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第二話 紗栄子

 ーーここは次元の歪みにある妖かしが営むカフェ宿

   ここにだどり着くことができたなら、あなたの願い叶えましょうーー


 ◇ ◇ ◇


 大学時代からの大親友が亡くなった。

 

 心臓発作だということだが、彼女は極めて健康体で年に一度の企業健診でも心臓に問題はなかったはずだ。


 私は妖艶な容姿のため、異性からは誘っていると勘違いされ、同姓からは妬まれていた。そのせいで親友と呼べる人が大学に入るまでいなかった。


 親友である彼女は大学二年のときに知り合い、素直に私の容姿を褒めてくれ、見ているだけで幸せとよく言っていた。私を暴漢から救ってくれた恩人でもある。


 大学を卒業してからも私たちは週末に必ず会っていた。

 

 私は大学を卒業と同時に当時付き合っていた彼と結婚した。

 夫は大学時代にIT企業を立ち上げて順調に利益も伸びている。

 夫の希望で決まっていた広告代理店の内定を断り専業主婦になった。


 タワマン暮らしを始めて五年になる。子どもはいない。まだ二人だけの生活をしたいというこれもまた主人の希望だ。


 この五年退屈な生活の中の唯一の楽しみだったのが親友との週末の時間だ。

 しかしそれを彼女の死という形で奪われてしまった。

 夫は彼女以外の人と二人だけで会うことを嫌った。たとえそれが女性や兄弟でもだ。

 彼女以外の人と会うときは必ず夫が同行していた。

 親友に言わせればそれは愛を超えてもはや束縛ではないかと。

 薄々気づいていた私は親友の名を借りてそれとなく夫に言ってみた。

 夫は怪訝そうな顔をしただけで反論することも弁解することもしなかった。

 私は夫に頼って生活している身だ。それ以上は何も言わずに穏便に終わらせた……つもりだった。


 ある日の深夜のことだ。

 夫は仕事の関係で深夜に戻ることはたまにあったので、その日も先にベッドに入って夫の帰りを待った。

 深夜に帰って来た夫はいつものように寝室に入ってきたが、いつものように私の額に口付けをすることもなく、ソファに腰掛けて黙っていた。

 

「あなた、どうしたの?」


 私はベッドから出て夫の近くに行った。

 顔を上げた夫は真っ青だった。握りしめた拳も震えている。


「何があったの⁈」


 私は驚いて夫の肩を抱いた。身体全体が震えていた。


「……何でもない、疲れているだけだ……シャワーを浴びてくる…」


 夫はそう言うと寝室の隣にあるシャワー室へと入って行った。


 その後は何か忘れたいことでもあるかのように、夫は私を何時間も激しく抱いた。避妊も忘れて……。


 朝起きると夫は仕事に行く準備をしながら私に言った。


「もうお前の親友とは二度と会うな」


「え?どうして?」


「理由は聞くな。いつものことだろう?あの親友が特別だっただけだ。お前の恩人だったから。だがもう会うな、いいな」


 夫はそれだけ言うと出かけてしまった。

 私はすぐに親友に電話をかけた。


『ただいま電話に出ることができません。電波の届かないところにいるか……』


 私は何度か掛け直したがガイダンスが流れるばかりだった。メールも何度も入れた。

 彼女の職場にも連絡を入れてみたが、今日は欠勤だそうだ。

 彼女のご主人の連絡先は知らない。ご主人の勤務先は知っているが、会いに行くことはできない。夫が嫌がるだろう。


 訃報が届いたのはそれから二ヶ月後だった。

 親友のご主人から連絡があり、亡くなったことを伝えられた。

 朝起きてこないのでご主人が起こしに行ったらもう息をしていなかったらしい。

 すぐに救急車を呼んでからご主人が心臓マッサージや息を吹き込んだがもう身体が冷たくなっていたので無駄だったと言った。

 死亡解剖をした結果心臓発作だった。


 私は夫と共に通夜に行った。都内のお寺だった。

 夫はかなり緊張した面持ちだったが、通夜の読経後、親友のご主人とあれこれと故人の話をしてからは顔が緩んでいた。

 

