最終話:たからもの
ポークソテーを口にした紡が笑顔になった。
「これ、好きなやつです! りんごの!」
壮一郎は動きを止めた。
「…覚えているんですか?」
「食べたことある味かも、は分かります! 塩加減は微妙すぎて、分からないんですけど」
「……この、料理名は?」
「ええと、…たしかメモがあった。…ポークソテー、林檎ソースがけ…でしたっけ?」
いつだったか、味も記憶できないと言っていた。
塩加減が、覚えられないと。
林檎のソースという大きな特徴は残ったのか。
大きな特徴なら、残るのか。
味覚は、事実に近い記憶という扱いだろうか。
考えていると、紡が口を開いた。
「柊さんが、作ってくれましたよね?」
「……そう、です…」
壮一郎はポークソテーを見下ろした。
事実が残っている、という状態だろうか。
時間とともに大部分が消える中、この記憶は残ったのか。
事実に付帯すれば、人の記憶ができるのか。
いや、今朝も分からなくなっていた。
何かが、嚙み合わない。
「……紡さんは」
『記憶は全部、静止画で。人はいなくて』
『今の嬉しい気持ち。忘れたくないけど、忘れちゃうから』
『人は、知っているって思うんですけど。繋がりにくくて』
――たった一晩で、すべて。
『どういう変化をしていくのか、今後が楽しみだね』
カトラリーの先が、震える。
「全部が、リセットじゃない…?」
「リセット?」
紡が口の中のものを飲み込んだ。
カトラリーを置いて、壮一郎は紡を見た。
「……あなたの記憶は、…どのくらい、残りますか」
「ええと、どのくらい? うーん…」
宙を見つめて、紡は口を開く。
「細かいことは、ほとんど残らないけど。柊さんが担当編集だ、みたいな。事実みたいなのは、残ってる、感じ?」
「……私のことが、分からなくなるのは?」
「んー…。目の前の人と、『知っている』が、うまく、つながらない感じ…?」
紡が水の入ったコップを持ちあげた。
「この中に入っているものを、『知っている』と分かります。でも、水って呼ばれるものだってこと、飲んだり、手を洗うものだとか、そういうのがでてこない、みたいな」
壮一郎は、揺れる水を見た。
「…知っていると、分かっている」
「はい! 何かの拍子につながったりします!」
朝の、揺れる瞳。
ノートを読んだ後の、柔らかい表情。
「……そうでしたか」
壮一郎は、両肘を机の上につき。
組んだ両手に、顔を伏せた。
夕食後。
片付けを終え、壮一郎は紡をソファへと誘った。
「人に関する記憶について、確認してもいいですか?」
「いいですけど、何を話しましょう?」
「先ほどの、『知っているけど、分からない』について」
壮一郎と紡は、ソファに座る。
「思い出すのに、何がきっかけになるとか。そういうものは」
「うーん…。きっかけは…よく、わかりませんが」
紡は口元に手を当てて、考えながら口を開く。
「声とか。文字とか。名前とか。その人、って、急につながったり、つながらなかったり」
「急に、ですか…」
壮一郎はしばらくして、口を開いた。
「…ノートは、役立っていそうですか?」
「はい、とても! それに、あれは宝物です!」
「……たからもの」
壮一郎は、目を瞬いた。
紡は笑顔で、壮一郎を見上げる。
「柊さんの字で書いてあって。私が忘れちゃう小さなことも、残ってて。一緒に時間を過ごしたんだって。見るたびに、幸せになります!」
直視できず、壮一郎は目を泳がせた。
先ほどより長い沈黙の後、壮一郎は口を開く。
「…あなたの中に…どのくらい、残っていますか。私に、関することは」
紡は目を瞬いた。
手を口元に当てて、視線を落とす。
「記憶は、少しずつ事実としてあります。気持ちは、こうして一緒にいると。雪みたいに、積もる感じがします」
紡が、壮一郎に体を寄せた。
互いの体温が伝わる。
「不思議なんですよね。あの時嬉しかった、みたいな気持ちは後から思い出せないんですけど。柊さんといるときは、気持ちがずっとある、みたいな」
壮一郎は、自分の手を見た。
透明な雪がそこに降った気がして、手を握る。
肩から伝わる体温だけを感じながら。
壮一郎は、目を閉じた。




