第九話
「……え? ……嘘、でしょ……?」
手にした重箱を落としそうになりながら、ケイは目を見開いた。
月光に照らし出された漆黒の官服。その襟元に佇む顔立ちは、冷酷無比な筆頭執政官「黎」などではなく、三年前に下町の『桂花亭』で寂しげに笑っていたあの青年——ジンその人だった。
三年前の彼よりも更に背は伸び、顔立ちは精悍さが増していてるジンの姿が目の前にある。
「……ケイ……!?」
男の黒い瞳が大きく見開かれ、氷のように冷ややかだった表情が一瞬で崩れ去る。
「なぜ君が……ここに……? どうして後宮にいるんだ……!?」
狼狽するジンの姿に、ケイの脳内でこれまで集めたパズルのピースが一気に組み合わさっていく。
(皇帝最側近……筆頭執政官……黎……ジン……って! 偽名!?)
「『なぜ』じゃありませんよ、ジンさん!『なぜ』ははこっちのセリフです。……あ、『黎』執政官様と呼んだほうがいいの!?」
ケイは憤慨したように腰に手を当て、一歩詰め寄った。
「金木犀が咲く頃にまた会いに行くって約束しておきながら、待てど暮らせど来ないじゃないですか! 街の流通は乱れるし、後宮の揉め事のせいで王都のみんなまで困ってるし……! ジンさんが来られないのは後宮の混乱のせいだと思って、私が直接乗り込んでトラブルを解決しに来たんです!」
「……私に、会うために……?」
ぽつりと漏らしたジンの声がかすかに震える。
「当たり前でしょう! 『待っていてほしい』なんて言われましたけど、私は待っているだけの女じゃありません! 待つのは性に合わないから。会うために自分が会える環境を作らなきゃって!」
ケイは抱えてきた重箱を側に石椅子に置き、蓋を勢いよく開けてみせた。
そこから立ち上ったのは、かつてふたりが出会った夜と同じ、甘く温かな金木犀の香気と、丁寧に炊き上げられた熱々の養生粥だった。
「執政官様が不眠不休で働いて胃を壊してるって聞いて、心配して飛んできたんですよ! さあ、冷めないうちに食べてください!」
目の前でぷんぷんと怒りながらも、自分の健康を本気で心配して温かい料理を差し出してくるケイ。
その姿を見つめていたジンの目元が、熱い感情に潤んでいく。
「……ふっ、くくっ……」
ジンは思わず口元を押さえ、低い声で笑い出した。この数年間、四妃の暗闘や国政の重圧に押し潰されそうになりながら、一度たりとも見せることのなかった、心からの笑みだった。
「本当……君には敵わないな。私は君を陰謀と危険の渦巻く後宮から遠ざけたくて、君の住む街を守りたくて、必死で街へ戻ろうと一人で戦っていたというのに……君自身が後宮に乗り込んでくるなんて」
「遠ざけるなんて水臭いこと言わないでください! 困った時は二人で解決すればいいんです!」
言い放つケイの細い肩を、ジンはたまらず強く抱きしめた。
「っ……ジン、さん……!?」
高級な絹の官服から漂う凛とした香りと、彼の身体から伝わる確かな温もりと心臓の鼓動。
「会いたかった、ケイ……。毎夜、この金木犀の木の下で、君の作ったお菓子の味と、あの温かな笑顔だけを支えに耐えていたんだ……」
耳元で囁かれる甘く切ない声に、ケイの胸は破裂しそうなほど激しく高鳴った。
「私も……会いたかった。ずっと、ずっと会いたかったの、ジンさん……」
ケイはそっとジンの背中に手を回し、胸元の銀の簪を確かめるように強く抱き返した。
満開の金木犀から降り注ぐ黄金色の花弁の下で、すれ違い続けた二人の想いが、今ついにひとつに重なり合ったのだった。




