第一話
甘く、どこか切ない黄金色の香りが、古い木造の街並みを優しく包み込んでいた。
王都の東地区にある下町市場。色とりどりの果実や珍しい香辛料、焼き立ての麺の香りが交差する賑やかな通りから少し外れた場所に、小さな宿屋『桂花亭』はある。
その厨房で、十五歳になった宿屋の娘・ケイは、袖をまくり上げてひとり腕を組んでいた。
「うん……やっぱりこの比率は譲れないわね。花びらの渋みを抜くために、蒸留水に軽く潜らせてから、蜂蜜とナツメのシロップで弱火で煮詰める。これなら、金木犀独特のエグみを出さずに上品な香気だけを凝縮できる……!」
大鍋から立ち上る甘い湯気を吸い込み、ケイは木匙で掬ったシロップを一口味わう。
喉を通るまろやかな甘みと、鼻腔を抜ける甘美な秋の香り。完璧な出来栄えに、ケイの唇が満足気に弧を描いた。
(よしっ! これなら商品化レベル。現世の食材でも、しっかり狙い通りのテクスチャと香気抽出ができるわ)
額に浮かんだ汗を手ぬぐいで拭い、ふと窓の外へと目を向ける。
通りに植えられた金木犀の樹が、秋風に揺れて小さな黄金色の花弁を散らしていた。その香りを胸いっぱいに吸い込んだ瞬間、彼女の脳裏には、いつも鮮明な「前世の記憶」が押し寄せてくる。
◇
前世の名は、桜井しずく。
日本の大手食品メーカーで、新商品の企画開発を担う三十歳のバリバリのキャリアウーマン——いわゆる「バリキャリ」だった。
休日の楽しみは、全国の美味しいものを巡る食べ歩き。そして何より、忙しない日常の中で最も心を癒やしてくれたのが、街角に金木犀が咲き誇る秋の季節だった。
あの日もそうだった。
数ヶ月かけて準備した秋限定スイーツの新商品プレゼンを見事通し、残業を終えて帰宅する途中だった。夜風に乗って漂う金木犀の香りに、「今年もこの季節が来たな」と目を細めた一瞬。
赤信号を無視して交差点へ飛び込んできた大型トラックのライトと、不快な金属音。
悲鳴をあげる暇すらなく、彼女の三十年の人生はあっけなく幕を閉じたのだった。
◇
「……前世の記憶が蘇ったときは本当に焦ったわよ」
ケイは苦笑しながら、手際の良い動作で大鍋を火から下ろした。
前世の記憶を取り戻したのはケイが八歳の時。本当に突然だった。
目覚めた場所は、昔のオリエンタルな宮廷が支配する国の城下町。
現世の両親である、気弱だが優しい父親のダンと、おおらかで笑顔の絶えない母親のメアルが営む『桂花亭』の娘「ケイ」として生まれ変わったのだ。
しかし、この『桂花亭』、致命的な問題を抱えていた。
——とにかく、料理が美味しくない。
宿としての立地は悪くないのに、名物料理ひとつない。経営状態は常に火の車で、両親は毎晩帳簿を抱えて溜め息を吐いていた。
(前世で何百回と試作とプレゼンを繰り返してきた私が、黙って指を咥えて見ているわけないじゃない!)
「待っているだけの人生なんて、前世でも一度だってやってないわ。欲しい成果も、守りたい居場所も、自分の手でロジカルに掴み取るのが私のポリシーなんだから!」
そう心に誓ったケイは、十歳を過ぎた頃から厨房に入り浸り、前世の開発ノウハウと圧倒的な味覚の記憶をフル活用し始めた。
地元の食材の成分を分析し、最適な加熱時間と調味料の組み合わせを叩き出す。そして今、彼女が満を持して完成させようとしているのが、この宿を救う「看板メニュー」だった。
「ケイー! 入口の清掃終わったわよー。あら、また何か作ってるの?」
のれんをくぐって厨房に入ってきた母親のメアルが、くんくんと鼻を鳴らした。
「すごい良い匂い……これ、お庭の金木犀のお花?」
「そうよ、お母さん! はい、これ試食してみて。新メニュー候補の『金木犀の蜜煮を添えた米粉のモチモチ蒸し菓子』!」
ケイは、蒸し上がったばかりの温かい白い蒸し菓子に、黄金色のシロップをたっぷりとかけて小皿に盛り付け、母に手渡した。
「まあ、綺麗ねぇ……琥珀色の宝石みたい」
メアルが木匙で一口すくって口に運ぶ。
次の瞬間、母の目が丸く見開かれた。
「んんっ……!? なにこれ、すっごく柔らかくて……お米の優しい甘みの中から、お花の花蜜みたいな華やかな香りがふわぁって広がるわ! 後味も全然しつこくないし、温かいお茶にぴったり!」
「でしょ? 米粉の練り加減と蒸し時間を微調整して、冷めても固くならない水分量を計算したの。これなら長旅で疲れたお客さんの胃にも優しいし、一口食べたら絶対に忘れられない味になるわ!」
「すごいわケイ! あなたって本当に料理の天才ねぇ!」
「ふふん、天才じゃなくて『開発者』の執念よ!」
ケイは胸を張って笑った。
前世で鍛え上げた職人魂と、現世の豊かな自然食材のコラボレーション。これならいける。経営難の『桂花亭』を建て直し、両親に笑顔を取り戻してみせる。
しかし、この小さな厨房で生まれた一皿の蒸し菓子が、やがて国全体を揺るがす壮大な運命の引き金になるとは、この時のケイはまだ知る由もなかった。




