第一話:そこにある
起床後、壮一郎はノートを手渡した。
「おはようございます、紡さん」
いつもと同じ流れ。
「おはようございます、柊さん!」
ノートをめくる姿に。
笑顔に。
今もそこにあるのだろうか、と考える。
「じゃあ、お弁当を作ってきます」
「…はい、気を付けて」
手をシーツの上に滑らせる。
ぬくもりはほとんど残っていない。
雪のように積もる、と言った。
どんなに覚えていたくても、消えると言った。
積もるとはどういう状況か。
条件があるのか。
特性が変化しているのか。
判断材料が足りない。
壮一郎は立ち上がり、クローゼットへと向かった。
あちこちから話し声が聞こえる、午前の編集部。
コーヒーを片手に、別の担当作家の原稿を読む。
昼休憩が近づくころ、紡からメッセージが届いた。
『同調します』
記録ノートへ書き留めた手が止まる。
前のページ。
その前のページ。
まだ新しい記録ノートは、数枚の記録のみ。
これ以前は、家に保管してある。
昼休憩になり、柊は車のキーを片手に立ち上がった。
一時帰宅した壮一郎は、玄関を開けた。
「帰りました」
静まり返った廊下。
いつもなら、紡が出てくる。
靴は、ある。
暗いリビングに目を向けた。
カーテンが引かれ、薄暗い部屋の中。
ソファに、紡が横たわっていた。
横向きに丸まった紡の手元に、携帯。
深い息を繰り返し、眠っている。
起こさないよう、離れようとした時。
ゆっくりと、紡の目が開いた。
携帯を操作し、いくらかの文字を打ち込み。
また、目を閉じた。
『分かっているのに、動けない』
また、眠っているように見える。
これが、同調、だろうか。
以前、紡が同調と表現したものを調べた。
そのどれとも違う。
しばらく壮一郎は、紡を見ていた。
紡はとぎれとぎれにいくつかの文章を打ち込んだ後。
目をぼんやりと開けて、口を開いた。
「…わたしは、しらさめ、つむぎ」
ゆっくりと瞬きを繰り返している。
壮一郎はそっと紡を覗き込んだ。
紡の目が、壮一郎へと止まる。
「……ひいらぎ、さん…?……う」
一度体を起こした紡が、伏せた。
「紡さん?」
「くらっと、きました」
「…そのままでいてください」
壮一郎はポットから湯を注ぎ、水で割る。
「ゆっくり、起き上がれますか」
「もう大丈夫だと思う!」
「…念のため、ゆっくりで」
背中を支え、ゆっくりと起こす。
白湯を渡すと、紡は嬉しそうに受け取った。
「あったかい。飲み頃だ」
一口白湯を口にした後、紡は壮一郎を見上げた。
「おしごと、終わりですか?」
「…いえ、資料を取りに」
「おつかれさまです」
ふにゃ、と笑った紡に肩の力を少し抜いた。
「もう、お昼を過ぎていますよ」
「…あ、本当だ」
「命令です。落ち着いたらでいいので、ちゃんとご飯を食べなさい」
「はーい」
微笑みを交わし、壮一郎は自室へと向かった。
記録ノートを鞄に詰める。
「では、また夜に」
「はい! いってらしゃい!」
見送りに出てきた紡に、あるのだろうか、と思った。
終業後、柊はノートを開いた。
『ヒレナガネジリンボウを知っているかも、と言った。以前に行った水族館で、見たのかもしれない。』
何か。
何か、残っていないか。
『チョコレートを渡した。あまあまです、と泣いた。明日、担当に戻れるか打診する。』
この時は、ただ限界だっただけだ。
チョコレートの甘さで、溶けた。
『ポークソテーを作った。初めての味だったらしい。メモに料理名を書いていた。』
料理名をメモしていた。
それが味とつながっただけだ。
目新しい情報はない。
ページをめくった手が止まった。
2月16日。
『不意打ちでの口付けは、破壊力がえぐいです。』
柊は片手で口元を覆った。
振り返った紡が、走ってきて頬にキスをしたあの瞬間。
心の準備もないままに、一瞬だけ感じた柔らかな感触と、甘い彼女の匂い。
心臓が早鐘を打ち、顔が熱い。
就業後で良かった。
震える息をゆっくりと吐き出して。
文字を、じっと見つめる。
この時、彼女がこの行動をとった理由。
乱れる思考を、必死で手繰り寄せる。
ノートを読んだ。
十分、腕の中にいた。
そして……。
「…それ、だけ……」
積もるのなら、毎日のはずだ。
これは合わない。
ノートを見て、感情が再現された?
それも毎日している、合わない。
蓄積なし、再現なし。
感情が消える、という最初の言葉どおりの線が有力だ。
ふとよぎった可能性に、瞬きが止まる。
「……まさか。……ただの、願望だ」
その場で発生する感情が、そうかもしれないなんて。
起きて数分、数十分で、キスするほどの感情が発生するなんて。
ありえないと否定しても、今は辻褄が合ってしまう。
他の推論は、成り立たない。
心臓の音が、耳の中で大きく鳴っている。
では、今朝は。
昨晩は。
その前も。
ずっと。
壮一郎はノートを握りしめ、机に伏した。




