第二話
「看板メニュー」として売り出した『金木犀の蜜煮を添えた米粉の蒸し菓子』は、狙い通り旅人たちの口コミでじわじわと評判を呼び始めていた。
「これなら今月の家賃も払えるし、食材の仕入れも増やせそうだな……! ケイ、本当に大したものだ」
気弱だが優しく真面目な父親のダンが、帳簿を胸に抱えてホッと目尻を下げた。
「そうでしょう! でも満足するのはまだ早いわよ、お父さん。原価率を抑えつつリピート率を上げるために、次は季節の果物を使ったセットメニューの考案に入るからね」
「まあまあ、ケイったら本当に商売熱心なんだから。でも根詰めすぎちゃ駄目よ?」
明るい笑顔でそう言いながら、料理下手な母親のメアルがお茶を淹れてくれる。二人の温かい言葉に、ケイの胸の奥がじんわりと温かくなった。
◇
そんなある秋の夕刻のことだった。
西日が下町の小道を橙色に染める頃、カランと『桂花亭』の引き戸が鳴った。
「いらっしゃいませ——」
出迎えたケイは、一瞬言葉を詰まらせた。
店に入ってきたのは、質素な旅装束を身に纏った一人の青年だった。だが、背筋の伸びた佇まいといい、指先の洗練された所作といい、ひと目で「ただ者ではない」と直感させる独特の雰囲気を漂わせている。
深みのある黒い瞳はどこか疲れ切っており、影を落としていた。
「……すみません、食事はまだできますか」
「ええ、もちろんです! こちらへどうぞ」
ケイは奥の席へ案内すると、注文を聞く前に厨房へ向かった。
彼のやつれた顔色と乾いた唇から察するに、まともな食事を取れずに過酷な時間を過ごしてきたに違いない。
(こういう時は、胃に優しくて即効性のあるエネルギー補給ね。……よしっ)
ケイが運んできたのは、出来立ての温かい蒸し菓子と、薄くスライスした生姜と棗を浮かべた自家製の養生茶だった。
「ご注文の品ではありませんが、当店試作中の『金木犀の蒸し菓子』と温かいお茶です。旅のお疲れに効きますから、よろしければどうぞ」
青年は少し驚いたように目を瞬かせたが、やがて静かに頭を下げた。
「……かたじけない」
彼が木匙を取り、一口蒸し菓子を口に含む。
モチモチとした生地が解け、蜂蜜で丁寧にアクを抜いた金木犀の華やかな香りと優しい甘みが口いっぱいに広がる。
「……っ」
青年は手に持った匙を止めた。
黒い瞳が大きく見開かれ、その奥に揺らめく灯火のような光が宿る。
「どうかしましたか? 口に合いませんでした……?」
ケイが心配そうに覗き込むと、青年はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ……逆です。こんなにも温かくて、心の底まで解きほぐされるような食べ物は……生まれて初めて食べました」
その声はかすかに震えていて、彼の背負う重圧の深さを物語っているようだった。
「ふふ、良かった! 私、昔からずっと『食べた人がほっと笑顔になれる料理』を作るのが夢だったんです。お気に召したなら何よりです」
「ありがとう……私はジン、と申します」
青年は小さく名乗った。
「私はケイです、ジンさん! 『桂花亭』へようこそ」
◇
それから数日間、ジンは夕刻になると密かに『桂花亭』の店先を訪れるようになった。
彼は口数の少ない男だったが、ケイが料理について熱く語ると、真剣な眼差しで耳を傾けてくれた。
「市場で珍しいスパイスを見つけたんです! これと柑橘を合わせれば絶対新しいシロップができると思って……」
「ケイは本当に料理が好きなんですね。……羨ましいな。自分の意思で自分の道を切り拓いている」
ぽつりと漏らしたジンの言葉に、ケイは悪戯っぽく笑ってみせた。
「自分から動き出さなきゃ、欲しいものなんて手に入りませんよ! 待っているだけの人生なんて性に合いませんから」
「……待っているだけ、か。君は強いですね」
ジンは自嘲気味に呟いたが、その顔にはいつの間にか、出会った頃の冷たい影は消え、穏やかな笑みが浮かんでいた。
しかし、秋が深まり、散りゆく金木犀の花びらが風に舞う頃——ジンが訪れる最後の夜がやってきた。
「明日、王都を離れなければならなくなりました」
店先の影で、ジンが静かに告げた。その瞳には、隠しきれない寂しさと重い覚悟が宿っている。
「……そう、なんですか。あ、ちょっと待っててもらっていいですか?」
胸がぎゅっと締め付けられるのを感じながら、ケイは努めて明るく振る舞おうとした。そして、急いで厨房へ駆け込むと、包を持って戻っきた。
「寂しくなります。でも、ジンさんがどこに行っても元気に過ごせるように、特製の乾燥ナツメとお茶の葉を包んでおきました! 持っていってください」
「ケイ……」
ジンは差し出された包みを受け取ると、胸元から一本の品を取り出した。
月光を受けて鈍い光を放つ、繊細な蔓草模様が刻まれた「銀の簪」だった。
「これを持っていてほしい」
「えっ……こんな立派なもの、受け取れません!」
「君だから持っていてほしいんだ」
ジンはケイの手を包み込むようにして、小さな簪をしっかりと握らせた。彼の掌の温もりが、肌を通してまっすぐに伝わってくる。
「……来年、また金木犀が咲く頃に、必ず君に会いに来る。だから……待っていてほしい」
まっすぐに見つめ返してくるジンの黒い瞳。
その力強さと温かさに押され、ケイは胸を大きく高鳴らせながら、コクリと頷くことしかできなかった。
「……はい。待っています」
それが、ケイの人生で初めての、切なくも愛おしい初恋の始まりだった。




