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家に着いた頃には、日が翳り始めていた。
アーサーは、休憩にお茶を一杯飲んで仕事に戻ったけれど、リリーはその後も、だらだらとメアリとおしゃべりに興じてしまった。更に、夕飯も食べて行くように促されたが、流石にそれは断った。
「お帰りなさい。どこに行っていたの?」
帰宅して、居間に顔を出すと母のヘレナは、レースを編んでいた手を止めこちらを見た。
「グレイン男爵邸よ」
隠すことでもないので答えると、ヘレナは、少し驚いた顔をしてから「そう、二人共元気だった?」と笑った。リリーは、ヘレナの向かいのソファに腰を下ろした。テーブルに置かれたディガールのクッキーを目敏く見つけたので、一つ摘もうと思ったから。
「このクッキー覚えてる? 昔、エマ様がお土産によく下さったやつ。懐かしいから買って来たのよ」
「そういえばそうだったわね」
「王家御用達の老舗だって。なくなったら、また買いに行かなきゃ」
リリーが言うと、
「貴女が元気になったみたいで良かったわ。アルフレッド様のお蔭ね」
ヘレナは、懐かしい大切な思い出を語るみたいに言った。リリーは、またか、という気持ちになった。
「どうして、皆、アルフレッド様の味方をするのかな」
「アルフレッド様が、いつもリリーの味方をしてくれるからよ」
リリーは、花形のクッキーの花びらの部分をぽきぽき折って食べながら、ヘレナの顔を見た。
「昔から、貴女を虐める子は、絶対に許さなかったでしょう」
「あの人に一番虐められていたけど?」
「ウェズリー領のルドルフ伯爵家のエライザ様を覚えてる?」
「エライザ様?」
全く記憶にない。リリーが眉を寄せると、
「サミエル子爵の姪っ子で、夏の間だけこっちに滞在していた子よ」
と続けた。
「わからない。どんな子だっけ?」
「茶色の髪で、小柄で、はきはきしゃべる、ちょっとおませさんな感じの子。初めてうちに遊びに来てくれた女の子だったから、リリーは凄く喜んでいたけど、アルフレッド様が泣かせて、来させなくさせたでしょ」
そう言えばそんなことがあったかもしれない。アルフレッドは、皆で仲良くなんてことは、死んでもしないから。
「アルフレッド様は、オーウェン公爵に厳しく叱られても、どうしてあんなことをしたのか理由を言わなかったけど、後になって、あの子、いろんなお茶会でリリーの悪口言っていたのが分かったのよね」
リリーは、花弁を食べ終えて赤いジャムが塗られた部分だけ残った丸いクッキーに視線を落とした。角度を変えると、窓からの夕日を反射してきらきら光る。
「わたし、アルフレッド様に脅迫されているのよ」
どうして急に暴露してしまったのか、自分でもよくわからない。小さい頃、こんな風に、アルフレッドにされたことを怒ったり、泣いたりしながら、母に訴えたことを思い出した。
「それで、すんなり王都へ行く気になったのね」
ヘレナは、一瞬手を止めてこっちを見ると、妙に納得して言った。
「何を脅されていたか聞かないの?」
「言いたくないことなんでしょ」
ヘレナは、深く追及する気はないらしく、レース編みを再開させた。確かに尋ねられても困るので、リリーも黙った。かぎ針がレース糸を規則正しくすくい、編み目を作っていくのを見つめていると、
「お父様は、オーウェン公爵様のご信任が厚いでしょう。それを妬んで、貴女の噂に便乗した者もいたのよ。だから、心配だったのよ」
謝罪するような口ぶりでヘレナが言うので、リリーは胸が詰まった。自分には婚約破棄された嘲笑が、アーサー達には真実の愛と羨望の噂が広まったからくりが、わかった。自分が家の名に泥を塗ったことも。今更そんなことに気づくことが情けなかった。
「……心配って?」
