第169話「残心」
6月12日、午後6時02分。
捜査本部のテレビは、どの局に切り替えても同じ映像を流していた。
警視庁会見の切り抜き、御厨の発言、そして、繰り返される字幕。
<資源庁長官の責任 確認進む>
「完全に燃えたね……」
関係書類追送書をまとめながら、後藤が呟いた。
ニュース番組のスタジオでは、すでに事件という言葉は使われていなかった。
行政の責任、制度の欠陥、組織的職権乱用、男性の人権侵害問題等、扱いは、完全に国家問題だった。
『国家生殖資源庁は本日午後8時より緊急会見を行う予定です。』
キャスターの報道が流れた瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
山崎が短く「来たな。」と言う。
それは独り言だったが、全員が同じ意味を理解していた。
資源庁は逃げ場がなくなったのだ。
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資源庁の記者会見まであと2分となり、再び部屋は無言になった。
捜査員全員がテレビを囲んで立っている。
会見場の映像が映し出され、壇上中央のネームプレートには<国家生殖資源庁>の文字。
妙齢の司会が硬い声で告げる。
『ただいまより、国家生殖資源庁による記者会見を開始いたします。』
数秒の沈黙があり、数名が登壇した。
資源庁の広報責任者、福田を除く各対策官。
そして最後に、長官である刑部正美。
テレビ越しでも顔色が悪いのが分かるが、その姿勢は崩れていない。
席に着く前から、フラッシュが嵐のように瞬いた。
『現在、国民の皆様に多大なご不安を与えていることについて、深くお詫び申し上げます。』
後藤が小さく「謝ったね。」と笑う。
それは、流れが変わった合図だった。
『まず初めに、私自身が違法行為に関与した事実は一切ございません。』
想定通りの言葉を、乾いた声で刑部が言う。
『また、内部調査を実施し、その結果を国民の皆様にお伝えする所存です。』
刑部がそう言うと、すぐに質疑が始まる。
『長官の進退については。』
『内部調査は誰が主導するのか。』
俺には想定問答、予定調和の質問に見えた。
刑部は守勢だが、姿勢は全く崩れてはいない。
その時、後列から一人の記者が立ち上がった。
山崎が「…来た。」と言い、わずかに目を細める。
当てられた記者がマイクを持った。
『SK新聞の長谷と申します。…確認ですが、警察は本日、資源庁幹部による組織的関与の可能性を示しました。』
刑部の視線が揺れるが、構わずに長谷は続けた。
『長官は先ほど関与していないと断言されましたが……警察は既に、庁内文書の存在を把握していると聞いています。長官はその存在をご存じないのですか。』
捜査本部の空気が凍り、俺が思わず小さく呟く。
「……これは……御厨理事官…ですね。」
テレビの中の刑部が完全に止まり、隣の幹部が耳打ちしているが、もう遅い。
あまりにも沈黙が長すぎた。
『……個別の資料については、現時点で承知しておりません。』
記者席が一斉にざわめき、長谷はさらに追撃する。
『では、それは資料の存否が否定できないという理解でよろしいですね。』
刑部の表情が初めて歪み、見て分かるほど崩れた。
ニュース速報の音が鳴り、次々にテロップが流れる。
<資源庁 第三者委員会設置へ>
<資源庁長官 組織的関与文書の存在を否定せず>
ため息交じりに「第三者委員会って……」と、中村が呟く。
それに、「辞任までのカウントダウンじゃん。」と、後藤が答えた。
俺は画面を見続けていた。
刑部はまだ長官だが、その席が長くないと誰の目にももう分かる。
山崎が静かに息を吐いた。
「……終わったな。」
その声は勝利でも安堵でもなく、ただ、長い時間が一区切りついたという響きだった。
