第170話「男刑事」
6月30日、午前9時。
捜査本部のテレビには、朝から同じ映像が繰り返し流れていた。
『国家生殖資源庁の刑部長官が一連の男性人権侵害問題により辞職です!』
アナウンサーの声が熱を帯び、その意味の重さが伝わる。
「結局、刑事事件には出来なかったね。」
温泉卵の器を洗い終えた後藤が、食器カゴを机に置きながら呟く。
誰も否定しなかった。
刑部正美と一連の不正との直接的な刑事責任は、最後まで立証できなかった。
だが、それでも刑部は、長官を辞めた。
記者会見の映像の中で、刑部は疲れ切った顔で頭を下げている。
『資源庁として一部職員の職権乱用を止められなかった責任、自浄作用を正しく発揮できなかった責任、国民の信頼を著しく損なった責任、様々な責任の所在は私にあります。そのため、本日付で辞職いたします。』
その言葉は淡々としていたが、取り返しのつかない敗北の響きを持っていた。
テレビの画面が切り替わる。
『後任には、現・調査対策官である山崎澄玲氏が就任予定です。』
報道の声を聴き、後藤が吹き出す。
「まじ……!?」
驚愕している後藤の姿を見ながら、中村が苦笑する。
「完全に世代交代ですね。…係長は知っていたんですか?」
山崎は何も言わず、ただ腕を組んだまま、画面を見ていた。
ニュースでは、新長官の方針が報じられている。
『男性の処遇そのものを変更する予定はありません。しかし、不正な取り扱いが起こらないよう内部監視体制を強化に力を注ぎます。私はこれまで、国内外の様々な男性人権問題を見てきました。その経験を今後の組織運営に生かし、皆さまの信頼回復に努めて参ります。』
俺は、その言葉を静かに聞いていた。
世界は変わらない。
だが、見過ごされていたものは、もう見過ごされない。
確かに何かは変わった気がした。
テレビの下には、もう一つの速報が流れた。
<一連の男性人権侵害事件首魁 元管理対策官福田氏が起訴!>
それを見た後藤が低く口笛を吹く。
「福田も終わったな。」
そう、今日は起訴日でもある。
まるで今日という日が、そのために設定されていたかのようだった。
長かった事件が、ようやく法廷へ渡され、俺たちの仕事はここで一区切りを迎える。
山崎がテレビの電源を切ると、部屋が静かになる。
「検察官から余罪に関しての捜査も下命されてる。それに公判維持に必要な補充捜査が公判担当検察官から来るかもしれない。……まだこの案件は終わりじゃないぞ。」
淡々とした声で発せられたその言葉を聞いた瞬間、俺は不思議と肩の力が抜けた。
終わったわけじゃなく、ただ次の段階に進んだだけだ。
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夕方、久しぶりに明るいうちに庁舎の外に出る。
今日は梅雨明けと報じられていたが、まだ湿った夏の空気が広がっていた。
始まったばかりの俺の刑事人生、こんなにも密度の濃い時間になるとは思っていなかった。
共に庁舎を出た後藤が伸びをする。
「佐藤さ、今回の事件で辞めたいとか思わなかった?」
「何ですか急に、……一度も無いですよ。」
俺の声に面倒な感情が混じり、それを理解した中村が笑う。
「ですよね。根っからの刑事ですもんね。」
後藤が肩をすくめた。
「あたしはちょっとだけ思ったけど。」
「嘘ですよね。」
「ほんとだよ。ほんの3分くらい。」
それが何だかおかしくて、3人で小さく笑った。
山崎は少し離れた場所で、庁舎を見上げていた。
その姿は、もう刑事ではない誰かの背中のようにも見えた。
ふと、ある数字と倉橋の顔が頭をよぎった。
25 21 13 01
あのノートPCのPINコード、答えるときの倉橋の間は何だったのか。
理由を考えたことはなかった。
いや、考えないようにしていたのかもしれない。
意味に辿り着きかけた思考を、そこで止めた。
代わりに、別の問いが浮かぶ。
あの人は、俺を息子として愛していたのだろうか。
結局、聞きそびれてしまった。
そして聞く機会も、もう来ないだろう。
だが不思議と、答えを探そうとは思わなかった。
人は、すべてを知る必要はないのかもしれない。
小さな棘のような感情を抱えたまま生きていく。
それでいいと今は思えた時、背後で山崎が言った。
「最初から、……上は動いていた。」
振り返ると、山崎は庁舎を見たままだった。
それ以上は何も言わない。
山崎がこちらを向く。
「……6月は、今日で終わりだ。」
俺は空を見上げた。
事件は一つずつ終わっていく。
だが、社会は終わらない。
そして……俺の刑事人生も……終わらない。




