5月 エメラルド ~幸福の代償
結婚して三年目、私たち夫婦は念願の一軒家を購入するため、懸命に働いていた。会社員の夫とパート勤めの私。贅沢のできる暮らしではなかったが、少しずつ貯めてきたお金は、ようやく頭金の目標額に届こうとしていた。
小さな庭に好きな花々を植え、休日には二人でガーデニングを楽しむ。そんな暮らしを思い描きながら、私たちは毎晩のように新居の話で盛り上がっていた。
いつか夢が叶うと信じていたし、夫と二人なら、どんな苦労も乗り越えられるはずだ。
パート帰りに立ち寄ったスーパーの前で、私はベンチに腰を下ろして休んでいた。
年末の買い物客で賑わう店先には宝くじ売り場があり何人もの人が列をつくっては、年末ジャンボ宝くじを購入している。
「当たった人の人生って、幸せなんだろうなあ」
何気なく呟いたとき、隣から男の声がした。
「その人生を過ごしてみるか?」
驚いて振り向くと、見知らぬ中年の男が座っていた。先ほどまで誰もいなかったはずなのに、いつの間に現れたのだろう。
「……え?」
「億万長者の暮らしだ。見てみたいか?」
男は私の顔をじっと見つめていた。気味が悪いと思ったものの、私はなぜか、笑いながら答えていた。
「見られるものなら見てみたいですね。億万長者の夢を」
男はしばらく私を眺めたあと、何も言わずに立ち上がり、人混みの中へ消えていった。
妙な人だったと思いながらも、夕飯の買い物を済ませる頃には、私はすっかりその出来事を忘れていた。今夜は夫と鍋を食べる約束をしていたので、食材を買い揃えて帰宅し、慌ただしく夕飯の支度を始めた。
「ただいま」
元気よく帰ってきた夫に、
「おかえりなさい、お仕事お疲れさま」
と声をかける。そんな何気ないやり取りに、私は幸せを感じていた。
鍋を囲みながら、いつものように新居の話をしていると、夫が思い出したように言った。
「今日、宝くじを買ったんだ。もちろん僕のお小遣いからだから、五枚だけだけどね」
「当たるわけないじゃない。そんなものを買うくらいなら、おいしいケーキでも買ってきてくれたほうがよかったのに」
私が呆れたように言うと、夫は笑いながら宝くじをテーブルに置いた。
「まあまあ、当選日までは夢が見られるんだから」
その言葉に私も笑い、宝くじのことはそれきり忘れてしまった。
大晦日は年越しそばを食べて過ごし、翌朝はゆっくり起きるつもりだった。初詣も、人出が落ち着いてから出かければいい。ところが元日の朝、新聞を読んでいた夫が、突然リビングで大声を上げた。
「うそだろ……! ありえない!」
「朝からどうしたの? お正月早々、騒がしいわね」
「た、宝くじが当たってる!」
夫の顔は青ざめ、宝くじを持つ手は震えていた。私も新聞の当選番号と宝くじを何度も見比べたが、数字は間違いなく一致していた。
前後賞を合わせて三億円。
夢にも思わなかった金額に、私はしばらく声を出すことができなかった。
私たちの生活は、大きく変わり始めた。
夫は会社を辞め、私もパートを辞めた。念願だった一軒家を購入し、家具を揃え、庭には季節ごとの花々を植えた。朝は小鳥の声を聞きながら目を覚まし、昼間は庭の手入れを楽しみ、夜には夫と食卓を囲む。長い間、二人で夢に描いていた暮らしが、ようやく現実になったのだ。
ある日、夫が小さな箱を差し出した。
「これ、君に似合うと思って」
蓋を開けると、大きなエメラルドの指輪が入っていた。深い緑色の石が光を受けて輝いている。
「今まで翡翠の指輪で我慢させてごめんよ。これからは、好きなものを買ってあげられるからね」
「そんなこと気にしていなかったのに。でも、ありがとう。あなたが私のために選んでくれたことが嬉しいわ」
私は指輪を左手にはめ、夫に笑いかけた。夫も満足そうに微笑んでいた。
それから私たちは車を買い、全国の温泉地を巡るようになった。お金を気にせず旅行を楽しみ、欲しいものがあれば買う。
庭の花々は季節が変わるたびに違う色を見せ、家の中には穏やかな時間が流れていた。
私は毎日、幸せだった。
少なくとも、夫が夜の街へ出かけるようになるまでは。