「友人同士の諍いじゃない分、たとえ一度は静まっても、貴女が社交界へ戻れば、また蒸し返す者はいたでしょうから。でも、アルフレッド様のお陰でそれはなくなった。それも、リリーがいちばん気に病まずに済む形で」
「気に病まずに済む?」
「脅されて、仕方なく従ったのでしょう」
ヘレナの声は柔らかい。確かに、脅されたから付き合ってやっている、と思っていた。熱愛の噂も甘んじて受け入れた。嘘を吐く罪悪感もなく。アルフレッドがそうしろと言うから、嫌々仕方なく。そんなことは、全く考えてもいなかった。でも、ちょっといいように解釈しすぎじゃないか。
「……アルフレッド様が誰かと結婚したら、今度は今より惨事になるわ」
「それはないんじゃないかしら」
ヘレナの返事に、リリーはムッとなった。もしかして「結婚するのは貴女でしょ」という意味で言っているなら大間違いだ。
「あの人は、告白しないんだって」
リリーが、腹立ち紛れに言うと、ヘレナは手を止めて視線を向けた。
「アルフレッド様らしいわね」
そう言われてリリーは返す言葉がなかった。本当にその通りだと思ったから。アルフレッドは、愛の告白なんてしないのは、わかりきったことだ。いくら親切にしてやったってお礼なんて言わないし、どんなに酷いことしても謝罪の一つしたことない男だ。碌でなしのクズだ。自分は何を怒っているのだろう。期待したって無駄なのに。期待? いやいや、とリリーは唐突に居た堪れない気持ちになった。それでも、ここで引き下がるのはなんだか負けの気がして、
「まぁ、じゃあ、時間はあるってことよね。わたしは、ゆっくり結婚相手を見つけられるからよかったわ」
と、リリーは言った。まだ結婚が決まっていない友人達も沢山いる。学校を卒業して、これから本格的な社交デビューが始まるのだ。決して遅すぎることはない。
「この領地にそんな度胸のある男性いるかしら?」
ヘレナの言葉に、リリーは閉口した。いるか、いないか。いるわけない。明後日になればアルフレッドはこのアズウェル領の正式な当主になる。もしも自分が絶世の美女か、あり得ないくらいの資産家なら、少しは望みがあるかもしれないが、至って平凡な容姿で、家督を継ぐ権利もない娘だ。領主と噂になっている令嬢に誰がわざわざ声を掛けるのか。
「じゃあ、どうなるの?」
「このままなんじゃない?」
「このままって?」
「だから、このままずっと今のままよ」
「絶対に、嫌」
冗談じゃない。誰かあいつをどうにかしてくれ、とリリーは強く思った。
「だったら、リリーが他の案を提案するしかないわね」
ヘレナは、リリーの内心を読んだみたいに言う。
「でも、リリーが嫌なことを無理やりする必要はないのよ。王都の伯母様のところで暮らしたっていい」
そんなことは望んでいない。何もかも見透かされている気がしてリリーがまた黙ると、
「ゆっくり決めたらいいわ。時間はあるのだし」
ヘレナは静かに告げて、ちらりと時計を確認した。十八時を少し回っている。
「さて、そろそろ夕食の準備にかからなくちゃ」
ヘレナは昔から、夕食は自分で作ることが多い。裕福な貴族夫人にしては珍しいことだ。本人の趣味なので、エリスにもリリーにも手伝えと言ったことはない。ヘレナは、かぎ針を止め、編み目がほどけないように糸を少し引き出してから、編みかけのレースを糸玉と一緒に籠へ収めて、
「夕飯前だからあんまり食べすぎたら駄目よ」
と子供を嗜めるみたいに言い残して、居間から出て行った。
昔、アルフレッドと喧嘩した時も、ヘレナは一度も「許してあげなさい」とか「謝りに行きなさい」とは言わなかったことを、リリーはぼんやり思い出した。それでも翌朝になると、結局、出かけて行ったのだけど。
誰もいなくなった部屋に、穏やかな静けさが広がる。リリーは、夕日で一層赤くなったジャムを、しばらく眺めていたが、やがて一口で頬張って、自室へ戻った。