 次の日の告別式は夫は仕事が忙しいからと私一人で参列した。

 霊柩車を見送った後、私は涙が溢れて止まらなかった。

 それと同時に吐き気がして私は急いでお手洗い駆け込んだ。

 そういえば月のものがこの二ヶ月来ていない。

 私はお腹を摩りながら喜びに震えた。


 きっと親友の代わりに違いない。

 

 私はそう思うことで親友がいなくなった寂しさを埋めようとした。



「子どもができた⁈ 」


 親友の葬儀の翌日、私は産婦人科で診てもらい、間違いなく妊娠していることを確認した。

 夜遅く帰ってきた夫に伝えたが、驚きの声をあげた後黙り込んでしまった。


「あなた、嬉しくないの?」


「…もう少し二人だけがいいと言っただろう…」


「それは結婚した当初に話したことでしょう?もう五年も経ったわ」


「……俺は子どもが苦手なんだ…………悪いが堕してくれ」


「あなた!」


 夫は上着を片手に持って出て行った。


 翌朝、夫が帰って来た形跡はなかった。そのまた翌日も夫は帰って来なかった。

 夫の秘書にこっそり電話を入れてみたが、職場で寝泊まりしているらしい。

 浮気をしているわけではないことがわかり、ほっとした。

 秘書いわく、夫は私以外の女性は眼中になく、女性に話しかけられても塩対応だそうだ。

 夫の会社の社員はほぼ男性ばかりで、女性は学生アルバイトしかいないらしい。

 アルバイトなので会社のトップである夫が会うことはほぼないと言っていた。


 私は何かあったときのために秘書の連絡先だけは夫から聞いていたが、夫の会社の社員には結婚式とのときに挨拶を交わしてから一度も会わせてもらったことはない。


 私は子どもを堕ろすつもりは微塵もなかった。

 子どもと生活したくないなら別居か、離婚しても仕方ないと考えていた。


 夫が出て行ってから三日目の夜、夫は帰って来た。


「秘書から奥さんが心配しているから帰れと言われた。あいつと頻繁に連絡を取っているのか?」


「そんなわけないでしょう。あなたが連絡もなしに二日も帰って来なかったから聞いてみただけよ」


「じゃあ何故俺に直接連絡して来ない⁈ 他の男からお前の話を聞かされるなんて不愉快だ!」


 夫は疑心暗鬼になっているようで、いつもの優しさは見られず、見たこともない形相で私を睨んだ。


「子どもは堕しに行ったのか?」


 私は首を横に振った。


「何故?いらないと言っているだろう!お前がいれば、お前さえいれば俺は他に何もいらない!」


 そう言うと夫は私の両腕を掴み浴室に連れて行った。


「何をするの⁈ 」


「子どもが流れるようにするんだ!」


 夫はシャワーのハンドルを捻り冷たい水を私の頭からかけた。


「やめて!こんなことしても流れないわ!」


 私は夫の手を振り払い浴室を出て、濡れたまま裸足で家を出てちょうど最上階で止まっていたエレベーターに飛び乗った。

 追いかけて来た夫の姿が見えたが、エレベーターのドアが閉まり動き出す方が早かった。


 私はエレベーターが降りている間冷静になれた。

 服は濡れていて靴も履いていない。お金もスマホも持っていない。

 すでに一階のボタンを押している。途中で降りて別のエレベーターで家に戻ろう。

 指紋認証の施錠ドアで助かった。

 夫は一階まで降りると思っているだろう。鉢合わせないことを祈りながら次の階で降りて、下から上がってくるエレベーターを待った。

 エレベーターは存外早く来た。誰も乗っていなくてホッとした。


 私は家に戻り急いで着替えてバッグに財布とスマホを入れて家を出た。

 今度は階段を使った。エレベーターだと下で待ち伏せされたら逃げ道がない。

