13
リリーは歩いて政務棟へ向かった。五分も掛からない場所にある平屋の木造の建物だ。リリーも幼い頃はここで一緒に勉強していた。玄関でドアベルを鳴らすのではなく、いつも勝手に裏手に回る。そこにウッドデッキがあって、上がると大きな出窓から中を覗いた。真面目なアーサーが真面目に机に向かっているのを確認して、こんこんと窓をノックするのが合図だった。
「リリー、来たのか。今ちょうど休憩しようと思っていたんだ。お茶の用意をするからちょっと待って」
いつもアーサーは、そう言って、手ずからお茶を淹れてくれた。そして、ウッドデッキに備え付けられたテーブルで午後のひとときを過ごした。
今日もリリーは、昔と同じように裏手へ回った。出窓の向こうでは、アーサーが机に向かっている。リリーは軽く窓を叩いた。
「グレイン男爵、今お時間よろしいかしら?」
びっくりしたアーサーの顔に、リリーは満足した気持ちになった。
「リリー! なんだよ。グレイン男爵なんて仰々しいな。何処の淑女が来たかと思った」
こちらまで歩いて来て、窓を開け放ったアーサーが肩をすくめて言った。淑女なら窓をノックしたりしないだろうに、とリリーは笑った。
「もう学校も卒業したし、大人だもの。ちゃんとしないと」
「そうか。じゃあ、俺もキチンとしないと駄目だね。リリー嬢、今お茶を淹れるから」
アーサーが、執務室の隣にある給湯室へ行こうと背を向ける。
「あ、いいの、いいの。お茶はメアリが用意してくれてるから。グレイン男爵も一緒に来てって」
リリーが呼び止めるとアーサーは足を止めて振り向いた。
「仕事、途中でしょ? キリのいいところまでやったら? 待ってる」
「そうか。悪いね。ちょうど届けてもらいたい書簡があって、あとは封をするだけだから、向こうへ一緒に持っていくよ」
そう言ってアーサーは執務机に戻り、腰掛けると、引き出しから封蝋と印章を取り出した。リリーはその横顔をじっと見ていた。でも、話すなら改まってより、今がいいような気がして、
「アルフレッド様が戻ってきたのよ」
と告げた。アーサーは顔を上げてゆっくりこっちを向いた。
「うん。知っているよ。噂も聞いたよ。リリーに関する無礼な噂話が出回っていたから、あれよりは今の方がいいのかなって、申し訳ないけど、少し思った」
アーサーが聞いたのも、当然メアリの聞いた噂と同じだろう。自分には「婚約破棄された哀れな令嬢」という噂がある一方で、何故かアーサーとメアリには「真実の愛を貫いた二人」という噂が出回っている。そのことでアーサーとメアリが激しく抗議してくれているのも知っている。だから、アルフレッドの馬鹿のお陰で、二人の心労がちょっとでも緩和されたなら、喜ばしくとも謝罪されることなどない。
「申し訳ないことなんかないわ」
リリーが答えると、アーサーは少しだけ笑って、手元に視線を戻した。
机の端に置かれた小さなランプで封蝋を温め、封筒の封じ目へ赤い蝋を落としていく。丸く広がった蝋の上へ印章をまっすぐ押し当て、数拍置いてから静かに持ち上げると、グレイン家の紋が綺麗に残った。
「アルフレッド様と会うの何年振りくらいだっけ?」
「九年」
「そうか。もうそんなにか」
「でも、何も変わってなかった。いきなりきて、家来が馬鹿にされるのは自分の沽券に関わるって、あの噂をでっちあげたのよ」
リリーは窓に右肘を乗せて、アーサーが別の書簡を取り出すのをじっと見ながら言った。
「家来か……」
「意味不明でしょ」
「……リリーはさ、アルフレッド様がどの王様になりたいか知っていた?」
「え?」
どの王様もなにもない。生まれながらに傲慢な性格だから、王様になりたいだけ。そんなことは、考えたこともないし、考える必要もないと思ってきた。
