4. 食べない贈り物
ザシャが出ていった戸が、もう開く。椅子の上で背を伸ばしたけれど、入ってきたのは公爵ではない。料理長が椅子を引いた。
「大奥様、こちらへ。今、わたしの焼いた菓子もお持ちしますから、ちょいとお待ちくださいな」
小柄な老婦人が私の隣へ来る。背筋がぴんと伸びていて、衣装の裾を運ぶ足取りまで軽い。乾かした花の香りが、菓子の匂いに重なった。老婦人は箱を眺め、口元をほころばせる。
「待つ間にも菓子があるようだね。私はゲルトルーデ、ザシャの祖母。あなたが膝を選んだ娘ね? ずいぶん座りにくそうな椅子を選んだこと」
私は揃えた靴先を椅子の下へ引っ込める。
「オディリアです。膝は、座りにくくありません。あの、これは公爵さまが来てから、皆さまで開けようと思っていたのです。お兄様が、今お呼びに行っています」
大奥様の手が蓋へ伸びる。使いが箱の脇へ寄った。
「王妃さまは、下の段はオディリアさまだけにと開けて差し上げ、召し上がるのを見届けて空の箱を持ち帰るように、と仰せです」
蓋が開く。包みから広がる甘い匂いに、私の手まで浮き上がった。大奥様の手が焼き菓子へ近づく。私は自分の手を膝に押しつけ、声を張る。
「待ってください! まだ、どなたも召し上がらないでください。お祝いのお菓子でも、今は、お願いです!」
一周目、王妃として王宮の贈物部屋で扱った、フリデリケの実家の二重底の箱。その下段の菓子を食べた侍女は熱を出し、療養と告げられて奥へ下げられた。
同じ蓋の飾りが、卓の上で光っている。菓子はまだ、誰の口にも届いていない。私は箱へ身を寄せた。椅子の縁がお腹に当たる。それでも足りず、大奥様を見上げる。
「大奥様に見ていただきたいのです。食べないでください」
声の終わりが震えた。銀白色の結い髪が箱の上へ傾く。大奥様は小柄な体を寄せても、背を丸めない。菓子から離した空の手を、ひらひらと振る。
「菓子を食べに来たのに、見るだけ? 私の歯は見物のためについているんじゃないよ。この派手な飾りは、あの女の実家の好みだね。あそこの菓子は見た目だけ甘いのよ」
笑い皺を寄せ、菫色の目が私を覗く。私は箱の端を押さえた。指の先に、硬い角が食い込む。
「見た目だけでも、今は食べないでください! 別のお菓子なら、わたしの分を差し上げますから。なくなっても、わたしは平気です」
大奥様の眉が上がる。私の手から菓子へ、ゆっくり視線が往復した。大奥様は箱に触れず、こちらへ顔を向ける。
「まあ、取り分を差し出すほど? 平気と言うには、ずいぶん泣きそうな声だこと。では、何を見ろというの? 菓子の顔なら、もう見てるよ」
下の段が危ないとまでは言えない。なぜ知るのかまで言えば、あの寝床につながる。私は開きかけた口を閉じた。大奥様の皿は空のままだ。そこから目を上げ、言える言葉だけを押し出す。
「……理由は、お答えできません。でも、食べてほしくないのです。大奥様の目で、箱を見ていただけませんか? お願いします」
大奥様は菓子を包みごと卓へ出し、箱を裏へ返した。灯りを斜めに受けた底の継ぎ目から、紋章の端が覗く。大奥様がそこへ爪を添える。
「ほら、ここ。箱だけ立派なのは昔からあの家の癖ね。下の段まで見せてもらいなさい。隠れた飾りがあるよ。そんなに乗り出さなくても、箱は逃げやしないから」
私は椅子に座り直す。けれど、箱を押さえた手は離せない。
「……見つけてくださって、嬉しいです! そこも一緒に、見ていてくださいますか? わたしだけでは、見落としそうで怖いのです」
大奥様の笑い皺が深くなる。
「ええ。菓子をお預けにした分くらいは、付き合ってもらいますよ。あなたのお話にも、興味が出てきたから。まずは、その箱を見せてごらんなさい」
戸口でザシャが足を止めた。後ろから公爵が入り、裏返った箱を見る。私は使いへ場所を空け、卓に届くよう背を伸ばす。
