしたいと思える人に出会えたこと。
それだけで、人生は幸せだったと言えるのかもしれません。
ルビーの赤は、燃えるような情熱の色です。
けれど、この物語に込めたかったのは、燃え上がる恋の色ではありません。
長い年月を共に過ごし、別れの時が近づいてもなお、変わらず相手を思い続ける色として作成しました。
あなたには、いつか伝えたい言葉がありますか。
そして、その言葉を伝えられる相手が、今そばにいるでしょうか。




