2. 金貨と眠気
公爵は茶会の侍従を呼び、別室の父へ縁組の話を取り次がせた。夕刻、公爵邸で話すという返事が届く。馬車に乗る前、乳母から身の回りの品はあとで届けると聞き、実家へ帰る背を見送った。振り返った乳母が、目元を袖で押さえる。振りかけた私の手は、馬車が動いても下ろせない。
公爵邸は、噂よりずっと明るい。廊下の燭台には早くから火が入り、磨いた床に灯りが長く伸びていた。蜜蝋の匂いを辿った先の客間には、父がいる。横分けの栗色の髪を撫で、署名の場所へ身を屈めると、太い腹が卓を押す。家令は筆を離した。稽古帰りという少年も、耳にかかる焦茶の髪を払って卓を覗く。細身の脚には椅子が低そうなのに、私には座面さえ高い。公爵が私へ向く。
「息子のザシャだ。こちらはオディリア。縁組は、本人の意思を先に聞く」
父ディーボルトは、私が口を開くより早く卓へ腹を寄せた。私からは紙の端しか見えない。
「その前に、支払っていただく額を。王妃さまのお立替えは内定とともに消えました。このままでは、娘が困ります。娘の暮らしを案じる父の気持ちも、お汲み取り願いたい」
父は控えの上に手を置く。公爵は動かない。私の肩がすくむ。その肩越しに、父が公爵へ声を張った。
「これにある額だけでは足りませんぞ。娘のために整えた物もあります。当然、お含みいただきたい」
一周目、十九歳で王妃になった年、王宮で王家の支払控えを読んだ。茶会当日の父の借金。欄にあったのは父自身の借入で、娘の支度の金ではない。
今、父の手の下にある控えへ、私は背伸びした。数字は父の手に隠れて見えない。踵を下ろし、紙ではなく父の顔を見上げる。
「金貨三千と利子の六十。お父様の借金です」
父の手が紙をくしゃりと鳴らす。
「どこで知った? オディリア、父の話に口を挟むものではない! 黙って聞くようにと、教えたはずだ!」
私は卓の縁に手をかけた。声が細くならないよう、硬い木の角を握る。
「大きな声を出さないでください。出所にはお答えできません。ですが、お持ちの控えと確かめてください。わたしを叱るお話ではなく、借金の額のお話でしょう?」
父が身を乗り出す。中背の父も、今の私には壁だ。
「父に恥をかかせるつもりか? お前のためだと言っている! 何も分からぬ子が、大人の話に口を出すんじゃない!」
引っ込めかけた靴を、私は床に踏みとどめた。見上げる顔が熱い。
「わたしのためなら、わたしの知らないところで決めないでください! 分からないまま頷くのは、嫌です」
最後の言葉だけ、うまく声にならなかった。握った木の角は離せない。公爵が父へ手を差し出す。
「控えを。私の家令が確かめる」
父は紙を押さえ直してから、手放す。家令が折り目を開いた。紙の擦れる音を立てながら、家令は記された額を追う。
「三月一日、元金金貨三千、利子の六十。計金貨三千六十でございます。今のお話と一致いたします。控えにございますのは伯爵ご自身のお借入だけで、娘御の支度の項はございません」
父の黒褐色の目が紙から私へ戻る。張った頬が引きつれ、丸い顎が閉じた口へめり込んだ。やがて父は、公爵へ向き直る。
「……では、その額を立て替えていただきたい。娘も疲れております。話を長引かせず、先に済ませましょう」
私は卓から手を離した。手のひらに残る筋を衣装へ押しつけている間に、家令が貸付と養育の紙を分ける。
「こちらが養育の合意書でございます。両父君の署名とご本人の意思をもって、明朝、陛下へお届けいたします」
父の拳が、卓の端を叩いた。家令は紙の二枚目をめくる。
「届けから九十日は、実父より強制や偽り、王妃さまより先約を理由に異議を出せる取り決めでございます。その間も養育は公爵家、引渡しは陛下のご判断でございます」
父が私へ手を出す。宝石の重たい、見慣れた手だ。
「話は分かったはずだ。オディリア、帰るぞ。心配させるな。支度が済んでから来ればよい。勝手に決めては、お前自身が困るのだ。さあ、おいで」
その手の前を通り、公爵の側へ立った。黒い袖が近い。茶会の庭と同じ、冷えた風の匂いがする。私は袖に隠れず、父の方へ顔を向けた。