 階段なら様子を伺いながら玄関ホールに行ける。

 私はゆっくりと音を立てずに階段を降りた。

 四十階から一階まで降りるのに三十分以上かかり、さすがに疲れた。

 階段を降りる途中でタクシーを呼んでおいた。着いたら電話をくれることになっていて一階についてしばらくしてから連絡があった。

 玄関ホールに誰もいないことを確認して走って玄関を抜けタクシーに駆け寄った。


「相田です」


 運転手に声をかけるとドアが開いた。わたしが後部座席に座ると運転手が


「最寄り駅と聞いていましたがそれでいいですか?」


 と聞いてきた。

 はいと答えようとしたとき、最寄り駅は夫が待ち伏せしているような気がした。

 私は思わず親友のマンションの住所を言った。ここから車だと三十分ぐらいのはずだ。

 タクシーは親友のマンションがある方へ走り出した。

 スマホの電源は切った。主人がGPS機能を入れているので行き先がバレるからだ。


 こんなとき頼れる友人が一人もいないんだ、たった一人いた親友はもうこの世にいない。

 いつのまにか涙が頬をつたっていた。嗚咽しそうになったのを我慢した。


 タクシーが親友のマンションの前に止まった。カードで支払いを済ませた。

 こんな夜更けに訪ねて行ったら親友のご主人は驚くだろう。

 しかし今の私にはここしか行くところがない。実家は夫が手を回しているだろうから。


 わたしはマンションの玄関ホールのインターホンで親友の家の号室の番号を押した。


『はい、どちら様ですか?』


「夜分遅くにすみません。相田紗栄子です」


『……どうぞ』


 オートロックのドアが開いた。

 私はエレベーターに乗り三階で降りて親友の家のドアの前に立った。

 インターホンを押す手が震えた。

 玄関ドアが開いて親友のご主人が顔を出した。


 親友のご主人の名前は斉木宗輔。親友と結婚してまだ一年も経っていなかった。


「先日は通夜と葬儀に参列いただきましてありがとうございました」


 斉木さんは玄関先でお礼を言い、中に入れるのをためらっているようだった。

 それもそうだ。親友はもういない。こんな夜分に一人暮らしの男性の家に女性を易々とあげるわけにはいかないだろう。


「ごめんなさい。私頼れる友人は那月しかいなかったものだから……」


 私の目からポロポロと涙が溢れた。

 斉木さんは急いで私を中に入れてくれて、玄関のすぐ横の部屋に通した。

 そこには親友の遺影と遺骨が置かれていた。

 私はその前で泣き崩れた。


「那月……どうして死んじゃったの……私、私はどうしたらいいの……」


 斉木さんは黙って部屋を出て行った。

 しばらくして暖かいココアを淹れて持ってきてくれた。


「妻が相田さんはいつも甘いココアを飲むと聞いていたので。こんなものしか出せませんが飲んで落ち着ければと」


「…ありがとうございます」


 斉木さんとは親友の結婚式のときと通夜のときにしか話したことがなかったが、親友からよく聞かされていた通り、優しくて気が利く人だと思った。

 私は温かいココアをすすった。


「今日はこの部屋でゆっくり妻と語ってください」


 布団が畳まれて置いてあった。ここで寝ているのだろう。


「ごめんなさい。斉木さんがそうしたかったのでは?」


「僕はいつでもできますから。その布団妻が使っていたもので僕も使ったのですがそれで良ければ使ってください」


「ありがとうございます」


 斉木さんは微笑んで部屋を出て行った。

 きっと親友の残り香のする布団で遺骨を前に寝ているのだろう。そんな布団に私の痕をつけるわけにはいかない。

 私は壁に持たれて止まらない涙を拭いながら遺影を見つめた。


 