最初は友人との付き合いだと言っていた夫だったが、次第に帰宅する時間が遅くなり、やがて朝帰りが当たり前になっていく。
私が心配して声をかけても、夫は面倒そうに顔をしかめるだけだった。
「ねえ、最近、飲みすぎじゃない?」
「いいだろ。俺の金なんだから」
「でも、身体のこともあるし……」
「俺が買った宝くじが当たったんだぞ。家だって車だって、俺の金で買ったんだ。もっと感謝してくれよ」
夫はそう言い捨てると、玄関先で眠り込んでしまった。私は何も言えず、せめて風邪をひかないようにと毛布をかけたが、夫が目を覚ますことはなかった。
夫が朝になって帰ることが増えた頃から、私はワイシャツに漂う甘い香水の匂いが気になり始めた。
「あなた、最近、女の人と一緒にいるの?」
「うるさいな。店にいる女の香水が移っただけだよ」
夫は私の顔も見ずに答えた。以前なら、そんな一言で私を安心させようと笑ってくれたはずなのに、今では会話を続けることさえ嫌がるようになっていた。
いつの間にか、二人で庭に出ることもなくなっていた。
私が手入れをしていた花々は水をもらえず、少しずつ葉を垂らし始めていたが、夫はそれに気づいても何も言わなかった。
ある日、買い物から帰宅すると夫がリビングでスマートフォンを握りしめ、青ざめた顔で震えていた。
「どうしたの?」
「金が……金がないんだ」
「お金? 当選金のこと?」
夫はその場に崩れ落ち、泣きながら話し始めた。
酒を飲み歩くうちに金銭感覚が麻痺し、残った当選金をFXに投じていたのだ。損失を取り戻そうとさらに資金をつぎ込み、気づいたときには三億円の大半が消え、借金まで抱えていた。
家を売却し古いアパートへ引っ越すことになった。
夫は仕事を探したが、なかなか採用されず、生活費を稼ぐために私が再びパートに出ることになる。
夢に描いていた庭も、花々も、何もかも失ってしまった。
でも夫と二人で暮らせるなら、もう一度やり直せるかもしれないと思っていた。
お金がなくても、あの頃のように笑い合える日が戻ってくるのなら。
ただ、それでよかった。
だが、夫の身体はすでに酒に蝕まれていた。
仕事から帰ると、夫が玄関先で倒れていた。
慌てて救急車を呼び病院へ運んでもらったが、医師から告げられたのは肝臓に深刻な異常があるという診断だった。
「厳しい状態です。長くはないかもしれません」
病室のベッドで眠る夫を見つめながら、私は声を殺して泣いた。
頬は痩せ、唇は乾き、かつて私を笑顔にしてくれた夫の面影は薄れていた。
左手には、あのエメラルドの指輪があった。
涙が頬を伝い、緑色の石を濡らしていく。
「こんなことなら、宝くじなんて当たらなければよかった……」
私は夫の手を握りしめた。
「お金も、家も、何もいらない。こんな指輪だっていらないから、お願い。元気だった頃のあなたに戻ってよ……」
何度も呼びかけたが夫は目を覚まさなかった。
私は泣き疲れ、夫のそばで眠ってしまう。
目を開けると、そこは病室ではなく年末のスーパーの前だった。
私はベンチに座っていた。
買い物袋も左手のエメラルドの指輪もない。
代わりに、結婚したときから大切にしていた翡翠の指輪はいつものように指にはまっていた。
「お目覚めですか?」
隣から声がして、私は息を呑んだ。あの中年の男が、何事もなかったかのように座っている。
「ここは……。今までのことは、全部夢だったの?」
「夢、と言えば夢でしょうね。あなたが望んだ人生を、少しだけ見ていただいたのですから」
「夫は? 夫はどうなったの?」
「何も変わりありません。いつものように、あなたの帰りを待っているでしょう」
胸をなで下ろした、よかった。
本当に夢でよかった、夫が元気でまた二人で暮らせる。
これ以上の幸福など私には必要ない。
ところが男は、私の左手に目を落とした。
「ただし、代償はいただきます」
「代償?」
「その指輪です」
「嫌よ! これは結婚したときから大切にしてきたものなの!」
「あなたは幸福な人生を望んだ。私はその願いを叶えた。何も不思議なことではありません」
「でも、あれは夢だったんでしょう?」
