3. おかわりの頼み方
翌朝、家令に案内されて厨房の前まで来ると、甘い匂いが鼻をくすぐる。戸の隙間から流れる窯の熱は、頬まで届いた。足は勝手に戸へ向かうのに、昨夜の返事だけが口に残っている。私は立ち止まり、見上げる代わりに兄の袖へ声を落とす。
「お兄様、昨夜の名については、お答えできません。待っていただいているのに、すみません。黙ったままでは、失礼だと思うのですが……」
ザシャは返事の代わりに、私より先に戸をくぐる。奥には王妃の使いが立っていた。その姿を確かめる間もなく、ザシャの背中が間に入る。私を振り向く顔は、ずいぶん高い。
「先に食え。腹が鳴ってる」
言い返す前に、腹がまた鳴った。両手で押さえても、謝る気はないらしい。家令が朝の届けを入れていた袋を畳む。
「三月二日、縁組の届けを済ませてございます。こちらでは、王妃さまからお祝いの材料と手順を頂戴しております。仕上がりの検分にもお立会いいただきますので、届いた手順のとおりに作っております」
前掛けの料理長が、焼けた菓子に蜜を塗っている。太い腕には小麦の粉が白く残り、刷毛が動くたび、湯気に甘い香りが混じった。兄の横から覗き込むと、皿が私から遠ざかる。私と使いを見比べる料理長の目に、用意していた挨拶が小さくしぼむ。王妃の使いが、縁の崩れた菓子を示す。
「このような菓子ではオディリアさまをお任せできません。王妃さまのお祝いの品を崩してお出しするなど、大切なお預かりものへの心配りが足りません。料理長を替えるべきでございます」
料理長が皿を引き戻した。刷毛を握る手はそのままに、私ではなく使いを見る。
「作り直す前に、わたしの菓子を見て!」
一周目、王妃だった私が王家の台所を訪ねた時、蜜を塗る係は菓子が冷めるまで待っていた。急ぐ給仕が来ても渡さず、熱の抜けた表面を確かめてから刷毛を動かす。私が見たのは、それだけの手順だ。
目の前の菓子からは、湯気が上がっている。卓の向こうへ引かれた皿は、背伸びをしてもよく見えない。私はかかとを下ろし、使いへ顔を向けた。
「焼きたてに蜜を塗れと、どなたが命じたのですか?」
使いが襟を正す。
「王妃さまは、焼きたてに蜜を塗って出すように、と仰せです。お祝いの菓子でございますから、そのお言葉に従っていただかなくてはなりません」
私は、蜜のない菓子を指先で示した。こちらの縁は崩れていない。欲しい皿をねだる時のように見えないよう、腕を伸ばす。
「こちらを冷ましてから、同じ蜜を塗っていただけますか? 材料を替えずに比べてほしいのです。作り直してしまったら、今の菓子を見てもらえません」
料理長の刷毛が止まる。私の示す菓子へ目を移し、それからこちらを見下ろした。
「手順だけ替えるのかい? それなら比べられるさ。あんた、その皿は触らないでおくれよ。確かめる菓子がなくなっちまう」
いつの間にか伸びていた手を、私は背中へ回す。匂いだけでもおいしいのに、焼けた縁まで見えてしまう。背伸びなどしなければよかった。
「はい。確かめる菓子には手をつけません。……匂いには、もう負けていますが。熱い方も、そのまま残しておいてください」
窓から入る朝の光が、菓子の縁を白く照らす。待つうちに湯気が薄れ、蜜の艶だけが残った。料理長が皿を並べ、冷めた菓子に刷毛を滑らせる。刷毛が離れても、今度は縁が立っている。家令が身を屈めて見比べ、使いの前へ皿を寄せた。
「材料も作り手も同じ。異なるのは指定された手順でございます。こちらは形が保たれておりますので、料理長を替える理由にはいたしません。崩れた方と併せて、お確かめください」
使いは熱い方の皿を見つめている。刷毛から落ちた蜜が皿の端で光り、細く広がった。使いが肩を引く。
「……このまま王妃さまへご報告いたします。手順を替えたことも含めて、でございます。私の判断で省くことはできませんので」
料理長が私の前へ菓子を置いた。さっき遠ざかった皿が、今は小さな手でも届くところにある。料理長は私の腹の辺りを見て、口元を緩める。
