9.ジキルド
他の席から小さく「アーメンで、しまいだろう」と笑う声が聞こえた。
「白いテーブルクロスを蹄の泥で汚されては敵わないからな」
楽しげな卓から聞こえてくる冗談混じりの嘲笑だけが鮮明に耳に届いた。
村の動物じゃあるまいし蹄なんて付いているわけがないだろ。
見せてやろうか、と机の下で拳を握り振り上げそうになる。
──我々と同じ食卓を囲むに相応しい知性ある人物か。
そうだ。必要なのは、この場に足る人物だという証明。
僕はゆっくりと息を吐き出す。
落ち着けと自分に言い聞かせ顔を上げた。
周囲の視線が集う。
「ええ、喜んでお受けいたします」
僕が答えた瞬間、周囲の人たちの澄ました顔の裏にヌルついた好奇が光って見えた。
僕は一度間を置いて周囲を見渡す。
近くの卓の会話が止まり、グラスを置いた音がやけに響く。
最後の生徒が入ったらしく、いつの間にか演奏は終わっていた。
視界の端に僕を見てニヤつきながらワインを揺らしている人が見えた。
背中にかいた汗が冷えたのか、少し寒い。腿の上に乗せた手が震えていた。
声までは震えないよう意識しながら口を開く。
「わたくしはアルケム・ツォーリ。身に余る幸運により入学することができました」
──本当に。あの時、ルヴィに会えたのは僕の人生で二度とないほどのラッキーだった。
「皆様と違いこの場に持ってきたものは一つもありません、ですが村から出てきたばかりでちょうど手が空いていたからこそ、このような光栄な役を任せていただくことになりました」
唾を飲み込んだ。
いつの間にか痛いくらい視線が集っている。
「これからも何もないからこそ、この場所で一つ一つの機会を大切にしていこうと思います」
ゆっくりと語り切った僕は「長くなりましたが」とテーブルに置いてあったグラスを摘む。
予想より重い。
グラリと揺れて──汗が吹き出した。
指先に力を込めて、なんとか取り繕いながら持ち直しグラスを掲げた。
幸い手の震えは止まっている。
静かにもう一度辺りを見渡して、みんながグラスを持っていることを確認してから目を閉じた。
「この機会を提案して下さったラヒトー卿とこの場を任せてくださった皆様、そして神の寛大なお心遣いと恵みに──感謝を」
目を開く。
ラヒトー卿は口の端を小さく上げて頷いた。
「ふむ、アルケム君だったかね。ご苦労。では皆、乾杯」
「「「乾杯」」」
音が戻る。
皿に当たる金属の高い音、話し声、靴音。
──あー緊張したー!
他の人に見えないようにして息を大きく吐き出す。
噛まなかっただけ奇跡だ。
持ち上げた時にワインをこぼしたりしないでよかった。
本当ならここから駆け出して外で叫びたいくらいの解放感だけど、夜会は今始まったばかりで……
「空の手だとしても我思うゆえに我あり、といった具合かね。実に彼はどこかの思想家とは気が合いそうで」
「ちゃんと皆の前で喋るだけの知性はあったようで何より」
そう言って隣の席の確か男爵の次男だったかがワインを飲んだ。
「うむ、高いブドウを使っただけのワインだな。コクがイマイチ、熟成の時間が足りていないのだろう」
白々しく言ってグラスの中でワインを回す。
赤い波がガラスに沿って広がり揺れている。
「わたしの家の出資がなければ地べたに座っていたかもしれないのに、まずワインのコクに目をつけるとは」
こちらも負けじと多分言い方的に商人側の生徒が言った。
「まずはどのくらい金を出したかを語るところが実に商人の生まれらしい。魂に金の匂いが染み付いている」
隣でデッドヒートし始めた会話を横目に僕は立ち上がる。
会話に入れないのにここにいても仕方ない。楽しみの食事もまだ来ないみたいだし。
「はははははっ!」
横の、見ていなかった方から笑い声がした。
「アルケムくんだっけ、いいな。実に」
手を伸ばされていたので握り返した。
ニッと歯を見せて笑う灰色の髪をオールバックにした生徒。目元に傷がある。
赤いコートを身にまとい胸元に若葉を刺しているので騎士団側の人だとわかる。
確か同じクラスにいたような気がするけど、ちゃんと覚えていない。
「どうも」
「相当な急な用件以外立ち上がったり普通はしないんだぜ。それともあれか? ヤベェのか?」
「え?」
周りを見ると立ち上がっているのは僕だけだった。
ふらっと移動したりしないらしいと知り、座り直す。
「教えてくれてありがとう。まあ、ついさっきまで緊張で吐きそうだったのは本当」
「まだ食ってないから吐いても出るのは胃液だけだし大丈夫! あの状況だと誰でも吐きそうになるしな」
カラカラと豪快に笑った。
「俺はジキルド・シルロード。仲間からはジッキーって呼ばれてる。よろしくアルケムくん」
「村の人からはアルって呼ばれてたよ。よろしくジッキーくん」
「じゃあ俺もジッキーでいいよ。よろしくな、アル」
またジッキーと握手をする。
歳は僕やルヴィよりも上だと思う。手も大きいし鍛えたのが分かるゴツゴツとした手のひらをしている。
「あの自己紹介も痺れたけどさ。アルが立ち上がった時、夜会を今からぶち壊していくんじゃないかってワクワクしたよ。まあヤベェなとも思ったけど」
「普通に僕に常識が無かっただけだから助かったよ」
そもそも何もあの時は考えていない。
多分、壊すなんて思いつきもしないし。
「良いじゃねえか。北の地で騎士の常識はあっという間にぶっ壊されたんだからよ。壊せる力のあるやつが真っ先に出張って何が悪い」
手を広げて語りジッキーはお酒を一口で呷った。
酔っているのか少し顔が赤い。
「来たみたいだぜ」
大皿に盛った料理を持って使用人たちがホールへと入ってくる。
湯気を立ち上らせ、肉と香辛料の混じった香りをホール中に満たす。
多分、子牛の丸焼きだと思う。
その他の前菜やスープ物も続々と後に続いていた。
それが十二個の卓分ある。
「ヤバいな、これ」
僕は落ちそうになったよだれを拭う。
「ヤバいぜ、これは!」
僕らははしゃいだ声を上げて目を輝かせた。




