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リリーは「少し出かけてくるから」とエリスに言い残して、馬車に乗り込み自宅を後にした。脅されてるなら、その根本を解決するべきだと思ったから。
穏やかな昼下がり。この時間なら、アーサーは、グレイン子爵邸の政務棟にいるはずだ。前はよく、先触れなく訪ねて、一緒に午後の休憩にお茶を飲んだ。でも、それは婚約者だったから許される行為で、今突然来訪するのはどうか。いろいろ考えた結果、リリーは先にメアリに断りを入れれば良いのではないか、と結論を出した。そもそも、こっそりアーサーに会いに行くのは、自分の中の倫理に反する。
馬車に揺られて三十分ほどで、グレイン子爵邸が見えた。古い石造りの、落ち着いた屋敷だ。正面玄関の前には小さな馬車回しがある。その前には花壇が左右対称に整えられていて春の花々が咲き乱れている。けれど、リリーを乗せた馬車は、母屋の手前でゆるやかに進路を変え、脇を抜ける小道へ入っていった。裏手には芝が広がり、その奥には領地経営のための政務棟が建っている。更にその東側に、母屋より一回り小さな石造りの館がある。アーサーが十八歳になった時に与えられたものだ。いずれリリーと結婚して夫婦で暮らすために。
馬車は、その館の前で止まった。
リリーが、馬車から下りてドアベルを鳴らすと、すぐに扉は開いた。
「リリー様! いらっしゃいませ」
顔馴染みのメイドに迎え入れられる。
「久しぶり。メアリはいる? 約束はしていないんだけど……」
「はい。すぐに若奥様をお呼びいたしますね。中へどうぞ」
元婚約者が来たなんて厄介な案件なのに、ひどく歓迎した様子なのは、グレイン家の人間が、もれなくリリーを英雄視しているからだ。
「リリー!」
応接室で待っていると、すぐにメアリが飛び込んできた。
「久しぶり、ってほどでもないけど、元気? いろいろ大変だったみたいだけど」
メアリが嫁ぐはずだった商家の男と相当に揉めた、と聞いている。倍額の違約金を請求されたとかなんとかで、グレイン子爵が仲裁に入ったそうだ。野次馬みたいになるのが嫌で詳しくは知らない。
「えぇ、ありがとう。ようやく落ち着いてきたところよ。……リリーは?」
メアリは、少し躊躇うような素振りで言った。
このアズウェル領は、現在アルフレッドの授爵式の話で持ちきりだ。その本人がダンスホールに現れて、チャリティーダンスに十万ギルも払ったとあらばどうなるか。噂は、そこら中に広まっているのだろう。当然、メアリにも。
「噂聞いた?」
リリーが苦笑いすると、
「えぇ。少しだけ」
メアリも同じような表情で答えた。
「わたしも驚いているのよ。みんな好き勝手言うし。メアリはなんて聞いたの?」
「……明後日の授爵式で、婚約発表が行われるって」
「え?」
リリーは目を瞬かせた。想像以上に噂に尾鰭がついている。どうして二人でダンスホールに出かけただけで、そこまで飛躍するのか。流石に無茶苦茶だ。
「婚約なんてデマよ」
「そうよね。ごめん」
メアリが、謝罪を口にする。結婚関連の話題は気まずい。昔なら、もっと冷やかし半分であれこれ聞いてきたんじゃないか。それがずんっと遠く感じた。全部アルフレッドのせいだと思った。
「メアリが謝ることなんてないでしょ。悪いのは、あの頭のおかしい男なんだから」
「……アルフレッド・オーウェン公爵令息様よね。前に、上級生に紹介するよう絡まれて大変だったわよね」
「うん。もう何年も会ってないって言ってるのに、結構しつこくて迷惑したわ」