「わたしは、この家で暮らしたいです。今夜から。必要な物は、あとで届けてもらえます。……お父様のお家が嫌いなのでは、ありません。でも、きょうは、ここにいさせてください」
父は差し出した手を下ろし、私越しに公爵を見る。
「王家との先約もございます。娘を戻せば、王妃さまのお立替えのお話も元へ戻るでしょう。そうなれば、こちらのお借り入れの件も、その際は……」
公爵が貸付の紙を父の方へ向けた。
「返すのはお前の私財からだ。娘の帰還で借金は消えない。養育とは分ける」
家令が養育の合意書を広げる。父が筆を走らせ、公爵がその下へ名を書き入れた。家令は合意書を脇へ置き、公爵が向けた貸付の紙を父の前へ滑らせる。父は返済の欄に自分の名を書き、公爵家の支払指図の証文を受け取った。紙と紙の間には、磨かれた卓の面が見える。私の立つ場所も変わらない。父は控えと証文を持って帰った。家令が紙を揃える。
「お届けは明朝にいたします。本日はこの合意に従い、お客様のお部屋をご用意いたします。しばらく、こちらでお待ちくださいませ」
戸が閉まり、公爵とザシャと私だけになる。廊下を遠ざかる足音が消えるまで、私は戸を見ていた。公爵が私の高さへ顔を寄せる。
「王妃や父を責めたいのか? オディリア、顔を上げろ。お前は何を望む?」
責めたいかと訊かれて、すぐには答えられなかった。帰らずに済んだ靴先を見つめる。私は顔を上げ、言える言葉を選んだ。
「きょうのことにだけ、お返事します。先のことで、どなたも責めません」
公爵は私が言い終えるまで動かない。借金の控えがあった場所へ、静かに目を向けた。
「なら、今ある物を私が確かめよう。言えないことを、無理に言わせはしない。お前は、話せることを話せ」
私は膝を伸ばす。曲げたら、そのまま床に座り込んでしまいそうだ。
「理由には、お答えできません。それでもお伝えしたいことがあります。聞いてくだされば、お役に立てます。立ったままで結構ですから、お願いです」
公爵が大きな椅子を引き寄せた。座面は私の腰より高い。
「駄目だ。ここに座ってから話せ」
よじ登って座り直すと、床に届かない靴が宙で揃った。肘掛けも遠く、行儀よく座るだけで忙しい。私はずり落ちない場所を探しながら、口を開く。
「……まだ、お話は終わっていません。途中でお休みするために、座ったのではありませんから」
ザシャが椅子の脇へ回る。
「座ってても話せるだろ」
私は肘掛けを抱えた。名前で呼ぶには、まだ遠い。お礼なら言える。呼びたい、だけでは言えなかった。
「お兄様とお呼びしてもいいですか? 急に来たのに、ずっとここにいてくださるので。呼び方がないと、お礼も、うまく言えなくて……」
ザシャが直線的な眉を寄せ、金茶色の目で私の顔を覗く。
「いいけど、先にその眠そうな顔をどうにかしろ」
私は慌てて顎を上げた。許された呼び名が、言い返す言葉の間からこぼれる。
「眠くは……お兄様。わたしは借金の額も間違えません。自分が眠いかどうかくらい、分かります。公爵さまのお役に立てることを、きちんと……」
毛布が膝から肩まで上がった。干した羊毛の、日向の匂いがする。椅子との隙間まで柔らかく埋めるように、ザシャがその端を押し込む。
「目、閉じてるだろ」
公爵の強張った口元が、ふっと緩むのが見える。閉じていません、と返すはずが、毛布へ頬を預けていた。言葉を探す間にも、頬の下が温かい。
次に肩を揺すられた時、窓はもう暗かった。公爵の姿はなく、家令に呼ばれて出ていったらしい。寝室へ移るため、ザシャが燭台を持って立っている。私は毛布から顔を出した。
「……起きます。お兄様、お待たせしてすみません。ちゃんと、自分で歩きます。ですから、その、先に行きすぎないでください」
ザシャは燭台を掲げて先を歩き、戸口で振り返る。揺れる火が、少年の頬を半分だけ照らした。ザシャの声が低くなる。
「寝言で『フリデリケさま』『杯はいりません』って、どうして王妃の名が出る?」