 ドアのノックする音が聞こえた。

 いつの間にか眠っていたようだ。カーテンの隙間から明かりが漏れている。もう朝か。

 私はそっとドアを開けた。


「おはようございます。昨夜はすみませんでした」


「いえ、ゆっくり眠れましたか?」


 斉木さんは布団をチラリと見た。


「布団使わなかったのですか?すみません、誰かの使った布団は嫌だったですよね」


 斉木さんは本当に申し訳なさそうに言った。


「いえ、違います。斉木さんに取って大事な奥さんの残り香がある布団に私の匂いを上書きしては申し訳ないと思って…」


 私は言ってから少し恥ずかしくなった。俯いてチラリと斉木さんを見た。

 斉木さんもどうやら同じだったようだ。頬を赤らめて口元を手で押さえながら横を向いていた。


「ごめんなさい。余計なことを言いました」


「いいえ、図星を喰らってちょっと恥ずかしかっただけですから」


 なんて正直な人だろう。親友がベタ惚れしていたのもわかる気がする。

 一緒にいると安心感に包まれて自分に正直でいられるのが結婚の決め手だと親友は言っていた。

 私はそのときとても羨ましいと思った。

 私の場合は夫に何でも合わせていたからだ。好きだから初めのうちはそれほど苦にはならなかったが、月日が経つうちに私という存在は何なのだろうかと考えるようになった。


「朝食作ってますから、ダイニングで食べてください。僕はこれから仕事にでますので。それで、申し訳ありませんが食べたら帰っていただけると助かります。那月の両親がここに来ることがありますので」


 斉木さんはスペアキーを渡してくれて閉めた後はポストに入れて置いてくださいと言って出かけた。

 私は斉木さんが作ってくれたフレンチトーストとグリーンサラダを食べ、後片付けをしてからマンションを出た。


 さてこれからどうしよう。夫は仕事に行っただろうか。会社なら冷静に話し合うことができるかもしれない。

 私はそう考えて夫の会社に行くことにした。


 夫の会社が入っているビルの前まで来てスマホの電源を入れた。

 夫にGPSで居場所がわかるだろう。仕事に来ていればすぐに降りてくるだろうし、いなかったとしてもすぐにここに向かうだろう。

 私はエレベーターに乗り夫の会社があるフロアに向かった。

 