男は答えず、ただ手を差し出した。
翡翠の指輪が急に氷のように冷たくなった。私は慌てて左手を握りしめたが、指輪はするりと抜け落ち、男の掌に収まった。
「待って! 返して!」
男は指輪を眺め、満足そうに微笑んだ。
「幸福というものは、手に入れたときには、その価値がわからないものですからね」
男は立ち上がると、周囲の喧騒が戻ってきた。宝くじ売り場には相変わらず人が並び、誰も私たちのことなど気に留めていない。
男の姿は、いつの間にか人混みに紛れて消えていた。
私は全身に汗をかきながら、急いで家へ走る。
夫の帰りを待つ間、何度も左手を見たが指輪はなくなっている。
夢から覚めたのだから、もう何も起こらないはずだ。そう自分に言い聞かせていた。
やがて玄関の扉が開き夫の声で、
「ただいま」
いつもどおりの声だった。
私は駆け寄り、元気そうな姿に胸の奥から安堵が込み上げてきた。
「どうしたの? そんなに驚いた顔をして」
「ううん……何でもないの。本当に、おかえりなさい」
夫は不思議そうに笑い、手に持っていた小さな箱を差し出した。
「これ、君にプレゼント。いつも家のことを頑張ってくれているからね」
「ありがとう。開けてもいい?」
「もちろん」
箱を開けた。
中を覗き込んだ瞬間、思わず息を呑んだ。そこには何も入っていなかった。
「……あれ?」
箱を傾けると、カタカタと小さな音がした。確かに何かが入っている。でもどこから覗き込んでも、箱の底には何も見えなかった。
「どうしたの?」
「何でもないわ。ちょっと変だなと思って」
蓋を閉じ、夫に笑いかけた。
せっかくの贈り物なのだから、気のせいだと思いたかった。
夜、夫が眠りについたあとも、箱からはかすかな音が聞こえる。
カタ……カタ……。
私は箱を引き出しにしまい寝室を出る。扉を閉めても、階下へ降りても、耳の奥で何かが揺れ続けている。
翌朝、箱は食卓の上に置かれていた。昨夜、確かに引き出しにしまったはずなのに。
「あれ?空っぽじゃないか」
夫は不思議そうに首を傾げ、箱を私に差し出す。
「どこかに落としたのかな。せっかく君に買ったのに」
私は箱を受け取らなかった。
夫には見えないのだ。
箱の底で、何かがゆっくりと揺れている。
朝の光を受け、透明な緑色が一瞬だけ浮かび上がった。
深い緑。
その奥には、光を吸い込むような暗さがあった。
私は知っていた。
あれは、夢の中で夫が私に贈った指輪だった。
幸福を手に入れた代わりに、すべてを失った人生。夢の最後に、私の大切な翡翠の指輪を奪っていったもの。
あの中年の男は代償を受け取ったと言った。
なぜ、今度はエメラルドなのだろう。
私は後ずさった。
逃げなければ、箱を捨てて、家を出て、どこか遠くへ行けばいい。
なのに足が動かない。
箱の中から、また音がした。
カタ、カタ……。
夫が箱を閉じると音が止まった。
ほっとしたのも束の間、今度は私の左手の薬指が冷えはじめる。
恐る恐る左手を見るが、指には何もはまっていない。
薬指の付け根だけが酷く冷たい。
私は声も出せず、夫の顔を見つめる。
夫は何も気づかず、空になった箱を片づけている。
閉じられた箱が、ひとりでにわずかに揺れた。
もう一度、左手を握りしめた。
あの男から逃れたのではなかった。代償を払ったことで、夢が終わったのでもない。
深い緑の石は、今も私のすぐそばにある。
どこへ逃げても、指輪を捨てても、私を見つけ出す。
そしていつか私が幸福を願う瞬間を、静かに待っているのだ。
あとがき
エメラルドの石言葉は、
「幸福」「希望」「愛」
幼少期に母の大事な宝石箱を開き眺めるのが楽しかった私は、一つの指輪から目が離せなかった。
緑の石は透き通った緑の石なのに中央に向かって深く深く漆黒のように深い緑の石。
この宝石を眺めながら、怖いなあ。
綺麗なのに怖い……。
目が離せない私は、石に魅了されていたのでょう。
母の宝石は姉に手渡されつつも、あの魅了してやまない石だけは私が欲しいと伝えると、
「昔からそんな指輪は持ってない」と言う。
石に魅了された私は今もあの石を探している。