「さ、食べな。足りなかったら、そうお言い。黙って皿を眺めたって、腹は膨れないよ。せっかくの菓子も、眺められるだけじゃ寂しいさ」
私は皿に触れられなかった。公爵家のことは何も知らない。この人が何を欲しいのかも。背中に回した手を戻しても、置くところが見つからない。
「私、食べてしまっても良いものでしょうか? その、王妃様ににらまれるようなことになってしまって、わたし……」
料理長が腰を屈める。さっきまで菓子を確かめていた目が、私の顔の高さまで下りてきた。
「そんなに困った顔をしなくていい。菓子は嫌いかい?」
首を振るより先に、涙が落ちる。皿に丸い跡ができてしまった。慌てて拭おうとしても、目の縁が熱くて、菓子の形までぼやけてしまう。
「好きです。食べたいです。でも……こんな面倒を持ってきた私でも、食べていいのですか?」
ザシャが黙って、自分の皿の菓子を一つ私の皿へ移す。断る言葉を探しているうちに、料理長が前掛けで手を拭った。その手で、さらに皿を近づける。
「疑って悪かったよ。王家の使いと一緒に、わたしを見に来たのかと……。けどね、今はわたしの菓子を好きだって子に、ただ食べてほしいのさ」
私は頬を拭う。泣いてしまっても、皿は遠ざからない。声を出そうと開いた口が震えた。
「……嬉しいです。嬉しいのに、涙が出ます」
料理長が小さな菓子を皿の手前へ寄せる。蜜のついていないところが、こちらを向いた。
「なら、何も考えず、まずそれを食べな。難しい言葉は要らないよ。泣きやむまで待たなくたって、食べられるさ」
かじると、蜜の薄いところがぱりりと割れる。泣いている口でも、甘い。頬の内側へ広がる味に、噛むのを少し休んだ。飲み込むのが惜しいのに、口は勝手に動いてしまう。残りまで食べてから、私は皿の向こうを見る。
「美味しい……。もっと食べても、叱られませんか? お行儀が悪いでしょうか?」
料理長が人形の形の菓子を持ち上げた。私の顔の前で、小さな頭が揺れる。
「公爵さまなんか、宴でわたしが焼いたこれを頭からかじったんだよ。それを見た人が、人を食うって騒ぎ出してね。人食いの噂なんて、そんなものさ! あの顔でかじるから、菓子の方まで気の毒に見えたんだろうよ。はっはっは」
私は目の前の小さな頭を見つめる。怖い噂にしては、ずいぶん香ばしい。ザシャが人形の頭を見て、こらえきれないように噴き出した。
「はは、父上、菓子にも容赦なしか!」
料理長まで窯の前で肩を揺らしている。私も笑おうとして、鼻が変な音を立てた。拭いた頬はまだ湿っているけれど、空いた皿なら持ち上げられる。差し出しかけて止まり、それでも私は腕を伸ばす。
「……おかわりを、お願いしてもいいですか?」
料理長が笑って皿を受け取った。焼き菓子がさっきより近くに置かれ、料理長の明るい声が降ってくる。
「はいよ、お嬢様!」
一周目に王妃として知った知識を使って、私は一つずつ公爵家での幸せな未来を作っていかなくてはならない。
家令は今日の確認を公爵に伝えに行き、使いも報告のため宮廷へ帰った。私の前には、料理長と兄と菓子が残る。皿を引き寄せると、蜜の甘い香りがまた鼻先まで届く。
夕刻、私は兄と食堂へ移った。窓の外は茜に染まり、長い卓に並ぶ灯りが、皿の縁で揺れている。大きな椅子の上で座り直しても、足は床に届かない。料理長の運んでくる皿を待つ私の前へ、戻ってきた王妃の使いが別の箱を置いた。
「王妃さまは、オディリアさまへ、改めてお祝いの菓子をお贈りする、と仰せです」
ザシャが使いから目を離さず、こちらへ屈む。私は膝の上で手を重ね、兄の耳へ顔を寄せた。
「お兄様、開ける前に公爵さまを呼んでいただけますか? 一緒に見ていただきたいのです。わたしだけで開けるのは、怖いです」
ザシャは箱へ目をやり、私に短く頷く。
「呼んでくる。ここにいろ」
兄が戸口を出ていった。空いた皿の向こうには、蓋の閉じた新しい箱。私は膝の上の手を、そこから動かさずにいる。