「グロルズ王だよ」
リリーが答えられずにいると、アーサーは悪名高き愚王の名前を口にした。歴史嫌いなリリーでも知っている。国民を散々苦しめて弟に反乱を起こされ処刑された王だ。アルフレッドが品行方正な賢王に憧れるとも思わないが、いくらなんでもそんな人間になりたがるなんて、おかしいんじゃないか。
「何がよくて?」
「それは教えてくれなかった」
でしょうね、という感情しかない。アルフレッドが誰かに何かを親切に教えるわけがない。リリーが乾いた笑いを漏らすと、アーサーは、また別の書簡をいくつか取り出して、次々封筒に詰め始めた。
「グロルズ王の最期って知ってるか?」
「籠城した城に火を放たれたんでしょ? 焼死なんて絶対嫌」
アーサーは「俺も」と笑って言うと、
「文献には、グロルズ王と七人の配下が焼死体で見つかったって記述されてある。守るみたいに玉座を囲っていたんだって。みんな、グロルズ王の幼少期からの配下だったらしい」
と続けた。リリーは、興味がなさすぎて「へー」とだけ返した。
「全部アルフレッド様から聞いた話だけどね。珍しく熱く語っていたから、俺はアルフレッド様は、そういう家来を探しているんだって思ったんだ」
アーサーが、五つの封筒に順番に印章を押していく。慣れた手つきで。昔、面白がってやらせて欲しいと邪魔したことがあった。嫌な顔せずに教えてくれた。
「だから、言ったんだよね。『俺もアルフレッド様にお仕えして、この領地を繁栄させるよう務めますね』って。確か、リリーと婚約してすぐの頃だったと思う。まぁ、あっさり『お前みたいなもやしなんか家来にいらん』って断られたんだけどさ」
「没落すればいいのにね」
リリーが言うと、アーサーは笑いながら、印章を裏返し、彫り面に蝋が付着していないことを確かめて、
「俺は、昔からアルフレッド様に嫌われていたから、まぁ、断られることは予測してたけどさ。でも、違ったんだよな」
次の封筒に新たな蝋をたらし、印章を押し当てた。
「違ったって何が?」
「家来は、リリーだけで良かったんだよ」
「領民の子達を家来にしていたでしょ」
「リリーが家来になった後は、誰も増やさなかった」
リリーは黙って、アーサーの手の動きを目で追った。アーサーがこちらを向くのがわかったけど、わざと目を合わさなかった。
「俺、気づいていたのに、ずっと言わずにいたんだ」
「……そんなの気にしてやる必要ゼロでしょ」
リリーは、手元の窓枠にまで視線を下げた。木目が何層にも重なっている。その年輪を手でなぞる。
「アルフレッド様のことはね。でも……リリーは違うから」
アーサーの言葉にリリーが顔を上げる。アーサーの青い瞳と視線が重なった。
「リリーはさ、アルフレッド様が好きだっただろ?」
すうっと息が止まる。時間も止まったみたいに、しんとした空気が満ちる。先を越された。ここへ来たのは、それを言うためだ。後出しみたいになるじゃないか。そんな保身が脳裏に走って、どうすれば良いかわからなかった。
「……どうして?」
惚けるつもりはない。知っていたのに、なぜ黙っていたのか。アーサーは伯爵家からの婚約の申し出を断れなかったんじゃないか。政略結婚だから、仕方なく同意したんじゃないか、と胸の奥が震える。
「婚約した時、アルフレッド様に『どうでもいい』って言われたって、めちゃくちゃ怒っていたから」
「……そんなことより、ザリガニを取りに行くぞって言われたから」
「そうそう」
アーサーの瞳が柔らかく弧を描いている。笑っている。笑う話ではないのに。それとも、もう笑い話になったのか。いや、まだ駄目だ。リリーはぐっと指に力を込めた。