あれはデビュタントが終わった後だった。王宮の舞踏会でアルフレッドを見た学校の女生徒に、顔繋ぎするよう頼みこまれた。幼馴染ではあるが昔の話で、今は連絡を取っていないのだ、とどれほど説明しても納得してくれず手を焼いた。あの男は離れてまで厄介ごとをもたらすのかと辟易した。
「前に、喧嘩別れしたって言っていたけど、仲直りできたの?」
「全然してない」
即答すると、メアリは笑った。なんだかほっとする。
「立ち話もなんだから、座って。お茶の用意してくるわ」
「待って、実は今日来たのは、アルフレッド様のことで、グレイン男爵に話したいことがあるからなの。もちろんメアリも一緒に」
「グレイン男爵?」
「え、引っかかるのそこ?」
グレイン子爵はまだ隠居していないから、アーサーは一代爵位の男爵位を得ている。アルフレッドが侯爵位を与えられるのと同じだ。
「だって変でしょ。急に家名で呼ぶなんて」
「人様の旦那様を呼び捨てなんてしないでしょ。常識的に」
年上の爵位持ちの貴族を、馴れ馴れしくいつまでも呼び捨てにできない。今更ふっと気づいてしまったから、そう言っただけだ。
「……リリーって、そういうとこあるわよね。アーサー様なら政務棟よ。呼んで来ましょうか?」
言い出したら聞かない頑固なこちらの性格を重々承知しているメアリは、諦めたように笑って言った。
「仕事中でしょ? 用があるのはわたしだから、こっちが行った方がよくない? すぐ終わると思うし」
「そう。じゃあ、終わったら寄って。お茶用意しておくから」
「え、メアリも一緒に来てくれないの?」
さっき、そう言ったつもりだった。元婚約者と旦那が二人で話すことに何も思わないはずがない。それに、これからアーサーには、本当のことを言うつもりだ。誰にも言っていない本当のこと。アーサーを好きだとかいうより、もっと前のこと。それを正直に話そうと思っている。きっとアーサーにとって迷惑な話だ。だから、せめて妻であるメアリと一緒に聞いてもらった方がよい、とリリーは思っていた。
「それって、私に関係ある話かな?」
「え?」
「オーウェン公爵令息様と仲直りするために必要なことなんでしょ?」
仲直りじゃなく、脅迫から逃れて、謝罪を要求するためだ。メアリにあの奇怪な男について、どう説明すればわかりやすいか。リリーが言葉を選んでいると、
「リリーが言ったんでしょ。自分とアーサー様が婚約解消するのは自分達の問題で、その後、アーサー様と私が結婚するかどうかは自分に関係ないって。だったら、リリーとアルフレッド公爵令息様とアーサー様のことは、私に関係なくない?」
とメアリは続けた。トパーズ色の瞳が柔らかく微笑んでいる。優しいいつものメアリの顔だ。なんでこんな風に笑うんだろうか。嫌じゃないのかな、とリリーは思った。
メアリとは、学校で出会ってすぐに仲良くなった。ずっと一番の友達だったから、何も言われなくても、メアリが誰を好きかは簡単にわかった。だったら、メアリは? そう考えて、リリーはハッとした。どうして自分だけが、なんでもわかると思ったのだろう。やっぱり何処か悲劇のヒロインに浸っていたのかもしれない。リリーはなんとも言えない気持ちになって、けれど黙ってもいられなくて、
「うん。そうね。関係ない。全然関係ない話よ」
と笑って答えた。メアリの未来にはなんの関係もない話。波が引いた後の貝殻を拾うみたいな思い出の話。それは本当に嘘じゃない。
「だったら、リリーが一人で行って。それから、二人で戻って来て。そろそろ午後の休憩の時間だから、美味しいお茶を用意しておくわね」
メアリは、イタズラした子供みたいに笑って言った。
「メアリって、そういうとこあるよね」
リリーも笑って返した。メアリがメアリでよかった。アーサーの好きになったのがメアリでよかった。リリーは心底そう思った。