 私がここを訪れたのは二年前に一度だけだ。

 古いビルの一室から始めた夫の会社は順調に利益を伸ばし、オフィス街のこのビルの三階のフロア全てを借りたときに連れてきてもらった。

 あのときの夫は希望に満ちて私に嬉しそうにフロアを案内してくれた。

 その後は一度も呼ばれたことはない。


 三階でエレベーターを降り、受付に向かった。


「相田の家内です。主人はいますかしら?」


「少々お待ちください」


 そう言って受付の男性はどこかに連絡していた。

 受付まで男性だなんて、どれだけ女性が働くことを嫌っているのだろう。それとも女性を信頼していないのだろうか。


「社長は今日はまだ出社されていないようです。直接取引先に行ったものかと…」


 私が家内と言ったから気を使ってくれているのね。


「社長室で待たせてもらってもよろしいかしら?」


「すみません、ちょっと秘書に確認をとります」


 しばらくして唯一連絡先を知っている秘書が現れた。


「奥様、おはようございます。今日はどうされましたか?」


「主人と早急に話したいことがあって」


「では社長室でお待ちください。案内します」


 社長室に案内されてソファに座った。秘書がコーヒーを持って来てくれた。


「本当に女性社員はいないのね」


 社長室に来るまでの間女性には一人も会わなかった。


「社長が女性嫌いですから。奥様は違いますよ。奥様だけは特別みたいですね」


 夫が女性嫌いだとは知らなかった。いつからだろう。大学時代はそんなそぶり見せなかったのに。

 秘書が出て行った後すぐに激しく音を立ててドアが開いた。


「紗栄子!」


 夫は私に縋りつき声を抑えて泣いた。


「……俺が悪かった……どこにも行かないでくれ……お前がいないと俺は生きていけない」


 こんな夫を見るのは初めてだった。泣いたのを見たことないし、いつも私の前に立ちリードしてくれているイメージだった。


「じゃあ子ども産んでもいい?」


 一瞬夫は固まったが、小さく頷いた。

 私はフーッと大きく息を吐いて夫を抱きしめた。



 夫はつわりで食欲のない私のために朝スムージーを作ってくれるようになった。

 あまり飲みたくはないのだが、夫がせっかく作ってくれるので無理してでも飲んだ。

 夫は私が飲み終わると安堵したような顔をしてから出勤する。

 そんな朝が続いた三日目の昼頃、お腹の張りが気になって私は産婦人科を訪れた。


 診察をした医師が首を傾げた。


「……何か薬を飲みましたか?」


「いえ、何も」


「そうですか…子宮が収縮しています。このままだと切迫流産してしまいますね。すぐ入院した方が良いと思いますが、どうされますか?」


「入院した方が良いならします」


「わかりました。入院の手続きをしますね」


「お願いします」


 私は手続きをして一旦荷物を取りにタクシーでマンションへ戻った。

 帰る間に夫には詳細をメールで送った。

 マンションの前でタクシーにはそのまま待ってもらい、荷物をまとめてタクシーに戻ると、夫が帰って来た。


「大丈夫?」


 夫は焦った顔をして聞いて来た。

 あんなに子どものことを嫌がっていたのに今はこんなに心配してくれているんだと嬉しかった。

 夫が車で送るというのでタクシーには帰ってもらった。書類にサインをしてもらわなければならないので丁度よかった。

 私は安心したのか病院に向かう途中眠ってしまった。

 気がついたとき車は止まっていた。


「病院着いたの?」


 そう言って窓から外を見て私はギョッとした。


 ここはどこ⁈


 もう夕方なのか薄暗くなっていて、目の前は海だった。


「あなた、病院は?」


「しばらく入院したら二人で出かけることもできないし、子どもが生まれたら尚更無理だろう?そう思ったら入院前に二人で出かけたくなってしまったんだ。旅館も予約した」


「気持ちは嬉しいわ。でも早く入院しないと子どもが危険なの。それに入院手続き済ませてるし」


「一泊ぐらい大丈夫だろう。病院には明日行くと連絡した」


「そうなの…?ここはどこ?」


「南房総半島だよ。綺麗だね。そろそろ旅館に行こうか」


 私たちは旅館に行った。

 案内された部屋は露天風呂付きの豪華な部屋だった。


「食事は部屋に運んでくれる。その前に露天風呂に入っておこう。一緒に入る?」


「ごめんなさい。気分がすぐれないから食後に一人で入るわ」


「わかった」


 夫は露天風呂に入りに行った。

 お手洗いに行こうと立ち上がって歩き出したとき、夫のバッグを思いっきり蹴って中身をばら撒いてしまった。

 慌てて拾い集めたとき、見慣れない錠剤を見つけた。

 どこか悪いのかしらと思いその錠剤のシートに書かれた名前を見てからバッグに片付けた。


 私は夫が何か病でも持っているのかと気になって薬をスマホで調べた。

 全身に震えが走った。あの薬は中絶薬だ。

 もしかしてスムージーを作ってくれていたのは薬を混ぜるため…?


 私はスマホの電源を切り旅館を出た。

 行くあてもなく、ただただひたすら歩いた。

 でもこれ以上歩けば子どもが危ない。

 神社の鳥居が見え、とりあえず境内で休憩しようと入った。

 本殿前に行き、神様に祈った。


「神様、どうしていいかわかりません。子どもを助けてください」


 それだけ言うと私は気を失ってしまった。



 コーヒーの良い香りがする。

 私はコーヒーがとても好きだが、妊娠してからは飲んでいない。

 なぜだかこの香りは胸のムカムカを落ち着かせてくれる。

 

 ハッと気づいて起き上がった。

 ここはどこだろう。旅館の一室のようなところだ。


「気が付きましたか?」


 私は驚いて心臓がバクバクと鳴った。人がいたなんて……人?

 まるで漫画の世界から抜け出して来たような、この世のものとは思えないほどの絶世の美男子だ。

 白銀の髪に金緑の瞳。日本人じゃないよね。


「ここは…どこですか?」


「ここは妖かしのカフェ宿khaosです」


「…あやかし……?」


 妖かしって妖怪みたいなものよね、え、何、冗談?


「相田紗栄子さんですね。あなたはkhaosに呼ばれて次元の歪みのここにやって来たのです」


 は?次元?歪み?何を言っているの?

 私は言葉にならなかった。恐怖がじわじわと襲って来て身体が震えた。


「びっくりさせてしまいましたね。麻生那月をご存知でしょう?結婚して斉木になったんでしたね」


「那月を知っているんですか⁈ 」


 私は親友の名前が彼の口から出て来て震えが止まった。


「ええ、那月もここに来たことがあります。四回もね」


「そうなんですか…… 那月とお知り合いなんですね」


「ええ、最後に会ったときあなたのことをお願いされました」


 那月が私のことを?なんだろう。


「ここにだどりつけた人間は何でも願いを叶えることができます。那月も四回来て四回願いを叶えましたよ」


「本当ですか…?」


「はい。あなたの願いはなんですか?」


 私…私の願いは……


「この子を無事に出産することと夫がこの子を大事にしてくれること。それと夫の束縛から解放されることです!」


「申し訳ない。願いは一つだけです」


 一つだけ……夫の束縛から解放されても子ども嫌いのままなら離婚するしかない。

 でも働いたことのない私が子どもを抱えて生活できるだろうか?