「わたし……嘘ついたの。あの時、本当は『婚約するから』じゃなくて『婚約していいか?』ってアルフレッド様に聞いたの」
駄目だと言われたら婚約しなかった。印章を持つアーサーの手の動きが、一瞬止まる。
「……そうか。だったら、やっぱりもっと早く、グロルズ王のこと教えてやれば良かったな」
静かな声。いつもの穏やかなアーサーの声だ。アーサーは、印章についた蝋を拭い出した。アーサーが作業している横顔を見るのが好きだった。真面目で、几帳面で、丁寧だから。自分も頑張ろうと思えたから。
「わたしが屑だって話でしょ。アーサーは怒っていいところでしょ。わたしは、それを謝りにきたんだから」
口調が荒くなる。謝る自分が何を開き直っているのか。
「グレイン男爵って呼ぶんじゃなかったか?」
アーサーが笑って言う。冗談なのか、それとも「もう終わった話だ」と流そうとしているのか。真意は汲み取れなかった。リリーが黙っていると、
「……じゃあ、俺も本当のこと言うよ。さっき、リリーの悪い噂が上書きされてほっとしたって言ったけど、本当はアルフレッド様が戻ってきたことに、ほっとしたんだ。ずっと気になってたから。俺の方が屑だろ」
とつけ加えた。どうしてアーサーはこんな風なんだろう。リリーは、ぎゅっと唇を硬く結んだ。考えないようにしてきたことが、腹の底の方から込み上げてくる。多分、これが最後だ。アーサーが幼馴染のアーサーで、婚約者だった頃のアーサーでいるのは、この建物にいる間だけ。きっと、これからも優しい人であるけれど、甘えてよいのは、もうこれきりだ。もう、これで、
「わたし、グレイン男爵のこと好きだったのよ。……アルフレッド様の次に、好きだったのよ」
ただ、初恋ではなかっただけ。本当は、もうずっと、アーサーと結婚して恋を始めたかったんだ。
アーサーが顔を上げる。その目は大きく見開いている。綺麗な青い瞳。アーサーは頭がいいから、こっちの捻くれた言動は、いつも簡単に見抜いてくる。知っている。わかっていて言った。じっと視線が合うと、驚いた表情は、すぐにいつもの優しい微笑みに戻った。
「光栄です」
ほらね、と思う。泣きたいくらいにほっとする。
「で、リリーの初恋は叶いそうか?」
「え?」
「叶えてくれよ。俺のは駄目だったから」
今度はリリーの目が見開いた。そんなことは知らない。けれど、リリーが反応するより先に、アーサーは封筒の束を机に軽く打ち付け、端をきっちりと揃えると、
「よし、終わった。メアリがお茶の準備してくれているんだろ? 行こうか。玄関まで回って」
と立ち上がった。
玄関へ遠ざかっていくアーサーの後ろ姿を、リリーは黙ったまま、食い入るように見つめた。何か言わなければ、と思った。でも、なんて? 別にこれからも普通に会う。今生の別れでもない。日常は続いて行くのだ。けれど、
「アーサー! いつもいつも優しくしてくれて、どうも有難う!」
アーサーが立ち止まる。ドアノブにかけた手はそのままに、ゆっくり振り返った。
「こちらこそだよ」
笑っている。優しく笑っている。リリーが笑い返すと、また背を向けて、いつもの丁寧な所作で扉を開けて出て行く。ドアは静かに閉まった。
リリーは真上を向いて深く息を吸い込んだ。滲んだ視界が早く戻るように。だって、自分も早く行かねばならない。グレイン男爵を待たせられないし、メアリの美味しい紅茶が冷めたら困る。玄関まで走って行こう。でも、その分、あと十秒猶予が欲しい。そっと目を閉じて、もう一度深く呼吸する。「あーあー」と声を出したら、耳から空気が抜けるように世界が戻ってきた。もうこれで大丈夫。
リリーは、誰もいない執務室をもう一度じっくり見渡すと、玄関に向かって駆け出した。