テレビでは会見が続いているが、もう誰も内容を追っていなかった。
勝敗は、さっきの沈黙で決まっていた。
後藤が背伸びをしながら言う。
「しかしさ……あの質問、完全に仕込んでたよな。」
中村が頷く。
「警察が庁内文書を把握してるなんて情報、記者の質問からは出てこないですよ。」
そんな2人のやり取りを受け、俺は無意識に山崎を見た。
山崎は腕を組んだまま、画面を見続けながら小さく言った。
「……警察だけじゃない。」
その一言で、部屋の空気がわずかに止まる。
「え?何て?」
後藤が聞き返したが、山崎はそれ以上説明せず、ただ短く続けた。
「……もっと前から動いてた人間がいる。」
その言葉だけで十分だった。
資源庁内部に居て、ずっと渦巻いていた闇を感じ取れた人物。
俺たちの最初の男性DBに対する緊急照会を察知し、それが資源庁内で問題にならないように隠蔽した人物。
資源庁に対する捜索差押えに協力的だった人物。
俺は点と点が、ようやく線になった。
中村も同じく気付いたらしく、小さく息を呑む。
「じゃあ……あの文書って…… 最初から、資源庁の中に味方がいたってことですか。」
やはり、山崎は答えず、画面から目を離さずに言った。
「資源庁の中に、もう警察の仕事は残ってない。私達は今手掛けている事件を確実に起訴まで持ち込み、公判維持を見据えた裏付け捜査をするだけだ。」
テレビではコメンテーターが興奮した声で話している。
『資源庁長官の進退問題は避けられないでしょう!政府の任命責任も問われる事態です!』
画面の下に、新しい速報が流れた。
<政府関係者 資源庁長官の進退「重く受け止める」>
後藤が小さく笑った。
「はっ…もう政府まで燃えてるじゃん。」
誰も否定しなかった。
窓の外は、いつの間にか夜になっていた。
長かった事件が、ようやく終わりに向かおうとしている。
刑事として、多くの人間を検挙したこの事案、あとはその風呂敷を畳むだけだ。
俺がテレビの電源を切ると、部屋が静かになる。
「解散だ。今日はもう皆上がろう。」
そう山崎が言うと、誰も返事をしなかったが、全員が動き始めた。
書類を片付け、椅子を戻し、いつもの捜査本部の夜が終わる。
俺たちは無言のまま出口へ向かった。
エレベーターを待つ短い時間、後藤がぽつりと言った。
「結局さ、あの人どうなるんだろうな。」
誰のことか、説明は要らなかった。
山崎は少しだけ考えるように視線を落とし、淡々と言った。
「もう決まってるよ。」
山崎の迷いの無い声に、「え?」と、後藤が振り向く。
しかし、山崎はそれ以上何も言わず、ちょうど開いたエレベーターに乗り込む。
中村が小さく言った。
「これで……突き上げ捜査は終わりですかね。」
誰もすぐには答えなかった。
沈黙のまま扉が閉まり、箱が静かに下降していく。
やがて山崎が口を開いた。
「刑事としての突き上げは終わりだ。……しかし、社会の事件は終わらない。」
山崎の声は、低くはっきりしていた。
その言葉は、事件の終わりではなく、俺たちの仕事の本質を示していた。
一階に到着し扉が開くと、夜の庁舎の空気が流れ込んでくる。
外へ出ると、六月の夜風が思ったよりも冷たかった。
後藤が伸びをしながら笑う。
「夏目前なのに、寒っ!」
「そこまでじゃ無いよ。」
中村が苦笑する。
2人の会話を聞きながら、俺は空を見上げた。
ものすごく長くて濃くて、そしてわずかな期間、自分が何者なのか不安になったり、突き詰められたりもした。
しかし、刑事を辞めたいと思ったことは一度もない。
むしろ逆だった。
そんなことを思った時、背後で山崎が言った。
「6月は、まだ終わってない。」
振り返ると、山崎は庁舎を見上げていた。
その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
俺は理由を聞く必要がない気がした。