 無事に出産しても夫が子どもを嫌って虐待したら?

 それなら夫の子ども嫌いをなくしてもらうのが一番いい。もしもこの子を諦めなければならなくなっても次の子どもができたとき、夫に大事にしてもらえる。


「では夫の子ども嫌いを変えてください、子ども好きの夫に」


「承知しました。ではついて来てください」


 私は言われるがままその美男子について行った。

 これは夢かもしれない。でももしかしたら夢から覚めると夫が子ども好きになっているかもしれない。


 神秘的な色をした湖に出た。


「あなたの願いを強く念じながら湖に入って行ってください」


「えっ、無理です。お腹に赤ちゃんがいるんです。とても危険な状態で…そんなことできません!」

 

「大丈夫です。この湖は普通の湖とは違います。あなたを元の世界に帰してくれる道なのです」


 こんなファンタジーな世界、きっと夢に違いない。夢なら大丈夫だ。


「わかりました」


 私は目を閉じて湖の中に入って行った。夫が子ども好きになりますようにと切に祈りながら。



 目が覚めたとき病院のベッドの上だった。


「紗栄子!良かった……」


 夫が今にも泣きそうな顔をして私の手を握っていた。


「私…どうしたのかしら……」


 しばらく朦朧として何も思い出せなかったが、少しずつ記憶が蘇って来た。

 そうだ、夫と南房総半島の旅館に行って……薬を見つけて…逃げ出した!


「赤ちゃん!私の赤ちゃんは?」


「大丈夫だよ。無事だ。ごめん、本当にごめん」


 夫は必死に謝っていた。


「薬を見つけて逃げ出したんだろう?俺はなんて馬鹿な真似をしたんだと、紗栄子が神社で倒れているところを見つけて後悔した。もう二度とこんな過ちはしない。大事な二人の子どもなのに……俺は馬鹿だった」

 

 夫の言葉に嘘はないように思えた。なぜ夫の気持ちが変わったのかわからないけど、きっとお腹の中のこの子が改心させてくれたに違いないと思った。


 私はしばらく入院して安定期に入ると退院した。

 夫は人が変わったようにお腹の子のことに気を配ったり、おもちゃや服をたくさん買ってきたりした。


 私は無事出産を迎え、元気な男の子を産んだ。

 夫はそれはそれは大事に育ててくれた。

 相変わらず私への屈折した愛情の束縛は変わらなかったが。


 ◇ ◇ ◇


「紗栄子は無事に子どもが産まれて旦那も大事にしているようだね」


 空夜が水晶を見ながら言った。


「旦那の罪がなくなるわけじゃないけどな。今世になるか来世になるか、いずれにしろ犯した罪は自分に巡ってくる」


 湖白は淡々と言った。


「紗栄子に旦那と那月のこと言わなかったんだよね?」


「言っても忘れるだろう」


「そうだけど…少しでも那月の気持ち紗栄子に知ってもらえたらなって」


「人間臭いことを言うんだな、空夜」


 那月が四回目にkhaosに来たときの願いは『美沙子が困ったときにここに呼んで欲しい』だった。

 那月の寿命がもう僅かしかなかったので願い無しでも元の世界に帰れると伝えたが、『十年の寿命ぐらい紗栄子が幸せになれるのならたいしたことない』と言った。

 那月は紗栄子が幸せになれるようにという願いを言ったが、具体的じゃないと叶えられないことを伝えると、考えた末にkhaosへの召喚だった。

 『紗栄子の幸せは私には決められないから。困ったときにここで願いを聞いてもらえたらいいと思って』と那月は笑いながら言っていた。


「きっと那月の魂は今世ですっかり綺麗になってはじまりの世界に帰って行ったよね」


 空夜は微笑んで上を見上げた。


「そうだといいな」


 湖白は優しい声で応えた。


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