「下の段を開けるところを、一緒に見てください。わたしだけにと命じられた物について、自分で伺いたいのです。あなたにも、見ていていただきたいです」
使いが箱の前へ立つ。その目が、私の空いた皿へ落ちた。
「私は召し上がるのを見届けに来たのでございます。開けて差し上げるよう、命じられたとおりに……」
私は皿を自分の方へ引く。使いの顔を見ようとすると、顎が上がる。
「中に何が入っているかも、お聞きですか? お聞きでないなら、一緒に確かめていただきたいです。開けるところから、見ていてください」
使いが首を横に振った。公爵が箱を起こし、その手を下段へかけると、使いは場所を譲る。
「中身については存じません。伺ったのは、下の段をオディリアさまにだけ開けて差し上げよ、ということだけでございます」
公爵が下段を開く。上より色の濃い菓子が現れた。包みごと菓子を除けると、底板の印が丸ごと見える。大奥様が示したのと同じ紋章だ。甘い匂いが鼻先まで届き、私は顔を背けた。毒なのかもしれない。けれど、匂いでは分からない。
公爵の手が蓋へ伸びる。私は箱の端を押さえていた手を引っ込めた。自分の膝に置いても、冷たさが消えない。公爵は蓋を戻し、大きな手で箱を覆う。
「これは私が預かる。誰にも食べさせないから安心しなさい」
私では持て余す箱が、公爵の手の下に収まっている。使いは空の手を下げる。
「……召し上がっていない以上、空の箱は持ち帰れません。お預かりになったと、ご報告いたします」
料理長が、贈り物から離れた場所へ皿を置いた。
「わたしが台所で作った方なら出せるよ。お嬢様、こっちは朝と同じ蜜の菓子さ。冷ましてから塗ったよ」
私は皿を受ける。今度は、知らない箱からの匂いではない。蜜のつやを見ているうちに、固く閉じていた口が緩んだ。私は皿を卓の真ん中へ寄せる。
「皆さまで分けましょう! 大奥様にも召し上がっていただきたいです。待っていただきましたから。こちらは、見るだけではありません」
菓子を配ろうとすると、ザシャが皿を押し戻した。私の前でぴたりと止め、残りの菓子を見る。
「自分の分まで渡す気か?」
私は皿を抱え込む。蜜の匂いが近くなり、お腹が小さく鳴った。ザシャから目をそらしたまま、私は菓子を残す。
「わたしも食べます。ここに残しておきますから。……平気なのと、欲しくないのは違うのです。差し上げるだけより、一緒の方が嬉しいです」
公爵が贈り物の箱を抱える。
「お前は、そちらを食べなさい」
私は頷き、大奥様にも皿を寄せた。大奥様は受け取った菓子へ歯を立てる。蜜のついたところを眺め、ゆっくり噛んでから笑った。目尻の笑い皺に灯りが溜まる。大奥様は菓子を持ったまま、私へ向き直る。
「面白い子。私の部屋に来なさいな。ふふっ」
無口な養兄ザシャも、毒舌の大奥様ゲルトルーデも、人を食うと噂の公爵家は、なぜか私のおねだりに全員が弱い。
私は残りの菓子を落とさないよう、皿を抱えた。大奥様の隣なら、もう座ってみたい。椅子から降りかけて、私は顔を上げる。
「今から伺ってもいいですか? お菓子も持っていきたいです。まだ、食べ終わっていないので。置いていくのは、もったいないので……」
使いは宮廷へ報告に戻ると告げ、空の手で退出する。私は公爵たちを食堂に残し、大奥様の後を追った。暮れの廊下は長く、灯りと灯りのあいだに影が溜まっている。皿が傾くたび、足が止まる。菓子を見ていると大奥様の裾が遠くなり、裾を追うと菓子が滑った。部屋の戸口で、大奥様が振り向く。その手が皿へ差し出される。
「皿はこちらへ寄越しなさい。そんな歩き方じゃ、菓子も部屋へたどり着く前に疲れてしまうね。あなたに食べられるのも楽じゃないこと。ほほほほ」
私は皿を差し出した。軽くなった両手の置き場が分からない。大奥様の空いた側へ、体も寄せる。菓子は渡せるのに、その先の言葉がなかなか出なかった。私は衣装の裾を握り、自分の分が載った皿を見上げる。
「あぁ、お菓子だけ連れていかないでくださいぃ」




